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ローストビーフにむせただけで氷の公爵に溺愛されました。〜攻略本に載っていない社畜令嬢ですが、最強の二人に独占されて平穏な隠居生活が崩壊した件〜  作者: 成瀬 一
第六章 名前のない令嬢の、名前

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第62話 きっと、また会えます

 朝。


 王城の執務室の窓を叩く霧は深く、グレアム=ヴァルトシュタインは、冷え切ったデスクで一人、報告書を整理していた。


 ノックの音が響き、顔を上げる。


 入ってきたのは、第一騎士団長レオナルト=クロイツだった。


 いつもなら、磨き上げられた銀の甲冑を纏い、威風堂々と現れるはずの男。だが今日の彼は、騎士団長としての正装ではなく、仕立ての良いシンプルな深い青の外套を羽織っていた。


「公爵殿。……少し、個人的な話をよろしいですか」


 いつもの、非の打ち所がない笑顔。


 グレアムは、手元にあったペンを置き、背後に控えていた執事のクラウスに目配せをした。クラウスは一礼し、静かに部屋を退出していく。


 広い執務室に、二人きり。


 グレアムは、彼に座るよう促すこともなく、ただ低い声で言った。


「言え」


「近く──第一騎士団長の職を、辞することにしました」


 レオナルトが淡々と告げたその言葉に。


 グレアムは、驚きを見せなかった。ただ、ゆっくりと視線を落とし、低く問い返す。


「いつ決めた」


「公爵殿の求婚が、無事に承諾されたその時に、と最初から決めていましたよ。……ようやく、肩の荷が下りました」


 レオナルトは、小さく肩をすくめて微笑んだ。


 グレアムは長い沈黙の後、ぽつりと、掠れた声で言った。


「……お前らしい」


「ええ。私らしい、最高に不器用な身の振り方でしょう?」


 自嘲するような言葉。


 グレアムはそれには答えず、ただ真っ直ぐに戦友の瞳を見据えた。


   *


「公爵殿。……一つだけ、最後にお願いがあります」


 レオナルトが、一歩前に進み出た。


 笑顔は消え、ただの一人の『レオナルト』としての、真剣な眼差し。


「……あの令嬢を、頼みます」


「当然だ。言われるまでもない」


 グレアムの、間髪入れない即答。


 それを受け、レオナルトは再び、柔らかく微笑んだ。


「その『当然だ』という一言が聞ければ、私はそれで満足です。……公爵殿。彼女を、どうか幸せにしてあげてください」


「……お前は、後悔しないのか」


 グレアムの静かな問い。


 レオナルトは、少しだけ視線を窓の外の深い霧へと向けた。


「……後悔を、全くしないと言えば、嘘になります。でも──これを選んだのは、私自身です。だから、私は自分の選択に誇りを持っていますよ」


「お前が騎士団を出た後、どこへ行く」


「アッシェンバッハの残党が、まだ水面下で蠢いている場所です。……公爵殿。貴方の背中を守る盾として、私は別の、もっと汚くて暗い政治の場所で戦います。そちらの方が、私には向いている」


