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ローストビーフにむせただけで氷の公爵に溺愛されました。〜攻略本に載っていない社畜令嬢ですが、最強の二人に独占されて平穏な隠居生活が崩壊した件〜  作者: 成瀬 一
第六章 名前のない令嬢の、名前

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第65話 お前がいる場所が、名前になる

 王城の大広間。


 磨き上げられた大理石の床に、燦然と輝く巨大なクリスタルのシャンデリア。


 その厳かな空間に、王国の重臣たちや高位貴族たちが一堂に会していた。


 その中央で、黒い軍服姿のグレアム=ヴァルトシュタインは、ルカの手をそっと引いて前へと進み出た。


「エデルハイン男爵家が三女、ルカ=フォン=エデルハイン。──本日、彼女を私の正式な婚約者として、ここに紹介する」


 グレアムの、深く、よく通る声が大広間に響き渡る。


 一瞬の、静かな静寂。


 そこから、堰を切ったように、会場全体が様々なざわめきに包まれた。


『男爵家の三女だと?』という、耳を疑うような驚き。


『あの公爵閣下が自ら選んだのなら、よほどの令嬢なのだろう』という、納得。


 そして──。


『待て、あの令嬢……どこかで見たことがあると思ったら、数ヶ月前の卒業パーティーで、王太子殿下の婚約破棄の最中に、ローストビーフを喉に詰まらせて咽せていたモブ令嬢ではないか?』という、ひそやかな囁き。


(……最後の情報、なんで未だに全員が正確に共有してるんですか!? 王都の貴族のネットワーク、無駄に有能すぎるでしょ! でもまあ、完全なる事実だから否定はできないけど!)


