第61話 それで、十分です
翌朝。
エデルハイン男爵邸の自室で、ルカは布団を頭までかぶったまま、ミノムシのように丸まっていた。
目はとっくに覚めている。
だが、どうしても布団から出ることができなかった。
(……昨日。私は確かに、公爵邸の書斎で、あの閣下に求婚された。私は確かに、『はい、喜んで』と、自分の口で言った。……夢じゃない。絶対に、現実だ)
ルカは布団の中で、ぎゅっと自分の両手を握りしめた。彼の温かくて大きな手の感触が、まだ皮膚に残っているような気がした。
(どうしよう。どうしよう。……本当にどうしよう!)
心の中で三回繰り返しても、跳ね上がる鼓動は一向におさまらない。
前世で、数億円規模の社運を賭けたプロジェクトを受注した翌朝だって、これほど取り乱したことはなかった。
バサリ、と。
容赦なく布団が剥ぎ取られた。
「ルカ、朝ご飯──って、どうしたのその顔。真っ赤よ?」
仁王立ちでルカを見下ろしているのは、姉のアンナだった。
「な、なんでもない。ただ、ちょっと部屋の温度が……」
「嘘おっしゃい。外は霜が降りるほど寒いのよ。……絶対になんかあったわね」
「本当になんでもない。ただの、健康的な血色の良さで……」
「グレアム公爵と、何かあったのね?」
アンナの、一瞬の迷いもない直球ストレートな質問。
ルカは悲鳴を上げて再び布団をかぶり直したが、それが何よりの肯定だった。
「……あったんだ」
アンナの、どこか遠い目をした呟きを聞きながら、ルカは布団の中で小さく丸くなることしかできなかった。
*
その日の午前中。
ルカが、まだふわふわとした地に足のつかない心地で王城の回廊を歩いていると、正面から歩いてきた美しい人影と目が合った。
セシリア=フォン=ローゼンベルク。
彼女はルカの顔を見た瞬間、パチリと扇子を閉じ、確信に満ちた目でルカを射抜いた。
「……何か、ありましたわね」
「へっ!? なんでわかるんですか!?」
ルカが驚いて声を上げると、セシリアは呆れたように小さくため息をついた。
「顔に、そう書いてありますわよ。隠すつもりがないのかしら」
「そんな、顔に出やすい方ではないと思うんですが……」
「公爵殿に、何か言われましたの?」
「……はい」
「それで、あなたは?」
セシリアのアメジストの瞳が、柔らかく細められる。
ルカは、もじもじと指先を弄びながら、小声で答えた。
「……はい、と言いました」
セシリアは、スッと扇子で口元を隠した。
その瞳は、これまでに見たことがないほど、優しく笑っていた。
「……おめでとうございます、ルカ嬢」
「あ、あの、まだ誰にも言っていないんですけど……」
「私には、言いましたわね」
「……言いました」
ルカが観念して認めると、セシリアはさらに目を細めた。
「いいお式にしてくださいね。招待状を、楽しみに待っていますわ」
「まだ、そこまでの話は……!」
「ふふっ。でも、貴女らしくて、本当によかったですわ」
その、セシリアの心からの、温かい祝福の言葉。
悪役として断罪されるはずだった彼女と、名前すら載っていなかった自分が、こうして笑い合っている。
ルカは胸が熱くなり、少しだけ目を潤ませて「ありがとうございます」と微笑んだ。
*
その日の夕方。
王城の、静まり返った公爵の執務室。
グレアムは、手元にあった最後の報告書を片付け、正面に立つレオナルトを真っ直ぐに見据えた。
「……ルカに、求婚した」
低く、簡潔な、嘘偽りのない報告。
レオナルトは、何度か瞬きをし──次の瞬間には、いつもの完璧な笑顔を浮かべていた。
「……そうですか」
「承諾された」
「……よかったですね。本当におめでとうございます、公爵殿」
完璧な笑顔。完璧な祝福。
だが、グレアムは何も言わず、ただ静かにレオナルトを見つめ続けた。
「……お前は、どうだ」
「どう、とは?」
レオナルトが、首を傾げて笑う。
「……ルカのことを、お前も想っていたのだろう」
重い、確信に満ちた言葉。
レオナルトの笑顔が、一瞬だけ固まり、そして──ゆっくりと、静かに崩れ落ちた。
仮面を外し、ただの一人の青年としての、本当の顔。
「……公爵殿は、ご存知でしたか」
「……薄々、な」
グレアムは、決して勝ち誇るような目ではなかった。
戦友の痛みを、彼自身が同じくらい重く受け止めているような、そんな静かな瞳だった。
「そうですか。……流石ですね」
レオナルトは、少しだけ肩をすくめた。
「彼女は、貴方の隣で幸せになります。……それだけは、私が保証しましょう」
「……ああ。命に代えても、幸せにする」
「お前は、どうする」
グレアムの、真っ直ぐな問い。
レオナルトは、窓の外の夕景を見つめ──やがて、笑った。
それは、今までルカが見てきたどの笑顔よりも、一番人間らしく、本物で、そしてひどく美しい笑顔だった。
「私には、私にしかできない『別の役割』があります。……それで、十分ですよ」
ルカの笑顔を守るために、別の戦場で盾となる。
そのために、自分のこの想いを、静かに葬る。
「……そうか」
グレアムは、ゆっくりと立ち上がり、レオナルトの前に立った。
そして、真っ直ぐに彼を見つめ、言った。
「レオナルト。……ありがとう」
それは、以前の「ありがとう、全て」とは、全く違う温度を持っていた。
一人の男として、ライバルとしての自分のエゴを押し通すことなく、彼女の幸せを最優先してくれた戦友への、魂からの感謝。
「……光栄です」
レオナルトは答えた。
今日の彼の『光栄です』という声は、一度も震えなかった。
どこまでも穏やかで、澄み渡り、彼自身の揺るぎない覚悟を示していた。
*
その夜。
騎士団長室の窓辺で、レオナルトは一人、暗闇に沈んでいく王都を見つめていた。
(求婚が、終わった。……あとは、私が『私の物語』を始める番だ)
胸の奥に、まだくすぶるように残っている「好きだ」という感情。
それは、今夜も消えてはくれなかった。きっと、一生消えることはないのだろう。
だが──。
(彼女が幸せになる。……それで、十分だ。本当に、十分なんだ)
自分に言い聞かせるように、心の中で「本当に」と二回繰り返した。
それは、まだ完全には信じ切れていない、男としての最後の未練の残骸。
でも。
(十分にする。……私が、そう決める)
レオナルトは、ゆっくりと目を閉じ、次に目を開けた時。
彼の翠の瞳には、かつてないほどの鋭さと、王国の闇を全て背負って立つような、不敵な光が宿っていた。
完璧な騎士の仮面を被り直し、彼は夜の闇を睨みつけた。
第一騎士団長は、今夜。
名もなき令嬢への恋を、完全に終わらせることを。
ただ一人、自分自身に宣言したのだった。




