第七十話 断崖絶壁
「あぁ! すっごく楽しかったぁ! 学校ってこんなに愉快な場所なんですね」
学校からの帰り道、転入生黒金燈凛は薄暗い空に向かって両手を伸ばす。んー、と凝った身体をほぐすように両腕を大きく回しながら駅に向かった。
無理もない。一時間、早くて三十分なんて言ってたのに、トーリの腕前に感銘を受けた依頼者は次々とリクエストしてきたそうな。本来なら合奏する場にも関わらず独奏に発展、しまいには痺れを切らして様子を見に行ったわたしたちがトーリの手を止めたくらいだ。
しかし想定以上の時間でも依頼者もトーリも志保も終わった後はみんなほくほく。しまいには上機嫌な依頼者が「よかったらうちの部活に来て」とスカウトしたり、「えぇ〜、困っちゃいますねぇ〜」と満更でもない様子だったり、「この子はうちの新人なんだからっ!」と牽制していたり、それはまぁ賑やかだった。
そんな様子をわたしはニハハと笑みを浮かべてやり過ごす、が、ふと、デジャビュを感じる。
……こういうのは強く断っておかないと後々面倒になるぞ。けど一度転入生には痛い目に遭ってもらわないと学習しないだろう。
しかし今日は初日なんだ。あまりとやかく言うのはやめておこう。わたし自身口うるさいのはすっごく嫌いだし。じゃないと春夏冬雅みたいになっちゃう。
そして薄々気づいていたことだけど、特に指し示したわけでもないのに帰り道は一緒。志保はまっすぐ寮に帰宅しちゃったしどうしょう。少々気まずい。聞きたいことは山ほどあるのに最初の一歩が踏み出せない。
そんなこんなで気がつけば「東風公園前」についていて、家の前で「また明日!」と屈託のない笑顔を向けられる。
あぁ、わたしの悪い勘って絶対に当たるんだよな。今度厄落としでもしてこようかな。幸運を吸い取る疫病神がわたしの近くを彷徨いているのかも、なんて。
「たらいまぁ」
「遅かったな。転入生が暴れたか?」
「ジョーダン。その逆。大活躍だった」
帰ってきて誰かが家にいる日常にも慣れてきた。思えば自分は地上で暮らすようになってから、特定の誰かと共に過ごす生活なんてほとんどなかった。当たり前な話なのに、新鮮な気持ちになる。
夕食の準備をする雅は慣れた様子でキャベツを刻んでいた。今日のご飯はなんだろ。ご飯に味噌汁、袋に入っているのはお惣菜かな。想像するだけでグゥと腹の虫が騒ぐ。
「こら、覗く前に風呂に入ってこい」
「はぁい」
◇
「『カノン』に始まり『アルルの女』『小フーガ』『ボレロ』それから『G線上のアリア』に締めは『ラ・カンパネラ』ーー初日でソロコンサートは目立ちすぎ。ちょっと引いちゃったもん」
今日の夕食はとんかつ。白米に味噌汁なんて一人暮らしだったら絶対に作らない。わざわざお惣菜を買ってくるなら唐揚げをツマミに「おいしージュース」を一気に煽ってぐうたらするんだ。
あぁ、思い出したらひさびさにジュース、飲みたい。
雅が来てから一度も口にしてないんだよね。どうも自分は健康的で健全な生活が苦手みたい。
「ジュース?」
「へっ?」
「それならさっき買ってきたけど」
「……声に出てた?」
「バッチリ」
ついうっかり、一人だった頃の癖が出てしまう。一時期、寂しいからと独り言を口にしていた時期があった。冷静になってみると気味が悪い悪癖。なのですぐに治したけれど、たまーに無意識に声が漏れてしまうんだ。
……うん、気を抜かないようにしなければ。さもなくば洒落にならない事態に発展しそう。
怪しまれないよう、買ってきてくれたオレンジジュースを口にし、話題を逸らすように転入生の話をした。
今朝の悪い予感は的中してお隣さんだったこと。
