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ローストビーフにむせただけで氷の公爵に溺愛されました。〜攻略本に載っていない社畜令嬢ですが、最強の二人に独占されて平穏な隠居生活が崩壊した件〜  作者: 成瀬 一
第六章 名前のない令嬢の、名前

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第63話 ずっと、見ていてくれた

 秋風が、中庭の木々をサラサラと揺らし、乾いた落ち葉を芝生の上に躍らせていた。


 ルカ=フォン=エデルハインは、レオナルトが立ち去ったベンチに、今も一人で座り続けていた。


 彼の背中が、回廊の角を曲がって完全に見えなくなってから、もうずいぶんと時間が経っている。


 膝の上の本は閉じたままだ。


 ルカはただぼんやりと、彼が去っていった無人の回廊を、見つめることしかできなかった。


(……行ってしまった)


 胸の奥に、ぽっかりと冷たい穴があいたような、ひどい寂しさが押し寄せてくる。


 だが、その寂しさは、お世話になった有能な上司が異動してしまった時のような、そんな『頼れる人を失った寂しさ』とは、何かが決定的に違っていた。もっと重く、もっと痛く、そして胸を締め付けるような、割り切れない何か。


 ルカは立ち上がることもできず、ただ高く澄んだ夕暮れの空を見上げた。


 なぜ、あんなに胸が痛むのか。


 なぜ、彼の「眩しかった」という言葉が、いつまでも耳の奥で熱を帯びて消えないのか。


   *


 ルカは、無意識のうちに、これまで積み重なってきたレオナルトとの『記憶』を、最初から静かに手繰り寄せ始めていた。


 最初の夜会。婚約破棄のイベントを前にして、一人でローストビーフを喉に詰まらせてパニックになっていた、あの最悪の夜。


 近衛兵に連行されそうになった自分の隣に、彼はいつの間にか立っていた。


 アッシェンバッハの手下、ランツ伯爵に絡まれ、冷や汗を流していた時。


 彼はやはり、完璧な笑顔を浮かべて、ルカを庇うようにランツを引き離してくれた。


『貴女は本当によく見ていますね』と、彼はあの時、少しだけ本物の笑顔を混ぜて言ってくれた。


『最初に私と会った時、貴女は帰っていいですかと言っていた』と、ルカ自身すら忘れかけていた昔の口癖を、彼は昨日のことのように覚えていてくれた。


『言葉ではなく、行動で示してみては』と、ルカがグレアムに遠ざけられて一人で悩んでいた時、彼は自分の想いを完全に殺して、ルカの背中を押してくれた。


『頼りにしています、といつも言ってくれましたからね』と、彼は寂しそうに笑っていた。


 ルカは、一つ一つの記憶を、スライドを捲るように思い返した。


(騎士団長殿は──いつも、私の一番しんどい時、一番助けてほしい時に、必ず来てくれた。でも、それだけじゃなくて……)


 何かが、頭の中で強烈に引っかかる。


 ただの『親切な騎士団長』。ただの『有能な上司のような人』。


 自分は彼をそう定義して、都合よく甘えていた。


 だが──本当に、それだけだったのだろうか。


   *


 ルカの脳裏に、彼が何度も口にしていた『光栄です』という言葉が、鮮明に蘇ってきた。


 初めて手紙を出した時、彼は引き出しに手紙をしまいながら『光栄です』と言った。


 ルカが『いてくれてよかった』と心から伝えた時、彼は少しだけ声を震わせて『光栄です』と言った。


 そして、グレアムが彼に『ありがとう、全て』と頭を下げた後。彼はどこまでも穏やかに、澄み渡った声で『光栄でした』と言った。


 毎回、声の温度が、少しずつ違っていた。


 その声の震えの、本当の理由。


 その笑顔の奥に隠されていた、滲むような熱いものの正体。


 ルカの中で、バラバラに散らばっていた点と点が、一本の線となって繋がり始める。


(待って。……騎士団長殿は、ずっと──)


 気づきかけて、ルカは自分の思考を強引に止めようとした。


 怖い。恐ろしい。


 そんなはずがないと、自分に言い聞かせる。


(違う。違うはずだ。だって、私は名前もないただのモブで、おかしなことばかり言って、何の魅力もなくて……そんな私に対して、あの完璧な騎士団長殿が──)


