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ローストビーフにむせただけで氷の公爵に溺愛されました。〜攻略本に載っていない社畜令嬢ですが、最強の二人に独占されて平穏な隠居生活が崩壊した件〜  作者: 成瀬 一
第六章 名前のない令嬢の、名前

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第67話 どちらの名前でも、お前はお前だ

 その日の朝、公爵邸を訪れたルカ=フォン=エデルハインの元に、一通の手紙が届けられた。


 差出人の名前を見た瞬間、ルカの手が微かに止まった。


「……来た」


 ぽつりと、掠れた声が漏れる。


 丁寧な手つきで封を切り、中にあった羊皮紙を広げた。


『エデルハイン令嬢、ご婚約おめでとうございます。


 公爵殿をよろしくお願いします──などと言うのは野暮ですね。あの人の変わりようを見れば、私などが出る幕はないと、痛いほど理解していますから。


 私は今、北部で新しい仕事を始めました。騎士団長という肩書きのない生活は新鮮で、思ったより、自分に向いているかもしれません。


 そうそう。市場の串焼きの約束、私はまだ覚えていますよ。いつか必ず、おごらせてくださいね。


 レオナルト=クロイツ』


 短く、流麗な筆跡。


 ルカは、その手紙を何度も、一文字ずつ噛みしめるように読み終え──そして、ふっと小さく笑った。


 目元をじわりと熱いものが濡らしていくが、それは悲しい涙ではなく、どこか温かい、泣きそうな笑顔だった。


   *


 執務室に入ると、グレアムが手元に一通の手紙を置いているのが見えた。


「レオナルトから手紙が来た」


「……私にも来ました、今朝」


 ルカが言うと、グレアムは「そうか」と静かに答え、ルカの手元を見つめた。


「何と書いてあった」


「市場の串焼きの約束、まだ覚えているから、いつか必ず奢らせてほしい……と書いてありました」


「……あいつらしい」


 グレアムは、呆れたように小さく息を吐いた。


「閣下の方には、何と?」


「……『公爵殿の盾として、別の場所で戦います。ルカ嬢のことは、任せました』と」


 グレアムが、ぽつりと言った。


 その声には、去っていった戦友への、言葉にならない深い敬意と信頼が込められていた。


「レオナルトは──昔から、ああいう男だ。全部を笑顔の裏に隠して、全部を背負い、最後にはすべてを置いて去っていく」


「……閣下は、それでよかったんですか。騎士団長殿が行ってしまうのを、止めなくて」


「よくはない」


 グレアムは、まっすぐにルカを見つめて言った。


「だが──あいつ自身が選んだ道だ。私には、それを止める権利はない。……あいつの覚悟を、信じて受け取るだけだ」


「……はい」


 ルカは深く頷いた。


 本当に、不器用で、気高い人たちだ。お互いに何も語らないけれど、背中を預け合っている。


   *


 同じ頃、王国の遥か北部。


 冷たい風が吹き抜ける辺境の街で、レオナルト=クロイツは、地味な外套を羽織って通りを歩いていた。


 かつての、王国第一騎士団長というきらびやかな肩書きは、もうそこにはない。


 だが、彼のやるべき仕事は、本質的には何も変わっていなかった。


「……アッシェンバッハの残党。彼らの政治的・法的な抜け穴を、裏から一つずつ潰す」


 レオナルトは、かつてハインツから得た情報を元に、北部の有力貴族たちと水面下での『交渉』を一つ終えたところだった。


 騎士団長としての武力ではなく、一人の交渉人としての知略。


 公爵派の最前線の盾として、彼は今、誰も寄せ付けない北部の闇を、一人で静かに切り裂いていた。


 宿の一室に戻り、窓辺に寄りかかって冷たい外気を取り込む。


 見上げる北部の空は、王都よりもずっと近く、寒々としていた。


(王都は──今頃、どうしているだろうか。あの二人は、もう並んでご飯を食べている頃だろうか)


 ふと、ルカの無防備な、食べ物を前にして目を輝かせる笑顔が脳裏を過る。


 グレアムが、生まれて初めてルカに向かって表情を緩めた、あの愛おしそうな顔が過る。


 まだ、胸の奥は小さく、ズキリと痛む。


 あの「好きだ」という感情は、消えてはくれなかった。


 でも──。


(……不思議と、寂しくはないな)


 レオナルトは、誰もいない部屋で、ふっと微笑んだ。


 それは、王城で貼り付けていた完璧な『仮面』ではない。少しだけ不器用で、けれどどこまでも人間らしい、本物の笑顔だった。


(好きなままで、前を向いて歩ける。あいつらに背中を預け、彼女が幸せになれる世界を、私がこの手で守り抜く。……それが、私の選んだ道だから)


 レオナルトは、引き出しから手紙の紙を取り出し、王都への返事を書き始めた。


(串焼きの約束──必ず果たしますよ、ルカ嬢。貴女が公爵殿と、世界で一番幸せになったその後で。……その時は、私も少しは、胸を張って貴女に会いに行ける気がしますから)


 北部の冷たい風の中で。


 一人の騎士は、かつてないほど清々しい表情で、ペンを走らせていた。


   *


 公爵邸の書斎。


 ルカは、レオナルトへの返事を熱心に書き終えたところだった。


『騎士団長殿、お手紙ありがとうございました。


 串焼きの約束、私も絶対に覚えていますからね。お腹を空かせて待っています。


 騎士団長殿が、新しい場所でご自身らしく戦っていると聞いて──本当に、安心しました。


 どこにいても、貴方は私の、自慢の騎士団長殿です。


 また会える日を、心から楽しみにしています。


 ルカ=フォン=エデルハイン』


「よし、書けた」


 ルカが満足げにペンを置いた、まさにその時。


「……あ」


 ルカは、自分の署名を見つめて、小さく声を上げた。


「どうした」


 書類から目を上げたグレアムが、不思議そうに尋ねる。


「いえ……。手紙に書いたこの名前、もうすぐ、変わるんだなと思って」


「……」


 ルカ=フォン=エデルハイン。


 攻略本には載っていなかった、この世界での彼女の名前。それがもうすぐ、ヴァルトシュタインの姓へと変わる。


「……構わない」


 グレアムが、ゆっくりとルカの隣へ歩み寄り、彼女の小さな手を包み込んだ。


「エデルハインであっても、ヴァルトシュタインであっても、お前はお前だ。……どんな名前になろうと、私はお前の全てを愛している」


 その、低い、真っ直ぐな言葉。


 ルカは、深く息を吸い込み、彼の目を見上げて、はっきりと告げた。


「閣下」


「なんだ」


「……好きです。本当に、大好きです」


「……っ!」


 グレアムが、弾かれたように顔を背けた。


 その形の良い耳の先が、みるみるうちに沸騰しそうなほど真っ赤に染まっていく。


「……わ、わかっている。急に、そういうことを言うな」


「言いたかったんです。どうしても、言葉にして、閣下に伝えたくて」


「……強情だな」


「閣下もですよ」


 ルカが笑うと、グレアムはしばらく無言で赤くなった顔を隠していたが。


 やがて、諦めたように、でもひどく愛おしそうに、ルカの手をさらに強く握りしめた。


「……私も、お前と同じだ」


 ルカは、彼の胸にそっと頭をもたせかけ、幸せそうに目を閉じた。


 元騎士団長は、遠い北部で、新しい自分だけの戦いを始めていた。


 その横顔に浮かぶ笑顔は。


 かつて王都にいた頃のどの仮面よりも、ずっと、本当の笑顔に近かった。

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