どこか抜けていて、トンチキな部活に対してお熱になっていること。
そしてーー
「あれ、どっち?」
何の話かは皆までいうまい。
半日一緒にいただけではついているのかついていないのかわからなかった。それはわたしが地上に無知なだけ。だけど芝居のプロフェッショナルで数多の人間を観察し続けた雅ならわかるはず。だが、
「男の俺に訊くなよ。変装とかは女の専売特許だろう」
「関係あるか。それともなに? 役者なのに容姿とか身振り手振りで性別もわかんないんだ。へぇ」
気になるけどわざわざ詮索なんて、このわたしがすると思う? すこーしだけ煽れば調査を引き受けてくれるだろう、と軽い気持ちだった。
しかし争いの火種というのは簡単に燃え広がるようで、ちゃちな煽りが雅の琴線に触れてしまった。
急に「がたん」と荒っぽく茶碗を置く彼はこう言った。
「バラバラなんだよ。歪というかなんというか。変な言い方だけど男と女の骨格が混ざってる。下半身はほっそりしてて女性的なんだけど上半身に全く肉がなくてーー」
「ふむふむ。つまり胸が大きくないと女性ではない、と」
「違うわっ! 筋肉の話だ。俺がそんな性欲丸出しに見えるか? あのな、誰がクラスの中で一番女性っぽいかとか、美人だとか、俺が言い出してみろ。まずお前の親友が傷つくんだからな」
言われてみれば確かに雅の言う通り。軽い気持ちで尋ねたわたしがバカだった。
もし女性なら志保のお仲間ができた、と、和やかなオチになる。
けど転入生が男だったら……目も当てられない。だって断崖絶壁の志保がその、男以下ってことになってしまう。
安直に決めつけてみろ。あのちんちくりんの人権を傷つけることになるんだぞ。
男のプライドが小さな小さな子供を抹殺するわけにはいかない。
そんな正論がわたしの胸に突き刺さる。この話題は今後避けよう。むしろ雅の心意気にすこぶる関心してしまう。志保の人権を守るためにあえて公言しなかったなんて、存外にコイツは優しいのかも。
ほんのちょーーーっぴり見直した。
気持ちが楽になったせいか、ぐぅと腹の虫が大暴れ。さぁ、冷めないうちにとんかつたーべよっと。
食欲は元気の賜物。あのステージからしばらくは調子が悪かったけど、今は全然問題ない。アイツの忠告も杞憂だったのかも。そう思うとますますお腹がすいた。
勢いづいておかずに箸を伸ばすーーも、その勢いは一瞬にして刈り取られてしまった。
「……とんかつにかけるの出てないよ」
「ソースがあるだろう」
「ん? ポン酢でしょう」
「え」
「えっ?」
そこからわたしの記憶は曖昧だ。雅とはいろんなこともあった。おかげで雅の人となりも理解してきたつもり、だったけど、今回ばかりは出会ったばかりを思い出すーーコイツは正気なのだろうか。
「和風はポン酢かもしれないけど普通はソースだ」
「いっやいや、エリクサーのこと、舐めてる? とんかつでしょう、しゃぶしゃぶでしょう、それから豆腐に目玉焼き……」
「おい、まて。目玉焼きにポン酢、だと? それはお前がアウトローなだけ。常識の感性で語らないでもらいたい」
「あっ、そーですかっ。なら春夏冬雅くんはどうせソースなんでしょう? ツマラナイ男ね」
「ソース? のんのんのん……めんつゆ一択」
「めぇんつゆぅ? そっちの方がどマイナーだっ!」
春夏冬雅のとんでもない告白に鳥肌がたった。そこからどれだけの時間、どれだけの言葉、どれだけの否定を挟んだかは正直覚えていない。
ただ一日の締め、この日最後に雅が言い放ったのは、
「あったまきた! だったらどんな手を使ってでも転入生のナニを見つけてやるっ!」