 だが、彼の最後の言葉が、ルカの言い訳を粉々に打ち砕いた。


『貴女は──私にとって、とても、眩しい人でした』


『飾らなくて、正直で、不器用で、ポンコツで……。でも、誰よりも真剣に生きていた。……そういう貴女の姿が、私には、たまらなく眩しかったのですよ』


 ルカは、手で自分の口元を強く覆った。


 目から、じわりと熱いものが溢れ出してくる。


(あれは、ただの観察なんかじゃない。……ずっと、私のことだけを、近くで見つめ続けてくれていた人の、言葉だ)


 ルカの喉の奥から、くちびるを噛み締めて堪える嗚咽が漏れた。


(騎士団長殿は――私のことが、好きだったんじゃないか)


 信じられない、重い真実。


 でも、それが真実だとしたら、これまでの彼の全ての辻褄が合ってしまう。


 自分が『本当に頼りにしています!』『いてくれてよかったです!』と、何の裏表もない親愛の言葉を無邪気にぶつけるたびに。


 彼は、どんなに胸を痛め、その完璧な笑顔の下で、どれほど激しく引き裂かれていただろうか。


 どれほどの痛みを堪えて、彼女の背中を、愛する男の元へと押し続けてくれたのだろうか。


(……ごめんなさい。ごめんなさい、騎士団長殿。私、何も気づかなくて、貴方をたくさん傷つけて、それなのに……!)


 謝りたい。


 でも──彼はもう、この場所にすら、いない。


 その遅すぎた気づきの残酷さに、ルカは膝を抱えて、声を殺して泣き続けた。


   *


 その日の夜。


 ルカは、重い足取りでローゼンベルク侯爵邸を訪れ、セシリアの私室にいた。


 ルカの赤く腫れた目を見て、セシリアは静かにハーブティーを差し出した。


「セシリア様。……少し、お聞きしてもよろしいですか」


「ええ。何かしら」


「……騎士団長殿のこと。セシリア様は、気づいていましたか?」


 ルカが、掠れた声で尋ねる。


「……何を、ですの?」


「私への──彼の、感情です」


 セシリアは、ティーカップをそっとソーサーに置き、ふっと目を伏せた。


「……ええ。気づいていましたわ」


「いつから、ですか?」


「随分と、前からよ。あの男が貴女を優しく見つめる目は、どう考えてもただの『公爵の同伴者』に向けるものではありませんでしたもの」


「なぜ……なぜ、私に教えてくれなかったんですか」


 ルカが、すがるように問う。


 セシリアは、ゆっくりと顔を上げ、アメジストの瞳でルカを静かに見つめた。


「騎士団長殿自身が、貴女に『言わない』という選択をされていたからよ」


「え……?」


「あの方は、自分の恋心を墓まで持っていく覚悟で、完璧な仮面を被り、陰ながら貴女の幸せを守ることを選んだ。……それほどの覚悟を持って沈黙している男のプライドを、私が外から勝手に暴いて貴女に伝えるなんて、そんな無粋なこと、あの方への最大の冒涜でしょう?」


 セシリアの、静かで、冷徹なまでの『真実』。


 ルカは、言葉を失った。


 彼は、自らの意志で沈黙を選び。


 そして、最後まで完璧な騎士のまま、笑顔で去っていったのだ。


「……そうです、ね。セシリア様の言う通りです。……ごめんなさい、私、また馬鹿なことを」


「いいえ」


 セシリアは、ルカの手の上に、そっと自分の温かい手を重ねた。


「でも、騎士団長殿は──あんなに自分を殺して、これから危ない戦場に行くのに、幸せになれるでしょうか。あの方は、報われないままで……」


「ルカ嬢」


 セシリアが、ルカの言葉を遮った。


「あの方は、ただ『守られるだけ』の哀れな男ではありませんわ。自分の意志で道を選び、自分の力で運命を切り開く、誇り高い王国第一の騎士。……あの方は、自分で自分を幸せにする力がある人です」


 セシリアは、柔らかく、微笑んだ。


「だから──私たちは、ただあの方の未来を、祈るだけでいいのですわ」


「……はい」


 ルカは、深く頷いた。


 彼の背負った感情の重さを、一生をかけても返せないその献身を、ただ胸に刻み込んで。


 攻略本に名前すら載っていなかった名もなき令嬢は、今日。


 一人の完璧な騎士が、自分に向けてくれていた感情の重さと、彼の哀しいほどの誠実さを。


 彼がもう、いなくなってから初めて知ったのだった。

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