第9章:操縦桿と、瀬戸の夕凪
ザッバァァァァァンッ!!!
重量920kgの巨大な鋼鉄の塊が、背中から海面へと叩きつけられ、天地がひっくり返ったような規格外の水飛沫が来島海峡に上がった。
「やった……! ざまあみろ、筋肉ダルマ!」
私は指令コンテナの操縦席の中で、全身にぴったりと張り付いたインナースーツごと、大きく荒い息を吐き出した。
網膜レンズの向こう側、緑龍の視覚と私の視覚は完全に溶け合っている。むき出しになった四肢のチタン爪が海底の岩盤をガッチリと掴む生々しい感触、潮流が骨格の隙間をすり抜けていく刺すような冷たさ、そして大和の突進を受け流し、巨体を跳ね上げた瞬間の、筋肉と骨がミシリと軋むような暴力的なフィードバック。そのすべてが、ただのデータではなく私自身の皮膚感覚としてダイレクトに脳へ流れ込んでくる。
これが『量子亡霊』のオーバードライブ。
私の闘争心と、バイオリズム同調型AI『弐王』の処理能力が完全にリンクし、機体のスペックを限界のさらに限界までに引き上げている状態だ。
目の前の海面では、ひっくり返された大和が、船舶級ツイン・ハイドロジェットから不気味な泡と黒煙を吐き出しながら、必死に体勢を立て直そうともがいているのが見えた。その背後では、すべてのエネルギーを使い果たした四一の『黒麒麟』が、静かな波に揺られている。
「すごい……! ノゾミ先輩、視聴者が爆上がりですよ! コメント欄も悲鳴と歓声で滝みたいになってます!」
ドローンを操縦するコウメの、興奮で弾んだ声が遠ざかる意識の端で聞こえた。
黒麒麟が来島海峡のラージ・ノードを上書きしてくれたおかげで、スコアボードの数字は信じられないくらいに跳ね上がり、中国州の得点を抜き去っている。
【Day3 午後13:30 現在・途中経過スコア】
第1位:四国第一『黒麒麟』 48219pt
第2位:中国第一『大和』 46057pt
第3位:四国第二『緑龍』 44623pt
第4位:中国第二『海燕』 40236pt
「ノゾミ、まだ終わってないぞ! 息を抜くな!」
インカムから、カイトの鋭く張り詰めた声が飛んできた。
「ミライが来島を黒く染めたことで、黒麒麟の得点は中国州を逆転した。だが、我々はまだ足りていない。残り時間はあと2時間半。あのジュタロウとリサがこのまま大人しく負けを受け入れると思うか?あいつらが息を吹き返してスモール・ノードを拾い集めれば再逆転される可能性もある」
目の前にはコンテナボードに積み込まれる海燕と、黒麒麟の姿があった。両機とも満身創痍だった。
緑龍も大和の質量を力ずくで受け流した代償は大きかった。深夜、ホアが黒麒麟のメビウス合金の端材を使って補強してくれた骨格(T-Frame)こそ無事だったものの、その上を覆っていたカワシマ製の真新しいマットホワイトのプラスチック装甲の一部は、今の衝撃で剥がれて落ちてしまった。
「分かっとる! 私らが安芸灘でラージ・ノードをオーバーライトすれば決着するんやろ」
私はスロットルを握り直し、緑龍の機首を安芸灘の方向へと向けた。
安芸灘海釜。
瀬戸内海でも有数の、すり鉢状に深く抉れた海底地形。そこにラージ・ノードが眠っていた。
「安芸灘のノードは水深100mを超える。空隙制御プラスチック装甲を失った今のボロボロの骨組みで深海の圧力に耐えられる保証はないぞ!」
「耐えられるよ。トウマの作ったフレームやもん」
私は額に滲んだ汗を手の甲で拭い、ニカッと笑った。
さっきから変な汗が止まらない。気持ち悪い……。
私は頬を叩いて振り返り、海中で体勢を立て直し不気味な赤い光を再び放ち始めた大和の巨体を見つけた。
「それに、あいつがこのまま大人しく引き下がってくれるわけないし」
『来よったのう、トカゲ野郎ォォォッ!!』