 ルカは、貼り付けたような営業スマイルを必死に保ちながら、内心で激しいツッコミを連発していた。


 グレアムは、そんな周囲のざわめきなど一瞥もくれず、ただ静かにルカの隣に立ち、その存在を世界に示すように彼女の手をしっかりと握りしめていた。


「……よろしく、お願いいたします」


 ルカが、完璧な最敬礼でお辞儀をすると。


 その姿に、重臣たちも、もう異議を唱えるような不敬な者は一人もいなかった。


   *


 婚約発表の儀式が一段落した後の、非公式な祝賀の場。


 ルカの元へ、親しい人々が次々と歩み寄ってきた。


「おめでとう、公爵殿、ルカ嬢。……まさかあの公爵が、本当に自分の伴侶として人を選ぶとは思わなかったよ」


 ルシアンが、少しだけからかうように言った。


「余計なことを言うな、ルシアン」


 グレアムが冷たく返すと、ルシアンは「ふっ」と、本当に嬉しそうに笑った。


「ルカ様! 本当に、本当によかったですっ!」


 リリアナが、ルカの両手をぎゅっと握りしめて、今にも泣き出しそうな大きな目を潤ませていた。


「リリアナ様、ありがとうございます。……でも、なんであなたが泣きそうなんですか?」


「だって、嬉しくて……!」


 光の聖女の純粋な祝福に、ルカの胸は温かくなった。


「おめでとうございます、ルカ嬢」


 セシリアが、お約束のように扇子で口元を隠しながら近づいてきた。


「……あの夜会で、ローストビーフを喉に詰まらせた甲斐がありましたわね?」


「セシリア様まで、からかわないでください!」


「あら、事実ですもの」


 セシリアは楽しそうに、アメジストの瞳を細めて笑った。


 そして、公爵邸の使用人たち。


「ルカ様ぁぁぁ……っ!」


 エマが、完全に号泣しながらハンカチを握りしめていた。


「我々一同、ずっと、いつかこうなると思っておりましたよ」


 クラウスが、四十年のキャリアに相応しい、深い笑みを浮かべて深く頭を下げる。


 グレアムが、眉をひそめてクラウスを睨んだ。


「……知っていたなら、なぜ私に言わなかった」


「申し上げましたら、閣下は『余計な邪推をするな』と、頑なにお認めになりませんでしたからね」


「……」


 グレアムは、気まずそうに無言でそっぽを向いた。


「え、閣下、私のこと否定してたんですか?」


 ルカが不満げに覗き込むと、グレアムは耳の先を真っ赤に染めながら、低い声で言った。


「……お前も、余計なことを言うな」


 その不器用な反応に、エントランスは温かい笑い声に包まれた。


   *


 騒がしい祝賀が終わり、公爵邸の私的な書斎に戻った、静かな夜。


 ルカは、窓辺に腰を下ろし、自分の白い指先をぼんやりと見つめていた。


「……なんだか、まだ、実感が湧かないです」


「なぜだ」


 グレアムが、紅茶のカップを置いてルカの隣に座った。


「私、ずっと、名前のないモブ令嬢だったから。あの攻略本にも、名前すら載っていなくて、ただの背景で、存在しないはずの人間だったのに。……そんな私が、閣下の婚約者になるなんて、なんだか全部、夢みたいで」


「夢ではない」


 グレアムは、ルカの手をそっと取り、大きな手で包み込んだ。


「わかっています。……でも、閣下。私、本当にここにいていいんでしょうか。本当に、私なんかが、閣下の隣に立つ資格が……」


「何度目の質問だ、それは」


 グレアムが、呆れたように、でもひどく優しい声でルカを遮った。


「お前は、何度も私にそれを聞くが……。では逆に聞くが、お前がここにいないと、誰が私の花瓶の水を替えるんだ?」


「え? それは……前は、閣下がご自分で替えていたじゃないですか」


「お前に、替えてほしいんだ」


 グレアムは、真っ直ぐにルカを見つめた。


「お前がいないと、誰が私に、市場の串焼きを『美味しいですよ』と勧めるんだ?」


「それは、閣下が私に勧めてくれましたよ……」


「私は、お前と一緒に食べたいと言っているんだ。……それに、雨の夜に、誰が私の昔の傷を気遣って、『また話してください』と言ってくれるんだ?」


 言葉が、出なかった。


「お前がそこにいてくれれば。……私は、また雨が降っても、もう怖くはない」


 グレアムの低い、けれど絶対的な熱を帯びた告白。


 ルカのヘーゼルアイから、じわりと涙が溢れ、零れ落ちた。


「お前がそこにいる場所が、お前の居場所だ。……それがここ(隣)なら、ここがお前の『名前』になる」


「……はい」


 ルカは、涙を拭いながら、力強く頷いた。


 もう、資格なんてどうでもいい。


 彼が必要としてくれている。彼の隣が、自分の居場所だ。それだけで十分だった。


   *


 その夜。


 男爵邸の自室に戻ったルカは、机に向かい、古びた日記帳を開いた。


 羽ペンをインクに浸し、最初の行を書き始める。


『今日、私はグレアム=ヴァルトシュタイン公爵の、正式な婚約者になりました』


 書いてみて、改めてその文章のあり得なさに、ルカは小さく笑ってしまった。


 前世の、毎日残業百時間超えで死にそうになっていたあの社畜OLが見たら、絶対に「変な夢でも見てるんじゃないか」と鼻で笑うだろう。


 でも──ルカは、続きの文字を、力強く綴った。


『私の名前は、ルカ=フォン=エデルハイン。


 あの乙女ゲームの攻略本には、一行も、名前すら載っていなかった令嬢です。


 でも。


 私は今、ここに、確かに存在しています』


 誰のシナリオでもない。


 この世界で出会った、不器用で、愛すべき人たちと共に、自分の足で歩んで作った、大切な自分の人生。


 ルカは、書き終えた日記を静かに閉じ、窓の外の美しい星空を見上げた。


 攻略本に名前のなかった令嬢は、今日。


 攻略本には決して載っていなかった、自分だけの『名前』を、この世界で確かに手に入れたのだった。

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