第70話(終)名前の無い令嬢の、名前
その日の朝、王城の最上階にある着替え室の窓からは、透き通るような青空が広がっていた。
ルカ=フォン=エデルハインは、鏡の前に静かに座っていた。
背後では、メイドのエマが震える手でルカの亜麻色の髪を丁寧に整え、真珠の髪飾りを挿している。──だが、エマは先ほどから、ずっと鼻をすすり、ボロ泣きしていた。
「ルカ様……ルカ様……っ!」
「エマさん、泣きすぎです。手が震えてブラシが頭皮に刺さっていますよ」
「だって、だって……! ルカ様が、信じられないくらいお綺麗で……! 私、生きててよかったです!」
ルカは苦笑しながら、扉の前で直立不動で控えている執事に視線を向けた。
「クラウスさんは平気ですか?」
「……私は全く問題ございません。エデルハイン様。ただ、どういうわけか、今朝は目に大きなゴミが、両目に同時に入り込んでしまいましてね。……少々、視界が滲んでいるだけです」
クラウスは、完璧な姿勢のまま、ハンカチで目元を交互に押さえた。
(両目に同時にゴミが入ったんですね。しかも執事生活四十年のベテランが。……ふふっ、本当にありがとうございます、お二人とも)
ルカの胸の奥に、言葉にならない温かいものが満ちていく。
最後の仕上げを終え、エマが涙を拭いながら「完璧です、ルカ様」と胸を張った。
ルカは、鏡に映る自分をじっと見つめた。
豪奢な純白のドレス。磨き上げられた真珠。表情はいつもより少しだけ大人びていて、けれど、瞳の奥にある飾らない真っ直ぐな光は、あの頃と何も変わっていなかった。
攻略本に名前すら載っていなかった令嬢が。
今日、この世界で、誰よりも祝福された大切な一日を迎えている。
(……来てよかった。本当に、この世界に、来てよかったな)
ルカは心の中でそう呟き、ゆっくりと立ち上がった。
*
婚約式の会場。
王城の、陽光が燦々と差し込むガラス張りの大広間。
正面の祭壇の前には、背筋を伸ばし、軍服の礼装を纏ったグレアムが静かに立っていた。
扉が開き、ルカが入場する。
その瞬間、大広間に集まった高位貴族たちの間で、静かな吐息が漏れた。
グレアムは、歩み寄ってくるルカを見つめ──一瞬、完全に、言葉を失ったような顔をした。普段、どんな戦場でも眉一つ動かさなかった氷の公爵が、ただ呆然と、ルカから目を離せないでいる。
「……閣下。何か言ってください、もの凄く緊張するんですから」
ルカが、彼の隣に並んだ瞬間に小声で囁くと。
グレアムは、赤くなった耳の先を隠すように軽く咳払いをし、低く、掠れた声で言った。
「……綺麗だ」
「……ありがとうございます」
ルカは、一気に顔が熱くなるのを感じながら、深く頭を下げた。
会場の片隅では、立会人として威厳を保とうとしているルシアン王太子の隣で、リリアナが早くもハンカチを握りしめて目を潤ませていた。
少し離れた場所では、セシリアが扇子で口元を隠しながら、アメジストの瞳をひどく優しく細めて二人を見守っている。
最後列では、クラウスとエマが並んで立ち、エマは相変わらず号泣し、クラウスは再び「目にゴミが入った」と言ってハンカチを当てていた。
(この大好きな人たちが、全員、ここにいる。……攻略本には、こんなに優しくて誇らしい場面は、どこにも書いていなかった)
式は厳かに進行していく。
ルシアンが立会人として前に進み出た。
「では、エデルハイン令嬢に、最後の一言を──」
言いかけて、ルシアンはハッとしたように口を噤み、小さく笑った。
「……いや。もう、エデルハイン令嬢ではないな。失礼した」
会場のあちこちから、ドッと温かい、小さな笑い声が湧き起こった。
「殿下、式の最中ですよ」
リリアナが小声で窘めると、ルシアンは「……すまない」と少しだけ照れくさそうに頭を掻いた。
*
そして、式の核心。
グレアムが、ゆっくりとルカに向き直り、彼女の両手を自らの大きな手で包み込んだ。
「ルカ」
「はい」
「お前に──私の名前を、渡したい」
グレアムの、深く、一切の迷いのない青い瞳が、ルカの魂を射抜く。
「ヴァルトシュタイン、という名前を。……生涯、お前と共に背負うために」
「……はい。喜んで、受け取ります」
ルカは、真っ直ぐに彼を見つめ返した。
「この世界で、私が自分の足で歩んで、手に入れた大切な名前として」
グレアムは、ルカの言葉に、嬉しそうに、そして誇らしそうに目を細め。
深く、深く頷いた。
「……よし」
たった、二文字。
けれど、その不器用な「よし」という言葉には、グレアム=ヴァルトシュタインという一人の男の、ルカに対するすべての愛と覚悟が、凝縮されて込められていた。
(名前のない令嬢が、名前を持った。……ヴァルトシュタイン。攻略本には絶対に載っていない、私の新しい名前。でも、この名前は──私が、この世界で愛され、生きた証だ)
