第60話 消えるまでの時間を、一緒に
翌朝。
王都を包む朝陽はひどく透明で、公爵邸へと向かう馬車の窓から見える景色は、いつもより少しだけ白く霞んで見えた。
ルカ=フォン=エデルハインは、馬車のシートの上で、何度も深く息を吸い込んでは吐き出していた。
昨夜、別れ際にグレアムが残した言葉。
『明日、話す。……楽しみにしていていい』
その約束の「明日」が、今、目の前に迫っている。
緊張のあまり、胃のあたりがキリキリと痛むのを感じながら、ルカは何度も自分に言い聞かせた。
(落ち着け。私はプロの社畜だ。どんなに重要なクライアントとのプレゼン前だって、これほど取り乱したことはない。いつも通り、平熱で、冷静にいけばいい)
けれど、そんな小細工が通用しないほど、彼女の心臓はうるさく鳴り響いていた。
*
公爵邸に到着し、いつもの私的な書斎の扉を開ける。
「……来たか」
デスクの前に立っていたグレアムが、振り返ってルカを見た。
その顔は、いつも通りの無表情。けれど、その青い瞳の奥には、ルカと同じか、あるいはそれ以上の緊張が張り詰めているのが分かった。
お互いが、今日これから何が起きるかを知っている。
だからこそ、二人は不自然なほど「普通」に振る舞おうとしていた。
「はい。おはようございます、閣下。……今日も良いお天気ですね」
「……ああ。そうだな」
ルカは静かにソファに座り、グレアムも、その向かい側のソファへと腰を下ろした。
重苦しい、けれどひどく甘い、密やかな沈黙が落ちる。
「……昨日、明日話すと言った」
グレアムが、沈黙を破って静かに切り出した。
「はい」
「……今日が、その明日だ」
(今日が、その明日。……そうですね。日本語として、一ミリの狂いもなく正しい)
ルカは必死に、いつもの社畜フィルターを起動させて脳内ツッコミを入れ、跳ね上がる心臓を落ち着かせようとした。
けれど、それは彼女に残された最後の悪あがきに過ぎなかった。
グレアムが、ゆっくりと立ち上がった。
彼はデスクを回り、ルカの目の前に歩み寄ると、その見上げるような高い位置から、彼女を真っ直ぐに見下ろした。
「ルカ」
「はい」
呼吸が、止まる。
グレアムは、深く、深く息を吸い込み──そして、一言の淀みもなく、真っ直ぐに彼女の瞳を射抜いて告げた。
「お前に――私の妻になってほしい」
しんと、世界から全ての音が消えた。
ルカは、ソファの上で完全に固まった。
いつもなら、ルカの脳内でやかましく警報を鳴らしていたはずの社畜フィルターは、今回ばかりは、その残骸すら残さずに完全に消滅していた。
『これは公爵家における無期雇用の──』なんて、そんな不誠実な言い訳は、もう彼女の感情の奥底から一枚も浮かんではこなかった。
グレアムは、逃げることなく、熱を帯びた瞳で言葉を重ねた。
「今すぐ答えを出す必要はない。お前にとって、あまりにも急な話であることは分かっている。……だが、私は、お前以外を妻に迎える未来を、どうしても考えられない。お前がいない未来が、私にはもう、見えないんだ」
「……閣下」
ルカの声が、微かに震えた。
視界が、一瞬で熱いものでぼやけていく。
でも──。
「……一つだけ、お聞きしてもいいですか」
「ああ」
ルカは、膝の上でドレスの裾を強く、白くなるほどに握りしめて言った。
「私は──この世界に、本来存在しない人間です。攻略本にも、名前すら載っていなかった。いつ、どんな理由で消えてしまうのかもわからない。……そんな私が、閣下の隣に立つ資格が、本当にあるんでしょうか」
それは、ルカがこの世界に来てからずっと、胸の奥底に澱のように溜め込んできた、最大の『恐怖』だった。
自分は、この世界の物語にとって、何の価値もないただの異物。
そんな自分が、王国を支える氷の公爵の隣に立つなど、あってはならないことなのではないか。
