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ローストビーフにむせただけで氷の公爵に溺愛されました。〜攻略本に載っていない社畜令嬢ですが、最強の二人に独占されて平穏な隠居生活が崩壊した件〜  作者: 成瀬 一
第六章 名前のない令嬢の、名前

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第66話 怖いもの同士で、一緒にいる

 ヴァルトシュタイン公爵邸の庭園には、ルカが好きだと言った、淡くて可愛らしい白い薔薇の花が、静かに咲き乱れていた。


 かつては針葉樹と芝生だけだった冷たい庭。そこに今、木漏れ日を優しく浴びて、無数の花弁が風に揺れている。


 グレアムとルカは、寄り添うように並んで、その小道をゆっくりと歩いていた。


「……ルカ。一つ、聞いていいか」


 グレアムが、ルカを見下ろして、ぽつりと言った。


「はい、何ですか?」


「お前は──最初、自分を『モブ』と言っていたな」


「……はい。言っていましたね。懐かしいです」


「お前は、今でも自分のことを、その『モブ』だと思っているか」


 その問いに、ルカは少しだけ足を止め、咲き誇る白い薔薇を見つめた。


 モブ。


 前世で、物語の背景としてしか存在しない、名前のないその他大勢。自分をそう定義することで、この世界の激流から逃げようとしていた、かつての自分の防衛壁。


「……もう、モブだとは思いません」


 ルカは、ふっと柔らかく微笑んで言った。


「なぜだ」


「モブというのは、物語の背景として、周囲に何の影響も与えないし、誰からも影響を受けない存在のことです。でも、今の私は違います。……私は閣下と出会って、レオナルト騎士団長と話して、セシリア様と笑って、ルシアン殿下やリリアナ様の言葉を聞いた。全部、私に、一生消えない大きな影響を与えてくれました」


 ルカは、隣に立つグレアムを真っ直ぐに見上げた。


「そして……ほんの少しだけかもしれないけれど。私も、みんなに影響を与えられた。だから、もう背景モブではいられません」


「……少しだけ、ではない」


 グレアムが、ルカの言葉を遮った。


「お前は、この世界を、私の世界を根底から変えた。……それは、少しだけなどという言葉で済まされるものではない」


「閣下、それは大げさですよ。私は本当に、ただのポンコツですから」


「大げさではない。紛れもない事実だ」


 グレアムの、一寸の揺るぎもない断言。


 ルカは照れくさそうに頬を掻きながら、でも、どこか誇らしげに目を細めた。


「……でも。モブだったからこそ、始まったんだと思います」


「どういうことだ」


「私が攻略本に載っているような、最初から価値のある特別な令嬢だったら……きっと、あの日『関わらないようにしよう』なんて必死に逃げようとしなかった。逃げようと必死になっていたから、お腹が空いて、あの卒業パーティーでローストビーフを食べて──そして、咽せてしまいました。……モブじゃなかったら、この物語は、絶対に始まっていませんでした」


 グレアムは、少しだけ動きを止め、それから納得したように小さく息を吐いた。


「……そうかもしれないな」


「はい」


「だが──お前が『モブだから関わらない』という逃げの選択を、最後の最後で自ら捨てて、私の傍に残ることを選んでくれた。お前が動いたから、この物語は進んだんだ」


 グレアムの、優しい声。


「モブであることと、自らの手で運命を動かすことは、決して矛盾しないのだな」


「……はい。そうですね」


 ルカは、嬉しそうに頷いた。


   *


「閣下。私からも、一つ聞いていいですか」


「なんだ」


 ルカは、少しだけ声を潜めて尋ねた。


「閣下は──私がこの世界に本来いないはずの、いつ消えるかもわからない『攻略本に載っていない令嬢』だと知って、怖くありませんでしたか? そんな不確かな人間を、自分の婚約者にするなんて」


 グレアムの、長い指が、ルカの肩を抱くようにそっと添えられた。


「怖い、か」


「はい」


「……怖くないと言えば、嘘になる」


 グレアムは静かに、ありのままを認めた。


「だが、お前がいなかった頃の私を思い出す方が、今は──何よりも怖い」


「え?」


「お前と出会う前の自分を、もう私は想像できないんだ。花瓶の水を替えることもなく、雨の夜に一人で部下を死なせた過去に苛まれ、ただ冷たい氷の鎧を着て、死ぬのを待つように生きていた私。……そちらの方が、今の私にとっては、ずっと恐ろしい」


 ルカは、息を呑んで彼を見上げた。


「……私も、同じです」


 ルカは、グレアムの軍服の裾をそっと掴んだ。


「閣下に会う前の私。毎日、満員電車に揺られて会社に行って、一人で深夜に冷たいお弁当を食べて、暗い部屋で誰とも喋らずにゲームをして、ただ毎日を浪費していた私。……あの頃の寂しい私に戻ることの方が、いつかこの世界から消えてしまうことよりも、ずっと、何倍も怖いです」


 かつて孤独だった二人の、痛切で、けれど温かい本音。


 二人は顔を見合わせ、お互いの不器用さに、少しだけおかしそうに笑った。


「では──お互いに、怖いもの同士で、手を取り合ってここにいるか」


「……はい」


 ルカは、迷いなく頷いた。


 脳内の社畜フィルターが『これは相互のリスク管理における、共同防衛体制の構築アライアンスでは──』と起動しかけたが、ルカはそれを笑って消し去った。


 ただの、愛おしい、一人の男としての彼の言葉。


 それだけで、胸の奥は痛いほどに、温かく満たされていた。


   *


「閣下」


「なんだ」


「私、あの日、ローストビーフを喉に詰まらせて、本当に……本当によかったと思っています」


 恥ずかしかった。死ぬほどみっともなかった。


 でも、あの日咽せなければ、今の幸せは、この大好きな人との出会いは、どこにも存在しなかったのだ。


「……そうか」


 グレアムは、少しだけ肩を揺らして笑った。

「私も。……あの日、お前がローストビーフを詰まらせて咽せてくれたことに、生涯で一番、感謝している」


「閣下、それはなんか、感謝の対象として変な気がしますけど!」


「変ではない。……それが、私の物語の始まりだった」


 ルカは顔を赤くしながらも、深く頷いた。


「閣下。……ありがとうございます」


「何に対してだ」


「全部に対して、です。……私を、モブから『ルカ』にしてくれて」


 グレアムは何も言わず、ただルカを、愛おしそうに胸に抱き寄せた。


 頭を撫でる、彼の大きな手のひらの温かさ。


「……そうか」


 彼の口からこぼれた今回の『そうか』は。


 この物語の中で聞いた、どの言葉よりも、一番深く、一番静かに、ルカの魂の奥底まで届いていた。


 モブだった令嬢は今日。


 モブだったからこそ、この世界で、この大好きな人の隣に立っていられるのだと。


 初めて、心から思えたのだった。

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