覚悟
ピッ、ピッ……カチッ、カチッ……。
規則正しい機械の音が、この静寂を満たしている。
もう朝なのだろうかと思い、ゆっくりと目を開ける。
すると目の前には、見慣れた自分の部屋ではない、ベッドが一つだけ置かれた殺風景な景色が広がっていた。
あれ……? どうして今、わたしが病院にいるんだろう。
何も思い出せない。
そんなわたしの困惑が伝わったかのように、ちょうどコンコン、と控えめなノックの音が聞こえてきた。
「どうぞ……」
入ってきたのは看護師さんだった。やはり、ここが病院であることは間違いないのだろう。
ぼんやりとした頭でそんなことを考えていると、看護師さんは神妙な面持ちで口を開いた。
「時雨さん、主治医の先生のところへ来ていただけますか」
その言葉に、わたしはハッと状況を理解し、息を呑んだ。
そうか。
楽しかったあの夢の時間も、もう終わりなんだな。
これが夢の中の出来事なら、どんなに幸せだっただろう。けれど、コツコツと廊下を歩く自分の足音と、今も冷酷に音を刻む心臓が、嫌でもここが現実なのだとわたしに思い知らせてくる。
先生のいる部屋の前に着いた。病院という場所に似つかわしい、無機質なドアだ。
部屋に入ると、先生や看護師さんたちが、まるで苦虫を噛み潰したような顔をして待っていた。
「どうぞ、おかけください」
そう言い放つ先生の声のトーンだけで、これから話される内容がどれほど深刻なことなのかが伝わってきた。
なかなか目が合わず、長い沈黙が訪れたあと、先生は静かに告げた。
「実は、あなたの余命ですが――」
そこから先は、何も聞き取れなかった。
いや、わたしには聞こえなかったのかもしれない。
理解はしていたし、こうなることも覚悟の上だった。
でも、頭の中に浮かんでくる優しい思い出が、これで全部終わってしまうのだと思うと、どうしても自分が迎える運命を受け入れることができなかった。
ピッ、ピッ……カチッ、カチッ……。
気づいたら、わたしは自分の病室に戻ってきていた。
あれからのことは、あまり覚えていない。
ただ景色が淀んで、周りの音が遠くなって、胸の中に真っ黒くて重い錘がまた一つ増えただけだった。
今は、何も考えることができなかった。
どれくらい時間が経ったのだろう。
気づけば窓の外は、あたり一面が茜色に染まり始めていた。
学校は、もう終わっている時間かな。
学校……か。できれば、最期まで行きたかったな。
そうして、時也君とずっと一緒に――。
不思議と、彼を思っている時間だけは、心の錘が一気に軽くなる。
時也君が、この重さを一緒に支えてくれているのかな。
「会いたいな……」
そう思わず呟いた、その時だった。
廊下の向こうから、ダッ、ダッ、ダッ、と激しく走る足音が聞こえてくる。
それと同時に、ドンドン! と強いノックの音が病室に響き渡った。
随分と慌ただしいお医者さんだなと思いつつ「はい」と返事をすると、勢いよくドアが開いた。
そこに立っていたのは――額から大粒の汗を流し、肩で激しく息をしている時也君だった。
嬉しい、だけど辛い。
そんな複雑な感情が溢れて、思わず泣きそうになり、わたしは咄嗟に顔を背けてしまった。
「なぁ、時雨……」
「ん? どうしたの?」
なんとか明るい声を意識して、顔だけを戻す。
時也君は何度か口を開きかけたが、それが言葉として届くことはなかった。
けれど、限界だったわたしの鼻を啜る音が静寂を切り裂いたことで、その沈黙は終わりを告げる。
「……泣いてるのか? 時雨」
「嫌だな、何言ってるの? 泣いてなんかないよ」
ちゃんと明るく振る舞えているのか、自分でもわからない。
どうしても声が震えてしまう。
気づけば、動揺を隠すようにベッドの上で自分の両手を強く重ね合わせていた。
「なぁ、時雨!」
強い声に、思わず時也君の顔を真っ直ぐ見つめてしまった。
だって――時也君の声も、今にも泣きそうに震えていたから。
「もう、我慢しないでくれよ!」
「我慢なんて……」
「今一番辛いのは時雨なんだから! もう強がらないで、無理しないでくれよ!」
「だから、我慢なんてし、て――」
……だめだった。
もう、堪えきれなかった。
目から一気に涙が溢れ出して、止まらなくなる。
「本当は……本当はわたし、死にたくないよ……っ! これからも、ずっと一緒に居たかった……っ!」
「そんな諦めたこと言うなよ! ずっと隣にいてくれよ!」
「でも……っ、もう無理なんだよ……!」
「俺は、信じる」
涙で濡れた視界の先で、時也君の力強い目がわたしを捉えていた。その目を見ていたら、消えかけていた心に、少しだけ勇気がもらえるような気がした。
わたしは、涙を流しながらも、少しだけ笑顔を作った。
「なんで……時也君が、わたし以上に必死なの?」
「決めたから。約束したから。……ずっと時雨と一緒にいるって」
嬉しかった。
その一言だけで、本当に生きたいって、生きなきゃいけないんだって思えた。
また涙が出そうになったけれど、なんだかこれ以上は泣きたくなかった。
もう泣かないって、心の中で決めた。
「時也君、もうそろそろ帰らなきゃじゃない?」
なんとか体裁を整えて、今日はもう時也君を見送ることにした。
だって、これ以上時也君の優しさに触れていたら、また涙が溢れてきてしまうから。
「ああ……そうだな。じゃあ、今日は帰るよ」
時也君は、病室のドアに手をかけ、最後にもう一度こちらを振り返った。
「一緒に生きような、時雨」
「うん、ありがとう。時也君」
お別れの時は、今度は素直に笑えたと思う。
さっきまで失われていた世界の色が、ほんの少しだけ、戻ってきた気がした。