グレアムは、少しだけ動きを止めた。
そして、彼は静かに膝を折り──ルカの前に、しゃがみ込んだ。
ルカと、同じ目線。
いつもルカを見下ろしていたあの大きな男が、今、彼女を見上げるようにして、目線を合わせた。
「ルカ」
グレアムが、大きな手で、ルカの震える手を包み込んだ。
「お前がこの世界に最初からいたかどうか、あの本にお前の名前が載っていたかどうか──そんなことは、私には何一つ関係がない」
「でも、閣下の隣に立つ人間として、私じゃ不釣り合いで……」
「資格の話をしているのではない」
グレアムは、きっぱりと言い切った。
「お前が隣にいることで、私は変わった。お前が来たから、私は花瓶に花を挿すようになり、雨の夜に一人で抱えていた過去を話せるようになり、市場で、汚いと言われていた串焼きを美味いと言って食べるようになった。……その全てが、お前のいない私には、決して起きなかったことだ」
ルカは、息を呑んだ。
「私には、お前の資格を問う権利などない。……お前が、私をただの『氷の公爵』から、一人の人間に変えてくれた。だから、私はお前に隣にいてほしい。それだけだ」
長い、長い沈黙が落ちた。
窓から差し込む陽光の中で、ルカの目から、ぽろぽろと大粒の涙がこぼれ落ちた。
泣きたくないのに。こんな幸せな瞬間に、不細工な泣き顔なんて見せたくないのに、涙は一向に止まってくれなかった。
「……私、本当にいつか、消えちゃうかもしれないんですよ?」
ルカは、涙を拭うことも忘れて、掠れた声で訴えた。
「わかっている」
「それでも……いいんですか」
「わかっていて、それでも、お前に隣にいてほしいと言っている。……いつか消えてしまうのだとしても、私は、その消えるまでの時間を、全てお前と一緒に生きたい。それ以外の人生に、私は価値を見出せない」
どこまでも、真っ直ぐで。
不器用で、重たくて、絶対に嘘のない言葉。
ルカは、泣きながら、堪えきれずに小さく吹き出して笑った。
「……閣下は、本当にずるいです」
「……そうかもしれないな」
グレアムは否定せず、柔らかく目を細めた。
その瞳には、自分の言葉を彼女が受け入れてくれたという、静かな確信が宿っていた。
ルカは、涙を手の甲でそっと拭い。
泣き顔のまま、でも、この世界に来てからで一番美しい笑顔を浮かべて、はっきりと答えた。
「──はい」
「……はい?」
グレアムが、少しだけ驚いたように目を丸くする。
「はい。……喜んで、閣下の妻になります」
グレアムの動きが、一瞬だけピタリと止まった。
そして──。
「……そうか」
と呟いた彼の顔に、これまでに見たことがないほど、優しく、柔らかく、深い安堵の笑みが広がった。
彼が包み込んでいたルカの手を、さらに強く、壊れ物を労るように愛おしそうに握りしめる。
*
しばらくの間、二人は何も言わず、ただ静かにお互いの体温を共有していた。
ルカは、ふっと息を吐き出し、グレアムの顔を見上げて言った。
「閣下」
「なんだ」
「私──本当に、ここにいていいんですね」
これまで、彼に『ここにいろ』と言われたことは何度もあった。
でも──今回のその言葉の意味は、これまでのどれとも、全く違う重さを持っていた。
グレアムは、ルカの髪にそっと触れ、低く囁いた。
「……お前の場所だ。これから先、ずっと」
「……ありがとうございます、閣下」
「礼を言うな」
「言います。すごく、嬉しいので」
「……本当に、強情な奴だな」
「閣下ほどではありませんよ」
ルカが笑って言い返すと、グレアムもまた、喉の奥で小さく笑い声をこぼした。
窓の外では、変わらない王都の街並みが広がっている。
けれど、二人の世界は、今日で完全に、新しく生まれ変わっていた。
攻略本に名前のなかった名もなき令嬢は。
今日。
この世界で、一生を共に生きるための、最初の「はい」を言ったのだった。