オープン回線から、ジュタロウの怒りに満ちた咆哮が轟いた。通信のノイズ越しでも、彼がどれほどの屈辱と殺意を煮えたぎらせているかが肌を刺すように伝わってくる。
『ここは絶体通さん。ようもわしを投げ飛ばしてくれたのう! 深海じゃろうが地獄の底じゃろうが、おどれのその細っい首根っこ、絶対に噛み砕いちゃるけえ!! 』
大和のハイドロジェットが怒り狂ったような重低音を上げ、巨体がそのまま海中へと沈み込んでいく。あの機体はもともと多脚を使って潜水艦のように海底を這い回ることができるようだ。あの圧倒的な質量なら深海の水圧などものともせずに一直線に突き進んでくる。
「私たちも行くよ」
私は四肢を機体にピタリと折りたたみ、長大な尾をスクリューのようにくねらせた。
装甲が剥がれ落ちたおかげで、今の緑龍には浮力が弱くなっていた。高剛性トラス骨格(T-Frame)の重みだけが残り、水の抵抗をすり抜けるようにして、大和を追いかけて速度で深海へと潜行していく。
太陽の光が届かない、深く、冷たい群青の世界。
瀬戸内海とは思えないほどの急斜面を滑り降りるように、緑龍は安芸灘海釜の底を目指す。
水深50m、80m、100m…。
コンテナ内に赤い警告灯が明滅し、トウマの悲痛な叫びが響き続ける。
「水圧限界突破! むき出しの油圧シリンダーが軋んでます! ノゾミ先輩、水深100mでの水圧は1㎠あたり10kgですよ!? 装甲がない今の骨組みだけでこれ以上潜ったら、機体がペチャンコに潰れます!」
「もう少し……! あとちょっと!」
私は歯を食いしばり、きしみ声を上げる緑龍の体をさらに深く沈め込ませた。全身を万力で締め付けられるような幻覚の圧迫感が、インナースーツを通じて私の体にのしかかってくる。息が苦しい。肺が押し潰されそうだ。
暗闇の海底に、ぼんやりと輝く仮想の光の柱が見えた。
安芸灘海釜の底、すり鉢の最も深い部分に配置されたラージ・ノードだ。赤色に輝いていた。
大和はどこ?
視界が悪い。少しでも明るい方へとその緑色の光の柱へと移動しようとした、まさにその瞬間だった。
ゴォォォォンッ!!
真上から頭上の海水を丸ごと押し潰すような、暴力的な水流の塊が降ってきた。ジュタロウの大和だ。
あいつは斜面を降りてきたのではない。920kgの自重とハイドロジェットの推力を活かし、真上の海面からまるで巨大な隕石のように、一直線に急潜行して降ってきた。
深海という逃げ場のない空間で、真上から落ちてくる圧倒的な質量の暴力。
「くっ……!」
私は尾を激しく打ち付けて間一髪で真横へスライドした。直後、緑龍がさっきまでいた場所へ大和の八本の太い脚が叩きつけられ、海底の泥を爆発的に巻き上げる。視界が一瞬で茶色く濁った。
『深海なら俺の独壇場じゃけ!』
泥の煙幕の中から、大和の不気味な赤いセンサー光が光る。
『おどれみたいな骨だけのトカゲが、この水圧とわしの質量に勝てると思うなや!ここでおどれをスクラップにして、来島のラージ・ノードもわしらが上書きさせてもらうけえ!』
水深100mの泥の底では、地上のようなアクロバティックな跳躍も、俊敏な回避もできない。水の抵抗と凄まじい水圧がすべての動きを鈍らせ、大和の圧倒的なパワーが有利だった。
泥の煙幕の中から、二本の極太のアンカー『八岐』が魚雷のように射出され、緑龍の骨格をかすめて海底に突き刺さった。
「カイト! ノードの正確な位置!」
「右斜め前、距離15m! だが、大和が射線を完全に塞いでる!」
「こうなったら……力ずくでこじ開ける!!」
私は奥歯を噛み締め、弐王との同調率をさらに一段階引き上げた。
「トウマ!リミッター、全部切って!」
「正気ですか!? 深海100mでそんなことしたら、モーターの熱と周囲の水温の温度差で一瞬にしてショートしますよ!」
「いいからやって!トウマ。 緑龍を信じろ!自分を信じろ!」
