守り抜くもの
久しぶりに歩く通学路に懐かしさを覚え、物思いに耽っていると、ふと当時の記憶が脳裏をよぎった。
それと同時に、向こうから歩いてくる「俺」の姿を見つける。
ぽつんと一人で歩く、小学生の時の俺だ。
小さい頃の俺は、誰からも嫌われたくなかった。
みんなに好かれたかった。
だから、そのために自分を偽り、相手の喜ぶ反応を、相手の望むタイミングで返し続けた。
まるで、道化のように。
ショーが終われば誰からも相手にされなくなるピエロと同じように、当時の俺も、学校が終われば誰からも相手にされなかった。
だからなのだろう。俺が孤独を感じて、ただ自分の影を一人で見つめながら歩いていたのは。
今から、ちゃんと過去の俺と向き合わなければならない。
俺がいつか、心から誰かと笑い合えるようになるために。
「……なぁ」
俺は、静かに声をかけた。
その途端、子供の俺は瞬時に「笑顔」を顔に貼り付けた。
本当に楽しいわけではないと一目でわかる、歪な偽りの笑顔。
その表情を見ただけで、胸がキリキリと痛む。
「お前さ、そんなにまでして人と仲良くなりたいのか?」
「うん、そうだよ。だから僕、みんなが何を考えてるのか知りたいんだ。そうすればもっと仲良くなれるでしょ? そうすれば、僕はいつでもみんなと一緒にいられるから。一人で帰らずに済むから……」
そう言い放つ声が、だんだんと小さくなっていく。
子供なりに、必死に考えて、傷つきながら導き出した答えなのだろう。
そんな時に、これから言う言葉は少し酷かもしれない。
けれど、だからこそ、今ここで言わなければならないんだ。
「人の気持ちが知りたい、か。……言っとくぞ。人間の考えてることなんて、悪魔と大して変わらないぞ」
「え……?」
「口ではいいことを言ってても、心の中で何を考えてるかなんて分かったもんじゃない。誰かを傷つけるための陰口を平気で考えている、そんな奴らが人間なんだよ。心を読めるようになったって、ただ傷つくだけだ」
「じゃあ、どうすればいいの……?」
不安げな目で見つめてくる、子供の俺。
そんなもの、俺にだって正解は分からない。
けれど、これだけは断言できる。
「全員と仲良くなんて、そんなもん無理に決まってるだろ。さっさと諦めろ。時間の無駄だ。――いいか、そんなことよりも、もっと大事なことを教えてやる」
俺はしゃがみ込み、小さな俺の目を真っ直ぐに見据えた。
「それはな、お前が『裏切られたっていい』と思えるやつと出会うことだ」
「裏切られても、いい……?」
「そう。そいつにだったら、何をされたって構わない。そう思えるくらい大切なやつと出会うんだ。そしてな、お前が信じたやつだけは、どんなことがあったとしても最後まで信じてやれ。心が読めなくたって、信じるんだよ」
「裏切られてもいいと思える人に、出会う……?」
やっぱり、小学生の俺にはまだ難しかったらしい。
眉をひそめて首を傾げている。
まぁ、今はそれでいい。
「ふっ……まぁ、今は覚えておくだけでいいさ。いつかそんなやつに出会えた時に、お前の求めてたものの答えが、ちゃんと分かるはずだからな」
「う……ん。分かった……」
「じゃあな。精々がんばれよ。――未来で待ってるぞ」
背中を向けて歩き出す。
何が何だか分からないだろうに、それでもこっちの言葉を真っ直ぐ受け止めようとするのだから、やっぱり子供は純粋だ。
空を見上げると、夕暮れの赤が一層深まっていた。
それにつれて、足元の影も長く、濃くなっていく。
「よし、行くぞ。……時雨を救うために」
俺は一歩、強く踏み出した。
時雨の居場所なんて分からない。
けれど、彼女が孤独に泣いている場所なら、今の俺には分かる気がした。
時雨を見つけ出すのに、時間はかからなかった。
日の暮れかかった公園のベンチで、彼女はぽつんと一人、膝を抱えて泣いていた。
どうすれば、時雨を救えるのか。
そんな明確な答えは分からない。
ただ伝えたいんだ。
今の俺にできる精一杯の思いを、俺の言葉で。
「そこの綺麗なお嬢さん。……どうかしたか?」