式が終わり、祝福の拍手が鳴り響く中、セシリアがゆっくりと歩み寄ってきた。
「おめでとうございます、ヴァルトシュタイン公爵婚約者様。……これからは、何とお呼びすればよろしいかしら?」
セシリアが、少しだけからかうように言うと、ルカは笑って答えた。
「ルカと呼んでください。名前は変わっても、私は私ですから」
「……そうですわね。ルカ嬢は、ルカ嬢ですわ」
セシリアは満足げに頷いた。
「エデルハ──いや、ヴァルトシュタイン夫人?」
ルシアンがまだ慣れない様子で声をかけると、ルカは即座に訂正した。
「まだ夫人ではないです、殿下」
「……では、ルカ嬢で」
「ルカ様ぁぁぁ……っ!」
リリアナが再び突撃してきてルカの胸に飛び込み、涙でドレスを濡らした。
「泣きすぎです、リリアナ様。ドレスがびしょびしょですよ」
「だって、本当に嬉しくて……!」
賑やかで、騒がしくて、愛おしい時間。
グレアムは、ルカの隣で「……賑やかだな」とぽつりと呟いた。
「閣下が、ご自分で呼んだ人たちですよ」
ルカが笑って言うと、グレアムは少しだけ顔を背け、
「……そうだな」
と、その厳しい口元を、今日一番の優しさで、ふわりと和らげたのだった。
*
その日の夜。
男爵邸の自室に戻ったルカは、机に向かい、古い日記帳を開いた。
羽ペンをインクに浸し、最後のページに文字を綴る。
『今日、私は名前をもらいました。
ヴァルトシュタイン、という名前を。
でも。私はこれからも、私です。
公式の攻略本に名前すら載っていなかった、ただの背景が。
今日、この世界で一番大好きな人の婚約者になり、名前を持ちました。
モブだったから、関わらないように必死に逃げようとしました。
モブだったから、あの夜会でローストビーフを喉に詰まらせて咽せました。
モブだったから、そんな私を、グレアム閣下が助けてくれました。
全部、私がモブだったからこそ、始まった物語です』
ルカは一度ペンを止め、自分の指に光る、ヴァルトシュタイン家の家紋が刻まれた指輪を見つめた。
あの日の失敗が。あのみっともない咽せ方が。
今、この幸せな結末へと、一本の美しい奇跡の線となって繋がっている。
『だから。
私は、モブでよかったと、心から思います。
攻略本に載っていない令嬢で、本当によかった。
この世界に来て、よかった』
書き終えて、日記をそっと閉じる。
(前世の私が読んだら、絶対に『嘘つき。そんな都合のいい夢小説みたいな話があるわけない』って、鼻で笑うだろうな)
でも──これは、夢なんかじゃない。
ルカが、この世界で必死に生き抜き、大好きな人たちを守り、守られて手に入れた、たった一つの現実だ。
*
「……まだ、起きているのか」
静かな書斎の扉が開いた。
入ってきたのは、少し着崩した軍服姿のグレアムだった。
「あ、閣下。はい、最後の日記を書いていました」
「何を書いたんだ」
グレアムがルカの隣に腰を下ろし、ルカは日記帳を胸に抱きしめながら、少しだけ照れくさそうに微笑んだ。
「……モブで、本当によかった、と書きました」
「……そうか」
グレアムはそれだけ言い、ルカの肩をそっと抱き寄せた。
「閣下も──私がただのモブで、本当によかったと思いますか?」
「お前が『モブ』でなければ、あの夜会でローストビーフを喉に詰まらせて咽せなかった」
「……やっぱりそこですか!」
「咽せなければ、私はお前を見つけられなかった。だから──お前が『モブ』で、本当によかったと思っている」
ルカは、彼の胸に体を預け、深く、深く頷いた。
「はい。私も、本当によかったです。……閣下」
「なんだ」
「私──今、もの凄く、幸せです」
グレアムの動きが、一瞬だけ止まる。
彼はルカの髪にそっと触れ、不器用に、けれど絶対に変わらない確信を込めて、低く囁いた。
「……私も、同じだ」
二人の間に、静かで、冷めることのない温かな時間が流れていく。
窓の外には、いつもと同じように、静かで美しい王都の夜景が広がっていた。
「……そろそろ寝ろ。お前は、いつも夜更かしがすぎる」
「はいはい、今寝ますよ」
ルカは笑って答え、机の上のランプの灯りをそっと吹き消した。
王都の夜が、静かに、優しく続いていく。
攻略本に載っていなかった令嬢は、攻略本に載っていない物語を生きた。
モブだったから始まった旅が、今日──名前とともに、新しい旅へと続いていく。
攻略本には載っていなかった令嬢が、王国で一番幸せな公爵夫人になった話を、いつかゲームにしてほしいと思う。
これにて本作は完結となります!
皆様、長らくご愛読いただきありがとうございました!
感想や評価をいただけると、今後の執筆活動の励みになりますのでぜひお願いいたします!
次回作もお楽しみに!