トウマが半泣きになりながらキーボードを叩く音がインカム越しに聞こえ、直後、緑龍の機体から心臓の鼓動のような低いパルス音が鳴り響いた。
私は全身の筋肉を限界まで硬直させ、モーションセンサー越しに緑龍の四肢へ、機体が耐えうる最大値のトルクを流し込んだ。
『馬鹿が深海でわしと正面から力比べか!かかってこいやぁ!!』
ジュタロウが嘲笑し、920kgの大和が巨大な艦首を向けて突進してくる。巻き上げられた泥が乱気流のように渦巻き、圧倒的な水圧の壁が緑龍に襲いかかってきた。
まともにぶつかれば、装甲のないトラス骨格など一瞬でへし折られる。
だが、私は真正面から突っ込むと見せかけて、海底の泥スレスレまで緑龍の機体を沈み込ませた。
そして、大和が突き刺していたアンカーの極太チェーンの下を這うように潜り抜け、大和の腹の下へと強引に入り込んだ。
「もらったぁっ!」
私は緑龍の四本のチタン爪を上へ向け、大和の分厚い装甲の隙間――八本の脚の付け根にある駆動部の奥へガッチリと食い込ませた。そして同時に、緑龍の背中を海底の硬い岩盤に強く押し付けた。
『なっ……!?下から持ち上げる気か!?』
ジュタロウの驚愕の声が響く。
「私の緑龍を舐めるな!!!」
私はコンテナの中で、腹の底から咆哮を上げた。
バキィィィィンッ!!!
緑龍の黒いトラス骨格が、今度こそ本当にへし折れるかという凄まじい悲鳴を上げた。だが、折れない。トウマが何日も徹夜して魂を込めて組み上げたフレームは、大和の圧倒的な質量と深海の理不尽な水圧を、ギリギリのところで支え切った。
そして、海底の岩盤を支点にした、てこの原理とリミッターを解除したモーターの全トルクを一気に解放する。
深海での泥仕合。スマートなAIの演算なんて関係ない、純粋な意地と腕力のぶつかり合い。
私は全身のバネを使って、大和の巨体を斜め上へと強引に跳ね上げたのだ。
『ぐおぉぉぉっ!?』
ジュタロウの呻き声と共に、大和の八本の脚が海底の泥から完全に引き剥がされた。
バランスを崩した超重装甲の巨体が、深海の泥の中へともんどり打って転がっていく。海底に巨大なクレーターができ、周囲の海水が白く濁った。
「カイト、ノードは!?」
「そのまま真っ直ぐだ!」
その隙を見逃さず、私は緑龍の体を反転させ、泥の奥底で光り輝く仮想の柱――安芸灘のラージ・ノードの座標へと飛び込んだ。
「――オーバーライト開始!」
システム音声が鳴り響き、私の頭上に180秒の巨大なカウントダウン・ホログラムが浮かび上がる。
ここからは一歩も動けない。
『ふざけやがって……! トカゲ風情が、わしを見下ろすんじゃねぇ!』
泥の中から這い上がった大和が、怒り狂ったように再びこちらへ向かって巨体を向けてきた。
『なら、その場から動けないお前をアンカーで粉々に粉砕してやる!』
大和の肩部装甲が開き、巨大なアンカー『八岐』が射出態勢に入る。
まともに食らえば、エリア外へ吹き飛ばされてハッキングはリセットされるどころか、一撃でスクラップにされる。
「トウマ、装甲のパージ設定、まだ生きてる!?」
『えっ? はい、外装は吹き飛びましたけど、フレーム接続部のボルトは爆砕パージのコマンドを受け付けます!』
「よし! 左前脚と、尾部ユニットの半分を切り離して! タイミングは私が合わせるから、大和の関節にぶち込んで!!」
『はいぃぃっ!? 自分の機体をバラバラにする気ですか!?』
「いいからやって!こっちが 動けないなら相手を動けなくするしかない」
トウマの悲痛な叫び声がコンテナに響く。機体は彼の子供のようなものだ。それを自ら壊せと言うのだから無理もない。だが、迷っている暇はない。大和のアンカーが射出される前に狙いを定める。
「今だ、トウマ!!」
私の叫びと同時に、緑龍の機体から激しい発破音が鳴り響いた。
バシュゥゥン!
