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ローストビーフにむせただけで氷の公爵に溺愛されました。〜攻略本に載っていない社畜令嬢ですが、最強の二人に独占されて平穏な隠居生活が崩壊した件〜  作者: 成瀬 一
第六章 名前のない令嬢の、名前

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第68話 攻略本に、こんな世界は書いてなかった

 その日の朝、ルカ=フォン=エデルハインは、珍しく一人で王都の街を歩いていた。


「……一人で行くのか」


 出立の際、グレアムが引き留めるようにそう言った。


「はい。少しだけ、この街を歩いてみたくて」


「付き合おうか」


「今日は、一人で歩きたいんです。……自分の目で、ちゃんと確かめたくて」


 ルカが柔らかく微笑むと、グレアムはそれ以上追及せず、「……そうか。気をつけて」と静かに送り出してくれた。


(一人で歩きたかった。……この国から大きな脅威が消え去って、新しい章が始まったこの世界を、自分の目で、ちゃんと確かめたくて)


 澄み切った秋の朝の空気を胸いっぱいに吸い込みながら、ルカは王城へと続く緩やかな坂道を登っていった。


   *


 最初に向かったのは、王城の政務室の前だった。


 大理石の重厚な扉の隙間から、ひそやかな、しかし真剣な二人の話し声が漏れ聞こえてくる。


「殿下。この法案のままでは、北部の農民への冬時期の税の負担が大きすぎますわ。これではまたアッシェンバッハのような不満の温床を作ることになりかねません」


 リリアナの、凛とした声。


「……確かにその通りだ。ならば、最初の三年間は税率を段階的に引き下げるというのはどうだ? 減収分は、王室の予備費から補填すればいい」


「それは素晴らしい案ですわ、殿下。……さすが、私の自慢の婚約者様です」


「っ……! リリアナ、そういうことを政務中に不意打ちで言うなと、前も言ったはずだ」


 ルシアンの、分かりやすく赤くなっているであろう声。


 ルカは扉の前で、そっと胸を撫で下ろした。


(ルシアン殿下とリリアナ様が、隣り合って、自分たちの頭で考えてこの国を作っている。……攻略本のどこを捲っても、こんな泥臭くて、でも温かい『政務をこなす二人の日常』なんて、一行も載っていなかった)


 回廊を歩き出すと、前方から大量の書類の束を抱えたセシリアが歩いてくるのが見えた。


「あら、ルカ嬢。おはようございます」


「セシリア様、おはようございます。今日も朝からお忙しそうですね」


「ええ。ローゼンベルク家の北部の商会を再編する仕事は、早朝から始まりますの。……少し前よりも、格段に忙しくなりましたわ」


 セシリアは、そう言いながらも、アメジストの瞳を生き生きと輝かせていた。


「いい忙しさですか?」


 ルカが尋ねると、セシリアは少しだけ考えてから、柔らかく微笑んだ。


「ええ。……悪くない忙しさですわ」


 彼女はもう、誰かに定められた悲劇のシナリオに怯えてはいない。自らの有能さを、この世界を良くするために存分に発揮している。その凛とした姿は、ルカの目には誰よりも眩しく映った。


 城を出て、公爵邸へと戻る帰り道。


 賑やかな市場を通りかかったルカは、人混みの中に、見慣れた二つの背中を見つけた。


 執事のクラウスと、メイドのエマだった。二人は楽しそうに、色とりどりの花が並ぶ露店を覗き込んでいる。


「クラウスさん、この白い小さなお花、ルカ様が好きそうだと思いませんか?」


「お前、よく気が回るな。……確かに。この花を飾れば、閣下もきっとお喜びになるだろう」


「ですよね! すぐに包んでもらいましょう!」


 エマが嬉しそうに小銭を支払い、クラウスがその花を大事そうに受け取る。


 ルカは、物陰からその光景をそっと見つめながら、胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じていた。


   *


 公爵邸に戻り、いつもの私的な書斎の扉を開ける。


「戻ったか」


 デスクの前のグレアムが、顔を上げてルカを迎えた。


「はい、ただいま戻りました」


「どうだった、王都の様子は」


「みんな、それぞれの場所で、一生懸命に生きていました」


「……当たり前だ」


 グレアムが、いつものように少し呆れたように言う。


 ルカはソファーに腰を下ろし、嬉しそうに目を細めた。


「当たり前なんですけど……。なんだか、それがすごく、嬉しかったんです。……あの攻略本の中では、みんなあらかじめ決まった役割があって、決まった場所にいて、決まった悲惨な結末に向かって歩かされていた。でも、今のあの子たちは──自分の意志で選択して、自分の足で、それぞれの『今』を生きているから」


「……お前もそうだ、ルカ」


 グレアムが、デスクから立ち上がり、ルカの隣に静かに座った。


「お前は最初、目立たず、関わらず、ただ逃げて生き延びようとしていた。……だがお前は、自らの意志で、ここにいることを選んだ」


「……はい。ここにいることを、選びました」


 グレアムは無言で、ルカの手を包み込んだ。


 大きな、温かい手。


「……花瓶に、今日は白い花を挿した」


「え?」


 ルカが窓辺に目をやると。


 小さなガラスの花瓶に、可憐な、小さな白い花が一輪、挿されていた。


 あの日、グレアムが初めて自分で庭から摘んで挿した、あの名前も知らない『名もなき花』と同じ種類だった。


「見ていいですか?」


「ああ」


 ルカは立ち上がり、花瓶のそばへと歩み寄った。


 瑞々しい白い花びらが、窓から差し込む陽光に照らされて、美しく輝いている。


「……すごく、綺麗です、閣下」


「……お前が、好きそうだと思ってな」


「ふふっ。閣下、最近本当に、毎回それを言いますね」


「……事実だから言う」


 グレアムは、フイッと視線を逸らし、赤くなった耳の先を隠すように言った。


 ルカは、そんな彼の不器用な、けれど決して変わらない愛情が愛おしくて、心からの笑みをこぼした。


   *


 その夜。


 男爵邸の自室で、ルカは日記帳を開き、今夜の想いを静かに綴った。


『今日、私は王都を歩きました。


 ルシアン殿下とリリアナ様が、隣り合って一緒に国を作っていました。


 セシリア様が、悪くない忙しさの中で、生き生きと働いていました。


 クラウスさんとエマさんが、市場で私のために白い花を買ってくれていました。


 そして、私の大好きな閣下は。


 書斎の花瓶に、私が好きそうだと言って、白い花を挿してくれていました』


 羽ペンを一度止め、窓の外の夜景を見つめる。


『公式の攻略本には、こんな世界、どこにも書いていませんでした。


 でも。


 この美しくて、温かくて、不器用な人たちに満ちた世界は。


 今、ここに、確かに存在しています』


 それは、誰かに与えられたフィクションではない。


 自分たちが、自らの足で歩んで作り上げた、たった一つの現実。


 ルカは、書き終えた日記をそっと閉じ、胸に抱きしめた。


(この世界は、私の知っていたゲームの世界とは、全然違う。でも──これが、私の生きている世界なんだ)


 攻略本に載っていない令嬢は。


 攻略本には決して載っていなかった、この温かくて美しい世界の中で。


 大切な人たちと共に、今日も、確かに生きていた。

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