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ローストビーフにむせただけで氷の公爵に溺愛されました。〜攻略本に載っていない社畜令嬢ですが、最強の二人に独占されて平穏な隠居生活が崩壊した件〜  作者: 成瀬 一
第六章 名前のない令嬢の、名前

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第64話 普通に、話した

 ローゼンベルク侯爵邸の朝霧は深く、庭園の薔薇の葉に付いた露が、朝陽を浴びてキラキラと輝いていた。


 セシリア=フォン=ローゼンベルクは、整えられた書斎のデスクで、温かい紅茶を口に含みながら、昨夜のルカとの会話を静かに思い返していた。


『騎士団長殿は、幸せになれるでしょうか』


『あの方は、自分で自分を幸せにする力がある人です。……だから、私たちは、ただあの方の未来を、祈るだけでいいのですわ』


 泣き腫らした目で縋るように聞いてきたルカに対し、セシリアは淀みなく、そう言って彼女の背中を支えた。


 他人のことならば、あれほど冷静に、誇り高いアドバイスができるというのに。


(……私は。私はいつか、あの人に対して『祈るだけでいい』と思えるようになるのかしら)


 ルシアン=エーヴェル。


 かつて自らを深く傷つけ、全てを奪い去ろうとした、かつての婚約者。


 彼に対する感情は、今もまだ、ルカが言ったように『名前のない保留箱』に入ったままだ。


 けれど──。


(以前より、少しだけ……心が軽い。それだけは、認めざるを得ないわね)


 セシリアは、小さくため息をつき、手元の扇子をゆっくりと開いた。


   *


 その日の午後、王城の温室回廊。


 セシリアが、北部の領地報告書を胸に抱えて歩いていると、正面から歩いてきた金髪の青年が、セシリアの姿を見て静かに足を止めた。


 ルシアンだった。


 彼は少しだけ躊躇うように目を伏せ、やがて、まっすぐにセシリアを見つめて声をかけた。


「……セシリア。少し──時間をもらえないだろうか」


 静かな声。


 セシリアは、手にしていた扇子をパチリと閉じた。


「何のためにかしら。殿下、謝罪や約束なら、先日あのバルコニーで十分に伺いましたが」


 少し冷たい、距離を置くような言葉。


 だが、ルシアンは首を横に振った。


「違う。謝罪や政治の話をしに来たのではない。私は……お前と、普通に話したいんだ」


「普通に、ですか?」


「ああ。王太子と元婚約者としてではなく、謝る側と許す側でもなく。……ただ、他愛のない世間話を、普通に」


 ルシアンの、ひどく不器用で、けれど真剣な申し出。


 セシリアは、しばらくの間、彼をまじまじと見つめた。そして、小さく息を吐いた。


「……構いませんわ。少しだけなら」


「え……?」


 ルシアンが、驚いたように目を見開く。


「そんな顔をしないでください。断ると思っていましたの?」


「……正直に言えば、そうだ。私があれほどの仕打ちをしたのだから、お前が私の顔を見るのも拒むのが当然だと」


「私も──断るつもりでしたわ。……でも、やめました。ただの世間話に、そこまで目くじらを立てるのも、大人気ないですから」


 セシリアが、少しだけいたずらっぽく微笑むと、ルシアンの顔に、ふっと柔らかい笑みが広がった。


   *


 二人は、中庭の静かな石造りのベンチに並んで腰を下ろした。


 最初は、ただ風の音だけが聞こえる、静かな沈黙。


 やがて、ルシアンが少しぎこちなく口を開いた。


「……お前は、最近どうだ。ローゼンベルク家の仕事は、うまくいっているか」


「ええ。北部の商会の取引は好調ですわ。アッシェンバッハが失脚したことで、邪魔が入らなくなり、いくつかの大きな取引が再開しましたの。……殿下は?」


「私は──リリアナと、毎日、少しずつ国政を学んでいる。私は頭が固いが、彼女は私の見えていない『民の目線』を教えてくれる。驚くほど、人を見る目が鋭いんだ」


 ルシアンが、少しだけ照れくさそうに笑いながら、リリアナの話をした。


「リリアナ様は──とても、真っ直ぐで良い方ですわね」


 セシリアが、ふっと目を細めて言った。


「……お前が、そう言うとは思わなかった」


「なぜです? 私は、あの方を嫌いではありませんよ。最初から一度も」


「いわゆる『悪役令嬢』は、ヒロインを憎むものだと思っていた」


 ルシアンが、苦笑混じりに、かつてルカから聞いたという単語を口にする。


 セシリアは、扇子を開いて小さく吹き出して笑った。


「それは──彼女の言うゲームの『攻略本』の話ですわ。私は最初から、誰かに押し付けられた役割ではなく、自分の意志で選んで、自分の足で動いていましたから」


「……お前は、いつもそうだったな」


 ルシアンが、深く頷いた。


「いつも強くて、誇り高くて、自分で選んで動いていた」


「ええ。……あなたに、婚約破棄を突きつけられたあの夜だって」


 セシリアが、ふと、その言葉を口にし──自ら、少しだけ動きを止めた。


 ルシアンも、ハッとしたように表情を硬くする。


 だが、セシリアは目を伏せることなく、静かに言葉を続けた。


「……あの夜だって、私は泣きませんでした。怒ることにしたんです。悲劇のヒロインのように泣くよりも、怒る方が──前に進める気がして」


「……お前は、本当に強いな」


「強くはありませんわ。……ただ、往往にして、諦めが悪いだけです」


 ルシアンは、少しだけ驚いたように彼女を見つめ──やがて、本当に嬉しそうに、声を潜めて笑った。


「……それは、私も同じだ。私も、往往にして諦めが悪い」


 二人で、少しだけ、声を重ねて可笑しそうに笑った。


 それは、かつての『完璧な王太子と婚約者』という人形のような姿でも、ましてや『断罪する者と断罪される者』という最悪の関係性でもない。


 ただの、過ちを犯した若者と、それを受け止めた少女が、並んで笑っている。


 ただそれだけの、当たり前の時間だった。


   *


 その夜。


 自室の窓辺で、セシリアは一人、王都の静かな夜景を見つめていた。


(普通に、話したわ。……思ったより、悪くなかった)


 ルカの『感情に名前をつけなくていい』という適当なアドバイス。


 今もまだ、ルシアンに対する感情に、はっきりとした名前はついていない。彼を許したわけでも、元に戻りたいわけでもない。


 でも──。


(グレーのまま、保留箱に入れたその感情が。以前より、少しだけ、心地よく温かい)


 セシリアは、手元の扇子をパチリと閉じた。


 自分がこれから何者になるのか、まだ明確な答えは出ないけれど。


(名前のない感情を抱えたまま、ただ、今日を笑って生きていく。……それも、悪くないかもしれないわね)


 悪役令嬢は今日、元婚約者と「普通に話した」。


 それだけで、胸の奥が少しだけ、温かくなった。

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