私が今まで自分の「左腕」として生々しく感じていた感覚が、唐突にブツリと切り離される。激痛にも似た喪失感がインナースーツを駆け抜けた。
パージされた緑龍の高剛性フレームの残骸が、海底の泥を蹴り上げるようにして射出された。それは、突進してくる大和の八本の脚の関節部へ、まるで強固な楔のように深く突き刺さった。
『ガガガガッ!? なんだ、脚が……動かねぇ!?』
ジュタロウの焦燥に満ちた声が響く。
「もう一発くらえ!!!」
今度は「尻尾」が射出されて、今度はハイドロジェットのスクリューへと吸い込まれていく。自らの体を切り刻んで放った、尻尾のフレームの一部は世界最強のメビウス合金に取り換えていた。
ガガガキ゚ィッッッ!!
金属と金属が激しくぶつかった。それは大和のスクリューのインペラを変形させてがっちりと食い込み、推進システムを沈黙させた。
もがけばもがくほど、大和はその圧倒的な自重ゆえに、安芸灘の泥の奥深くへと自ら沈み込んでいく。
「よし……計算通り」
私は全身から吹き出す汗と、左腕を尻尾を失った痛みに耐えながら、薄く笑った。
いよいよヤバいかも…。視界がフワフワしてる……。
海底の泥に足を取られ、関節に異物を挟まれて身動きが取れなくなった大和は、もはや私に触れることはできない。
頭上のカウントダウンが、静かに時を刻み続ける。
10秒、5秒、3、2、1……。
ピロロンッ!!!
光の届かない深海に、勝利の電子音が鳴り響いた。
安芸灘の海底深く眠っていたラージ・ノードが、私たちのライムグリーンに完全に染まった。
『――オーバーライト完了! 四二、安芸灘のラージ・ノードを獲得!』
AIアンナのアナウンスが響く。同時に、緑龍が水深百メートルの海底で確保した圧倒的な深さ(マイナスのZ軸)がシステムに反映され、先ほどの来島海峡の掛け算をさらに爆発的に増幅させた。
「……やった」
私は全身の力が抜け、コンテナの床に膝をついた。インナースーツを通して伝わってくる緑龍の鼓動も、虫の息のように弱々しくなっている。
無茶苦茶で、機体はボロボロだ。
でも、私たちは確かに、この深淵の戦いを制したのだ。
『ノゾミ! 浮上しろ! バッテリーが完全に切れるぞ!』
カイトの切羽詰まった声で、私はハッと意識を引き戻した。
――勝った。さあ、浮上しよう。そう思った瞬間だった。
『待て、まだだ終わっとらんぞ』
インカムから響いたジュタロウの地を這うような声と同時に、私の目の前のコンテナ内に、信じられないホログラムが展開された。
ふたたび、絶望の180秒のカウントダウン。
関節をロックされ、泥に沈んだはずの大和が、その強靭なアンカーを海底に深く打ち込み直し、私がたった今奪い取ったばかりのラージ・ノードに対して、再びオーバーライトを仕掛けてきた。
真っ暗な安芸灘海釜の底。水深100mの泥濘の中で大和の頭上に浮かび上がったカウントダウンの赤いホログラムが、冷酷に時を刻み始めていた。
一秒、また一秒。私たちの勝利を、貪り食うように数字が減っていく。
『……ようもわしを投げ飛ばしてくれたのう!』
オープン回線から響くジュタロウの声は、怒りと屈辱、そして勝負師としての異常なまでの執念が混ざり合い、深海の水圧さえも震わせるような重低音となって私の脳を殴りつけてきた。
『言うたろうが。深海じゃろうが地獄の底じゃろうが、おどれのその細っい首根っこ、絶対に噛み砕いちゃるけえ!!』
「そんな……まだ動けるの?」
画面の向こうの大和は、関節に緑龍のフレーム残骸を噛まされ、海底の泥の中に不格好に沈み込んでいる。だが、その肩部から放たれた強靭なアンカーは、岩盤の奥深くに突き刺さっていた。
『もう動く必要たぁねぇんじゃ。おどれにわしの巨体を押し出す力はもう残っとらんじゃろ?』
