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ローストビーフにむせただけで氷の公爵に溺愛されました。〜攻略本に載っていない社畜令嬢ですが、最強の二人に独占されて平穏な隠居生活が崩壊した件〜  作者: 成瀬 一
第六章 名前のない令嬢の、名前

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第69話 ここにいます、ずっと

 秋の冷たい夜気が、公爵邸の庭園に咲き誇る白い薔薇の香りを、しっとりと運んできた。


 ルカ=フォン=エデルハインは、一人、満天の星が瞬く夜空を見上げて立っていた。


 明日──


 ついに、正式な『婚約式』が執り行われる。


 攻略本に名前すら載っていなかった「名もなき男爵家の三女」が、正式に「ヴァルトシュタイン公爵の婚約者」という、この国で最も重く、眩しい名前を手に入れる日。


(……最初は、本当に、ただ逃げ出したかっただけだったな)


 ルカは、窓から差し込む星明かりを見つめながら、ぽつりと胸の中で呟いた。


 あの最初の夜会。ローストビーフのあまりの美味しさに咽せて、静まり返る会場で盛大に咳き込んだ瞬間、頭の中は『頼むから今すぐ帰らせてくれ!』という全力の現実逃避で埋め尽くされていた。


 その頃の自分が、ひどく遠い昔のことのように思える。


 けれど、ルカはあの「逃げたかった」という臆病な感覚を、決して忘れてはいなかった。


(あの時、本気で逃げたいと怯えていた私がいたから。……だからこそ、今の『この世界に、この人の隣に、ずっといたい』という私の決意が、本物なんだって、確信できる)


 逃げ道を探し続けた社畜の旅路は、今夜、ようやくその終着点に辿り着こうとしていた。


   *


 ルカは目を閉じ、これまで積み重なってきた記憶の断片を、静かに、愛おしそうに辿り始めた。


 ローストビーフで盛大に咽せた、あの始まりの夜。


 グレアムに「同伴者になれ」と無愛想に言われた、公爵邸の朝。


 レオナルトが「最初からいましたよ」と、完璧な笑顔を浮かべて自分の隣に現れた、いくつもの夜会。


 セシリアが「悪役のまま終わらずに済んだ。それだけで十分」と、不器用な笑顔を見せてくれた図書室。


 ルシアン王太子が「あなたはすでに、この国の歴史の一部だ」と、真っ直ぐな瞳で告げてくれた廊下。


 リリアナが、ルシアンの「共に立ってくれるか」というプロポーズに、涙目で「はい」と答えた中庭。


 そして。


 グレアムが「お前に何かあれば、私がどうかしてしまいそうだ」と、顔を背けて絞り出した夕暮れの執務室。


 寝込んでしまった私のために、不器用にクッキーを焼き、花瓶に水を替えて待っていてくれた、あの日々。


「いた。それでいい」と言って、私の存在そのものを、丸ごと肯定してくれた静かな夜。


「お前がいる場所が、お前の名前(居場所)になる」と、私の手を握りしめてくれた、咲き誇る薔薇の庭。


(これだけのことが……。攻略本に一行も載っていなかった、一人のモブ令嬢の物語に、こんなにもぎっしりと詰まっているなんて)


 ルカのヘーゼルアイから、じわりと温かいものがこぼれ落ちた。


(攻略本には、こんなに濃くて、こんなに泥臭くて、こんなに愛おしい令嬢の話なんて、どこにも書いていなかった。……当然だ。私はモブだったから。でも──)


 ルカは目を開け、涙をそっと拭って、王都の夜空を見上げた。


(私は、今。ここに、確かに生きている)


   *


「こんな夜中に、何をしている」


 背後から、低く、聞き慣れた愛おしい声が響いた。


 ルカが振り返ると、いつもの黒い外套を羽織ったグレアムが、静かに歩み寄ってくるところだった。


「閣下。起きていたんですか?」


「お前が部屋にいなかったからだ」


 グレアムはそう言って、ルカの隣に並び、同じように夜空を見上げた。


「……心配してくれたんですか?」


「当然だ。明日は大事な式がある。お前が風邪でも引いたら、私が困る」


(『私が困る』。……相変わらず、そういう不器用な心配の仕方しかできないんだから)


 ルカはくすくすと笑いながら、彼の隣にそっと体を寄せた。グレアムは何も言わず、自分の外套を少し開き、寒そうにしていたルカの肩を包み込むように抱き寄せた。


 温かくて、大きな腕。


 しばらく、二人の足元で薔薇の葉が揺れる音だけが聞こえていた。


「閣下。……一つ、聞いていいですか」


「なんだ」


「私が──この世界に来て、本当によかったと、閣下は思いますか?」


 ルカの問いに、グレアムは呆れたように小さく息を吐いた。


「何度目の質問だ、それは」


「最後に、確認したくて。……明日、正式な婚約者になる前に、どうしても閣下の口から聞きたいんです」


 グレアムは、しばらくの間夜空を見つめて沈黙していた。


 やがて、彼はゆっくりとルカを見下ろし、その深い青い瞳に、すべての熱を込めて静かに語り始めた。


「……お前が来なければ、私は今も、あの冷え切った雨の夜を、たった一人で後悔に塗れて過ごしていただろう。書斎の花瓶には花などなく、市場の串焼きの美味さも知らず。……お前に何かあれば『どうかしてしまいそうだ』と思うほどの、愛おしい感情を知ることもなく、ただ死ぬのを待って生きていた」


 グレアムの手が、ルカの頬にそっと触れた。その無骨な手のひらが、ひどく温かい。


「よかった。……お前が来てくれて、本当によかった。それだけは、私の魂にかけて、絶対に変わらない事実だ」


 ルカの瞳から、再び大粒の涙が溢れ出した。


「……私も、よかったです。閣下に会えて。この世界に来て。あの日、ローストビーフで咽せて……本当に、全部よかったです」


「……この期に及んで、ローストビーフの話を出すな」


「事実ですから、仕方ありません!」


「……強情な奴だな、お前は」


「閣下もですから」


 ルカが涙を拭いながら言い返すと、グレアムは喉の奥で優しくククッと笑い声を漏らし、彼女の額にそっと自分の額を重ねた。


 夜の庭園に、二人の幸せそうな、静かな笑い声が溶けていく。


   *


「……そろそろ戻れ。明日、式がある」


 グレアムが、名残惜しそうにしながらも、優しく促した。


 ルカは「はい」と頷いたが、彼の外套に包まれたまま、一歩も動こうとはしなかった。


「どうした」


「……もう少しだけ、こうしてここにいていいですか。閣下の隣に」


「……ああ」


 グレアムの、この物語の中で一番静かで、深い『ああ』という肯定。


 二人は再び並んで、同じ星空を見上げた。


「閣下」


「なんだ」


「私──ここにいます。これから先も、ずっと」


「……知っている」


 グレアムは、包み込んだルカの手を、さらに強く握りしめ、囁いた。


「いなくならないでくれ。……ずっと、私の隣にいろ」


「はい。……ずっと、ここにいます」


 かつて逃げ出すことしか考えていなかった、名前すらなかったモブ令嬢は。


 今日。


 満天の星空の下で、自らの確固たる意志を込めて。


 『私はここにいる』と、この温かくて美しい世界に向かって、静かに、高らかに宣言したのだった。


 名もなき令嬢は今夜、星の下で「ここにいる」と――この世界に、宣言した。

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