 レオナルトは言った。


 ルカが笑っていられる、あの『何でもない平穏な日常』を守るために、自分が政治の最前線の泥を被る。それが、彼の選んだ『次の道』だった。


「……無茶をするな、レオナルト」


「公爵殿には、言われたくないですね。いつも無茶ばかりしている貴方に」


 レオナルトが軽口を叩くと、グレアムは少しだけ、本当に少しだけ、口元を和らげた。


「……そうだな」


「レオナルト」


 グレアムが、再び彼をフルネームではなく、名前だけで呼んだ。


「はい」


「……長い間、私を、この国を支えてくれて……ありがとう」


 その言葉の重さに、レオナルトはハッとして目を見張り。


 やがて、これまでに見たどの笑顔よりも、一番穏やかで、澄み切った表情で一礼した。


「こちらこそ。……公爵殿の傍で、共に戦えて。本当に、光栄でした」


   *


 その日の午後。


 レオナルトは、王城の中庭で、ぽつんと一人で座っているルカの姿を見つけた。


 ルカは本を開いていたが、やはり全然読めていない。


「……少し、よろしいですか、ルカ嬢」


 レオナルトが優しく声をかけると、ルカは「あっ、騎士団長殿!」と、無防備な、嬉しそうな笑顔で振り返った。


「はい、どうぞ! 隣、空いてますよ」


 ルカがベンチの隣を叩く。レオナルトは、静かにその隣へと腰を下ろした。


 吹き抜ける風が、ルカの亜麻色の髪を揺らす。


「ルカ嬢。……貴女に、報告があります」


「報告ですか?」


「ええ。……近く、第一騎士団長の職を辞することになりました」


 ルカは、手に持っていた本を落としそうになり、慌てて抱え直した。


 驚きで、ヘーゼルアイが大きく丸くなる。


「え……!? 辞めるって、どうしてですか!? 何かあったんですか?」


「いえ、何かあったわけではありませんよ」


 レオナルトは、ルカを宥めるように穏やかに微笑んだ。


「ただ、次の場所へ行く時が来た、というだけです。……私は、もう少し別の、騒がしい場所で戦う方が、性に合っているようでしてね」


「そんな……」


 ルカは、ひどく寂しそうに眉を下げた。


 そして、膝の上の本をぎゅっと抱きしめ、ぽつりと言った。


「……私、騎士団長殿に、ちゃんとお礼を言えていなかった気がして」


「お礼、ですか?」


「はい。初めて夜会で私が一人でどうしようもなかった時も。ランツ伯爵に絡まれた時も。閣下と私がすれ違って、私が馬鹿みたいに悩んでいた時も……。いつも、気づけば騎士団長殿が私の隣にいて、助けてくれました」


 ルカは、真っ直ぐにレオナルトの翠の瞳を見つめた。


「私、騎士団長殿のこと、本当に……本当に、頼りにしていました。あなたがいてくれて、本当によかったって、何度も思ったんです」


 レオナルトは、その言葉を静かに聞いていた。


 胸の奥が、熱いものでいっぱいになり、同時に、チクリと痛む。


「……知っていますよ。いつも、まっすぐに言ってくれましたからね」


「笑わないでください。私は真剣です」


「笑っていませんよ」


 レオナルトは優しく目を細めた。


「……嬉しかったんですよ、ルカ嬢。貴女が、そう言って頼りにしてくれたことが。本当に」


 彼女の飾らないその信頼こそが、完璧な仮面を被って生きてきた自分への、何よりの救いだった。


「騎士団長殿は……これから、どこへ行くんですか?」


「もう少し、戦うべき場所がありましてね。公爵殿の傍よりも、少しだけ暗くて、危ない場所ですが──私には、そちらの方が向いている気がするんです」


「危ない場所……。無理は、絶対にしないでくださいね」


 ルカの、どこまでも真っ直ぐで、自分を案じる言葉。


 レオナルトは、心からの苦笑を漏らした。


「ルカ嬢らしいですね。最後の最後まで、私を心配してくれる」


「当然です」


 しばらく、二人の間に静かな沈黙が落ちた。


 落ち葉が、二人の足元をサラサラと通り過ぎていく。


 レオナルトは、これが最後だと、自分の中で境界線を引くように、静かに言った。


「……ルカ嬢。一つだけ、最後に言っていいですか」


「はい」


「貴女は──私にとって、とても、眩しい人でした」


「え?」


 ルカが、不思議そうに瞬きをする。


「誰もが顔色を窺い、仮面を被って欺き合うこの王城で。貴女だけが、飾らず、正直で、不器用で……。でも、誰よりも真剣に生きていた。……そういう貴女の姿が、私には、たまらなく眩しかったのですよ」


 ルカは、何も言えなくなった。


 レオナルトの完璧な笑顔。けれど、今日の彼のその笑顔の奥には、いつもは決して見せない、隠しきれない熱い『何か』が、静かに、優しく滲んでいた。


「……それだけです。伝えたかったのは」


 レオナルトは立ち上がり、ルカに向けて、極上の、誰もが憧れる第一騎士団長としての最後の一礼を捧げた。


「騎士団長殿。……どうか、幸せになってください」


 ルカが、少しだけ声を詰まらせながら言った。


 レオナルトは、その言葉を丸ごと飲み込むように、深く頷いた。


「……ええ。貴女もね、ルカ嬢。……どうか、世界で一番、幸せになってください」


「では、私はこれで」


 レオナルトはそう言って、踵を返した。


「騎士団長殿!」


 後ろから、ルカの呼び止める声が響く。


「はい?」


 レオナルトが、肩越しに振り返る。


「……また、会えますか?」


 ルカの、少しだけ寂しそうな、縋るような問い。


 レオナルトは一瞬だけ、動きを止め──やがて、心から愛おしそうに微笑んだ。


「……ええ、きっと」


 彼は、優しく言った。


「この王国は、そこまで広くはありませんからね」


 それが、ルカの瞳に映った、第一騎士団長レオナルト=クロイツの最後の姿だった。


 彼は再び前を向き、一歩、また一歩と、回廊の奥へ向かって歩き始めた。


 二度と、振り返ることはなかった。


 ルカは、遠ざかっていくその背中を、涙を堪えながら、ただ静かに見送った。


 騎士団長は、振り返らなかった。


 それが、彼にできる、愛した名もなき令嬢への、最後の誠実さだったから。

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