ジュタロウの嘲笑の通りだった。大和はその場から動けない。それはハッキング範囲内から一歩も動かないというオーバーライトの絶対条件を、最も強固な形で満たしてしまっていた。
「ノゾミ先輩! ダメです、制御系がオーバーヒートを起こしています!」
コンテナの中で、トウマの悲痛な叫び声がインカムを裂く。彼の前のメインコンソールは、限界を超えた負荷を知らせる真っ赤な警告ログの嵐で埋め尽くされ、文字通りサーバーの悲鳴のような高周波の冷却音が部屋中に響き渡っているはずだった。
「外装をパージしたせいで、深海の水圧が中枢フレームを直接締め付けています! これ以上負荷をかけたら、本当に中枢がへし折れてペチャンコになります! 今すぐ緊急バラストを解放して浮上してください!」
「ダメ……!!」
私は奥歯をガチガチと震わせながら、目の前の赤いカウントダウンを睨みつけた。残り時間はあとわずか。
「ここでオーバーライトし返されたら、私たちの勝ちは完全になくなる……! みんなの覚悟が、全部無駄になる!」
私は操縦桿を力任せに前に押し出し、一本しか残っていない前肢と、二本の足――すでに左前脚と尾の半分を失った、異形のアラバスターの獣を泥の中で這わせた。
緑龍の頭部ユニットを大和のひしゃげた関節部へと突っ込ませる。押し出せないのなら、引きちぎる。緑龍の強力な口を大きく開き、大和のギアに深く食い込んでいる自らのパージした左腕の残骸をガブリと力任せに咥え込んだ。
「うおおおおぉぉぉっ!!!」
私は全身のモーションセンサーを引き裂くような勢いで、操縦桿を渾身の力で手前に引き絞った。咥えた自らの腕をテコにして、大和の巨体をノードの判定から力ずくで引きずり出そうとしたのだ。
ズズ、ズズズ……。
海底の泥が激しく巻き上がり、緑龍の視覚モニターを茶色い闇が覆う。しかし、手応えが軽すぎる。足が足りない。尾のバランサーもない。三本の足だけで深海の泥を踏ん張ろうとしても、地面に力を伝えるための十分な支点が作れず、爪が虚しく岩盤を滑って火花を散らすだけだった。
「もうやめてください! 機体が止まります! 先輩の身体だって持ちません!」
トウマが涙声で叫ぶ。脳波の過同調を示す黄色いバナーが網膜レンズの端で狂ったように明滅し、私の視界をチカチカと遮る。頭が割れそうに痛い。耳の奥で、金属の軋む音が、まるで自分の骨の折れる音のようにリアルに響いていた。
「止まらんのよ……っ!」
私は血の味がにじむ唇を噛み締め、叫んだ。
「私はあの日……だから止まんなきゃ。 動き続ければ、絶対に落ちん!!」
止まっているものは、いつか崩れ落ちる。あの折れ曲がった巨大な骨のような古い橋のように。切り捨てられ取り残される。
だから、私たちは動き続けなければならない。この不便で、不確実で、熱い現実の世界を、ボロボロになりながらでも走り抜けなければならない。
「量子亡霊!!!」
私の魂の咆哮に呼応するように、緑龍の剥き出しの骨格の隙間から、かつてないほど濃密で、狂暴なライムグリーンの放熱光が爆発的に吹き荒れた。バイオリズム同調型AI弐王が、パイロットの理性をかなぐり捨てた闘争心を燃料にして、焼き切れかけた回路に莫大な過電流を流し込む。
『もう遅いわ! わしの勝ちじゃ!』
泥の闇の向こうから、ジュタロウの怒号が響く。
『おどれのその細い腕じゃあ、わしの巨体は一ミリも動かせんけえ! 地獄の底で、わしの足元に平伏しとけ!!』
大和の頭上のカウントダウンが「10」「9」「8」と一桁へ突入する。
「動けぇぇぇぇ、緑龍―――っっ!!!」
私は操縦桿をへし折らんばかりの力で引き、空間を烈しく蹴り上げた。
その瞬間。
バキィィィィィィンッ!!!!