俺はそう声をかけながら、彼女の隣にそっと腰を下ろした。
小さな時雨は驚いたように顔を上げ、涙に濡れた目を丸くした。
「……わたし、綺麗なんかじゃないよ。今日もみんなに『お前なんかキモいんだよ』って、『近寄るな、ブスがうつる』って言われちゃったの」
ぽろぽろと涙をこぼしながら話す時雨の目は、およそ幼い少女がしていいような暗い曇り方をしていた。
周囲が暗くなるにつれて、彼女の足元の影がより一層濃くなっていくのが分かる。
「いいや、お嬢ちゃんは綺麗だよ。……だって、そんな酷いことをされても、お嬢ちゃんはその人たちにやり返そうとしないんだろ?」
「うん。……だって、おんなじことしたら、みんなが傷ついちゃうから」
やっぱり、時雨は優しいな。
胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じながら、俺は言葉を続けた。
「だから、お嬢ちゃんは綺麗なんだよ。周りにどんな酷いことをされても、人のことを傷つけたくないって思って、自分の中の大切な芯を守り抜いている。それが綺麗じゃなくて、何が綺麗だって言うんだよ」
「優しくなんかないよ……だっていっつも泣いちゃって、先生たちに心配かけちゃうもん……」
もっと純粋に笑ってほしい。
楽しんでほしい。
無理なんかしないでほしい。
小学生の彼女には、こんな重い感情はまだ早すぎるんだ。
俺は、自分の出せる一番優しい声色で、彼女の目線に合わせて語りかけた。
「その涙はな、お嬢ちゃんがやり返すことなく、自分の大切なものを守り抜いた『証拠』だ。そんな綺麗なもの、我慢する必要なんてない。――今まで、本当によく耐えたな」
その言葉が引き金だった。
時雨の小さな肩が、大きく震え始める。
「わ、たし……ほん、とは……かな、しく、て……っ!」
「無理しなくていいよ。泣きたいだけ、泣けばいいさ」
俺がそっと背中に手を添えると、時雨は堰を切ったように泣き続けた。
あたりが完全に暗くなるまでずっと、優しい夜風が時雨の小さな体を包み込んでいた。
この温かさが、いつまでも彼女に降り注ぎますようにと、俺は心の中で祈り続けた。
「……ありがとう、お兄さん。もう、大丈夫だから」
どれくらいの時間が経っただろうか。
涙を拭った時雨がそう言ったので、俺はそっと添えていた手を離した。
「そうか。もう、我慢なんてするなよ。悲しいなら悲しいでいい、泣きたい時は思いっきり泣け。嬉しい時は、思いっきり笑え。いいな?」
「うんっ!」
時雨は、さっきまでの暗い表情が嘘のように、こくりと力強く頷いた。
「ねぇ、お兄さん。お名前は?」
「あ……」
しまった。
名前を聞かれるなんて、これっぽっちも想定していなかった。
ここで未来の名前を名乗るのは、たぶん良くない。
「……名乗るほどの者じゃございませんので」
ちょっとおどけてそう言うと、時雨は「ふふっ」と楽しそうに笑ってくれた。
よかった、これで誤魔化せたみたいだ。
「じゃあなお嬢ちゃん」
「うんばいばい! また今度ね!」
「次は『元気な姿』で会おうな」
「うん? そうだね、わたし泣いちゃってたもんね」
「それもあるな」
「それも? どういうこと?」
「こっちの話だよ。気をつけて帰れよ」
「うん、お兄さんもね!」
そう言って、小さな時雨はトコトコと嬉しそうに走り去っていった。
さて……と。
俺は一人、夜の公園に取り残された。
どうやって元の世界に戻ればいいのだろうか。
肝心な戻り方を、あの執事から聞いていなかった。
もしかして、俺は一生この過去の世界に取り残されたままなのだろうか。
背中に冷や汗が流れる。
「お疲れ様です、時也様」
そんな俺の心中を察したように、どこからか不意にあの冷徹な声が響いた。
「では、元の世界にお戻しさせていただきますね」
「ああ、頼む……!」
執事が指をパチンと鳴らす。
その瞬間、俺の視界は再びぐにゃりと歪み、酷い浮遊感と吐き気が襲ってきた。
俺はたまらず強く目を閉じる。
(どうか――時雨が元気になっていますように)