水深100mの海底に、それまでのどんな衝撃音よりも生々しく、致命的な破壊音が響き渡った。
限界を超えた超トルクと水圧の万力に耐えかね、大和のチェーンを必死に踏ん張っていた緑龍の、唯一無傷だった右後ろ足のフレームが、根本から木っ端微塵にへし折れた。
「あ、っ……ぁあぁぁぁっ!!!」
凄まじい衝撃のフィードバックが私の神経網を直撃した。右足を根元から生きたまま引きちぎられたような、錯覚の激痛が全身を駆け抜け、私は操縦席の中で血を吐くようにのけ反った。
プツン。
世界から、光が消えた。
緑龍の全身を焦がしていたライムグリーンの輝きが、命の灯火が消えるように音もなく消滅する。
「システムダウン! クォータム・ゴースト、強制終了!! バッテリー残量、0.3%……メインパワー、喪失しました……っ!」
トウマの、完全に絶望しきった声が遠い世界のノイズのように聞こえる。
緑龍は、安芸灘海釜の冷たい泥の上に、力なく横倒しに崩れ落ちた。もう右前足と左後ろ脚の2本しか残っていない。尾もない。メインカメラのレンズには海底の泥がべっとりと張り付き、視界の半分が茶色い闇に塗りつぶされている。
もはや立ち上がるどころか、微動だにすることすらできなかった。
大和のカウントダウンが、暗闇の中で冷酷に最後を告げようとしていた。
3、
2、
1――。
カチリ、と、世界のすべてのネジが止まったような、奇妙な静寂が訪れた。
だが、オーバーライト完了を告げるシステムアラートは鳴らなかった。
網膜レンズの向こう、あとコンマ数秒で「0」になるはずだった大和の赤いカウントダウンホログラムが、不自然なノイズをまき散らしながら明滅し、次の瞬間、パッと、嘘のように跡形もなく霧散した。
「……え?」
私は、ゼコゼコと荒い息を吐きながら、泥にまみれたモニターを見つめた。
泥の煙幕の向こう。暗闇の中で不気味に赤くギラついていた大和の二つのセンサー光が、フッと、力なく消灯していた。船舶級ツイン・ハイドロジェットの重低音も、完全に途絶えている。
『……なんじゃと?動け、武尊!なんでここへ来て……動かんのじゃあッ!!』
オープン回線から、ジュタロウの、生まれて初めて怯えを孕んだような驚愕の叫び声が響いてくる。
「……計算通り。ようやくエネルギー切れか」
コンテナの奥から、カイトの確信に満ちた、低い呟きが聞こえた。
大和の巨大なメインバッテリーは、ジュタロウの強欲なまでの執念によって、最後の最後、本当にハッキングが完了するコンマ数秒前で完全に底を突き、干からびていた。
「……緑龍、緊急バラスト、開放」
私は、鉛のようになった喉を震わせ、消えそうな声でシステムに命じた。
トウマが「もしもの時のために」と、バッテリー回路から独立させて残してくれていた緊急用の圧縮空気弁が、プシューッという微かな音を立てて作動する。
一本足の、装甲を失った真っ白な龍の骸骨は、海底の泥を力なく一度だけ蹴り、水圧から解放されるようにして、無数の泡と共に海面へと向かって静かに、急浮上を始めた。
光の届かない安芸灘の泥の底には、エネルギーを失い、完全に機能停止した大和の巨体だけが、幽霊船のように静かに取り残されていった。
――ドッパァァァンッ!!!
海面へと顔を突き出した瞬間、まばゆい光が私の視界に飛び込んできた。
西の空は、すでに燃えるような、痛烈なオレンジ色に染まっていた。
真昼のぎらついた太陽に照らされていた瀬戸内の海が、今、三日間の祭りの終わりを告げるように、美しくも重々しい夕闇に包まれようとしている。
現在の時刻、15時20分。競技終了まで、残り40分。
「ノゾミ先輩! スコアは現在、私たちがトップです……!」
インカムから、コウメの、涙で完全にぐしゃぐしゃになった声が響いてくる。
「でも、まだ終わってません! 海燕が……中二の海燕が、まだ動いてます! 最後の悪あがきで、周辺のスモール・ノードを死に物狂いで拾い集めてます!」
画面の端に、コウメのドローンが捉えた遠くの海域の映像が映し出された。
あのプラチナブロンドの長い髪を振り乱し、完璧な鳥籠の女王として君臨していた棚海リサの『海燕』。おれたち黒麒麟の暴風を喰らってスマート・セイルをズタズタに引き裂かれ、百機のドローンもすべて失ったはずのその純白の船体が、予備の小さな水上ジェットの泡だけを頼りにして、海面を這いつくばるようにして走り回っていた。
プライドも、優雅さも、お人形の仮面もすべてかなぐり捨てて、彼女は最後の一秒まで、泥臭く食い下がっていた。
それだけじゃない。来島海峡の波間に浮かぶ、ミライの『黒麒麟』も同じだった。
バッテリーが底を突きかけているはずの漆黒の機体を、瀬戸内の激しい潮の流れと、機体自身の惰性(慣性)だけでわずかに滑らせ、手の届く範囲にあるスモール・ノードを一つ、また一つと黒く染め上げるために、執念の炎を燃やし続けている。
「……私たちも、行くよ!」
私は、猛烈な吐き気と全身の痛みに耐えながら、重い腕を上げて再び操縦桿を握り直した。
「もうやめてください! 緑龍の駆動系は完全に焼き切れてます! 先輩の神経だって、これ以上負荷をかけたら本当に倒れて意識が戻らなくなりますよ!」
トウマが、コンテナの床に膝をついたまま、泣きながらスピーカーに向かって絶叫しているのがわかった。
「うるさいっ……! あとちょっと、それまではお願い…」
私は一本しか残っていない前肢と、かろうじて残された後ろ足を引きずりながら、ボロボロになった緑龍を走らせた
「最後の一秒まで、一つでも多くのノードを獲ったやつが勝つんだよ!!」
全員がただ目の前にある仮想の光の柱へ向かって、ボロボロの腕を伸ばし続けている。
ただ純粋な、勝利への渇望だけが、瀬戸内の夕暮れの海を支配していた。
ピロン。ピロン。
私の視界が、激しいパルスノイズで白く点滅を始める。耳鳴りが酷くて、隣にいるはずのカイトやトウマの声も、遠い海の底の波音のようにしか聞こえない。
自分の狂ったようにドクドクと脈打つ心臓の音と、緑龍の、焦げ付いたモーターが立てる不規則な駆動音が、完全に重なり合って一つになっていた。
熱い。苦しい。息ができない。――でも、最高に楽しい。
あともう一つ。あの岩礁の先にある、小さな光の点を、うちのものに――。
そして…。
ピ―――――、ピ―――――、ピ―――――ッ!!!!
16時00分。
瀬戸内海全域の空を、そして仮想世界setouchiの全サーバーの空間を完全に引き裂くように、72時間に及ぶ死闘の終わりを告げる、長音の電子ホーンが鳴り響いた。
リアルタイム戦況マップが、システムロックを知らせる強烈な赤色のフラッシュに明滅し、島々を侵食し、複雑に交差していたポリゴンの陣地変動が、ピタリと、永遠に停止する。
『……Setouchi 72H。中四国地区予選、全競技日程、終了です!』
公式実況AIアンナの、まるで人間のように激しく熱を帯びて震える声が、世界中の何百万という視聴者たちに向けて響き渡った。
『選手の皆さん、本当にお疲れさまでした! それでは……最終確定結果を発表します!』
ドラムロールの凄まじい重低音のSEと共に、指令コンテナの壁一面のメインモニターに、これ以上ないほど巨大な数字が打ち出された。
【Day3 最終結果】
第1位:四国第二『緑龍』 51183pt
第2位:四国第一『黒麒麟』 50964pt
第3位:中国第二『海燕』 44597pt
第4位:中国第一『大和』 39738pt
「勝った……」
その数字を見た瞬間、私の中で、この3日間、いや高専に入ってからのすべての時間を支えていた限界の糸が、プツリと音を立てて切れた。
コンテナの中で、コウメが涙をボロボロと流しながら飛び跳ねて私に抱きつき、トウマがコンソールに突っ伏して大号泣し、カイトが静かに、本当に静かに右拳を握りしめてガッツポーズをしているのが、かすむ視界の向こうでぼんやりと見えた。
「やったね、みんな……」
私は、みんなに向かっていつものようにニカッと笑おうとして――そのまま、猛烈な眩暈の渦の中に引きずり込まれた。
インナースーツの各種センサーがパチパチと音を立てて強制シャットダウンされ、弐王とのリンクが完全に切断された瞬間、それまで麻痺していた猛烈な吐き気と、神経をハサミで切り刻まれたような凄まじい疲労感が、全身を鉄のハンマーで殴りつけるように襲ってきた。
「ノゾミ!?」
カイトの、お腹の底から絞り出すような焦燥に満ちた叫び声が聞こえたのを最後に、私の身体は操縦席から滑り落ち、意識は温かい、深い暗闇の底へと真っ逆さまに落ちていった。
***************************************** 私の名前は、久谷ノゾミ。
四国高専の4年生。来年には20歳になり、一応これでも成人を迎える。
周りの大人たちは、私が学校を卒業したら、すぐにお父さんの会社『カワシマ』を継ぐか、あるいはロボコンの実績を引っ提げて『クロサワ』のようなメガ企業にパイロットとして引き抜かれるんだろうと、勝手に噂している。 でも、私には20歳になって学校を卒業したら、絶対にやりたいことがある。
それは、世界一周の旅だ。
今の時代、網膜レンズ越しにARを繋げば、世界のどこにだって一瞬でアバターとして行った気になれる。AIがあらゆるノイズを消し去り、完璧に補正された美しくて綺麗な景色をいくらでも見せてくれる。 でも、それじゃダメなのだ。
気候変動と大災害――「地球規模の環境激変」を経験して、世界人口はかつての3分の1にまで減ってしまった。人類は点在する安全な「生存圏」に身を寄せ合い、効率化と最適化の名の下に今も生きている。
海面上昇で水没し、巨大なコンクリートの廃墟と化した旧首都圏。人が消え、AIと機械だけで動く極寒の大規模農業地帯。かつての瀬戸内海のように、橋が落ちて見捨てられた無数の島々。 この明るい過疎の時代において、人間が暮らせなくなった地域は、システム上はただの「空白地」として処理されている。
でも、そこには確かに、人間の生活があったはずなのだ。
南海大震災で、崩れた街の中で動けなかった人たちを映像で見た。私は立ち止まるのが嫌いだ。立ち止まるくらいなら先に飛び込んでしまいたい。 AIが不要なデータとして過去の景色を消去し、綺麗に上書きしてしまう前に。私がこの生身の足でそこへ行き、潮風のベタつきや、錆びた鉄の匂い、ひび割れたアスファルトの感触を、補正を外した自分の目でしっかりと見ておきたいのだ。
人間が暮らせなくなった地域にも、かつての生活の熱が、確かな命の痕跡が残っている。それを忘れてはいけない。最適化された世界が忘れてしまっても、私が記憶に残す。
こんな世界で私に何ができる?その答えを、自分の足で探しに行くんだ。
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