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ローストビーフにむせただけで氷の公爵に溺愛されました。〜攻略本に載っていない社畜令嬢ですが、最強の二人に独占されて平穏な隠居生活が崩壊した件〜  作者: 成瀬 一
第六章 名前のない令嬢の、名前

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60/70

第60話 消えるまでの時間を、一緒に

 翌朝。


 王都を包む朝陽はひどく透明で、公爵邸へと向かう馬車の窓から見える景色は、いつもより少しだけ白く霞んで見えた。


 ルカ=フォン=エデルハインは、馬車のシートの上で、何度も深く息を吸い込んでは吐き出していた。


 昨夜、別れ際にグレアムが残した言葉。


『明日、話す。……楽しみにしていていい』


 その約束の「明日」が、今、目の前に迫っている。


 緊張のあまり、胃のあたりがキリキリと痛むのを感じながら、ルカは何度も自分に言い聞かせた。


(落ち着け。私はプロの社畜だ。どんなに重要なクライアントとのプレゼン前だって、これほど取り乱したことはない。いつも通り、平熱で、冷静にいけばいい)


 けれど、そんな小細工が通用しないほど、彼女の心臓はうるさく鳴り響いていた。


   *


 公爵邸に到着し、いつもの私的な書斎の扉を開ける。


「……来たか」


 デスクの前に立っていたグレアムが、振り返ってルカを見た。


 その顔は、いつも通りの無表情。けれど、その青い瞳の奥には、ルカと同じか、あるいはそれ以上の緊張が張り詰めているのが分かった。


 お互いが、今日これから何が起きるかを知っている。


 だからこそ、二人は不自然なほど「普通」に振る舞おうとしていた。


「はい。おはようございます、閣下。……今日も良いお天気ですね」


「……ああ。そうだな」


 ルカは静かにソファに座り、グレアムも、その向かい側のソファへと腰を下ろした。


 重苦しい、けれどひどく甘い、密やかな沈黙が落ちる。


「……昨日、明日話すと言った」


 グレアムが、沈黙を破って静かに切り出した。


「はい」


「……今日が、その明日だ」


(今日が、その明日。……そうですね。日本語として、一ミリの狂いもなく正しい)


 ルカは必死に、いつもの社畜フィルターを起動させて脳内ツッコミを入れ、跳ね上がる心臓を落ち着かせようとした。


 けれど、それは彼女に残された最後の悪あがきに過ぎなかった。


 グレアムが、ゆっくりと立ち上がった。


 彼はデスクを回り、ルカの目の前に歩み寄ると、その見上げるような高い位置から、彼女を真っ直ぐに見下ろした。


「ルカ」


「はい」


 呼吸が、止まる。


 グレアムは、深く、深く息を吸い込み──そして、一言の淀みもなく、真っ直ぐに彼女の瞳を射抜いて告げた。


「お前に――私の妻になってほしい」


 しんと、世界から全ての音が消えた。


 ルカは、ソファの上で完全に固まった。


 いつもなら、ルカの脳内でやかましく警報を鳴らしていたはずの社畜フィルターは、今回ばかりは、その残骸すら残さずに完全に消滅していた。


『これは公爵家における無期雇用の──』なんて、そんな不誠実な言い訳は、もう彼女の感情の奥底から一枚も浮かんではこなかった。


 グレアムは、逃げることなく、熱を帯びた瞳で言葉を重ねた。


「今すぐ答えを出す必要はない。お前にとって、あまりにも急な話であることは分かっている。……だが、私は、お前以外を妻に迎える未来を、どうしても考えられない。お前がいない未来が、私にはもう、見えないんだ」


「……閣下」


 ルカの声が、微かに震えた。


 視界が、一瞬で熱いものでぼやけていく。


 でも──。


「……一つだけ、お聞きしてもいいですか」


「ああ」


 ルカは、膝の上でドレスの裾を強く、白くなるほどに握りしめて言った。


「私は──この世界に、本来存在しない人間です。攻略本にも、名前すら載っていなかった。いつ、どんな理由で消えてしまうのかもわからない。……そんな私が、閣下の隣に立つ資格が、本当にあるんでしょうか」


 それは、ルカがこの世界に来てからずっと、胸の奥底に澱のように溜め込んできた、最大の『恐怖』だった。


 自分は、この世界の物語にとって、何の価値もないただの異物。


 そんな自分が、王国を支える氷の公爵の隣に立つなど、あってはならないことなのではないか。


 グレアムは、少しだけ動きを止めた。


 そして、彼は静かに膝を折り──ルカの前に、しゃがみ込んだ。


 ルカと、同じ目線。


 いつもルカを見下ろしていたあの大きな男が、今、彼女を見上げるようにして、目線を合わせた。


「ルカ」


 グレアムが、大きな手で、ルカの震える手を包み込んだ。


「お前がこの世界に最初からいたかどうか、あの本にお前の名前が載っていたかどうか──そんなことは、私には何一つ関係がない」


「でも、閣下の隣に立つ人間として、私じゃ不釣り合いで……」


「資格の話をしているのではない」


 グレアムは、きっぱりと言い切った。


「お前が隣にいることで、私は変わった。お前が来たから、私は花瓶に花を挿すようになり、雨の夜に一人で抱えていた過去を話せるようになり、市場で、汚いと言われていた串焼きを美味いと言って食べるようになった。……その全てが、お前のいない私には、決して起きなかったことだ」


 ルカは、息を呑んだ。


「私には、お前の資格を問う権利などない。……お前が、私をただの『氷の公爵』から、一人の人間に変えてくれた。だから、私はお前に隣にいてほしい。それだけだ」


 長い、長い沈黙が落ちた。


 窓から差し込む陽光の中で、ルカの目から、ぽろぽろと大粒の涙がこぼれ落ちた。


 泣きたくないのに。こんな幸せな瞬間に、不細工な泣き顔なんて見せたくないのに、涙は一向に止まってくれなかった。


「……私、本当にいつか、消えちゃうかもしれないんですよ?」


 ルカは、涙を拭うことも忘れて、掠れた声で訴えた。


「わかっている」


「それでも……いいんですか」


「わかっていて、それでも、お前に隣にいてほしいと言っている。……いつか消えてしまうのだとしても、私は、その消えるまでの時間を、全てお前と一緒に生きたい。それ以外の人生に、私は価値を見出せない」


 どこまでも、真っ直ぐで。


 不器用で、重たくて、絶対に嘘のない言葉。


 ルカは、泣きながら、堪えきれずに小さく吹き出して笑った。


「……閣下は、本当にずるいです」


「……そうかもしれないな」


 グレアムは否定せず、柔らかく目を細めた。


 その瞳には、自分の言葉を彼女が受け入れてくれたという、静かな確信が宿っていた。


 ルカは、涙を手の甲でそっと拭い。


 泣き顔のまま、でも、この世界に来てからで一番美しい笑顔を浮かべて、はっきりと答えた。


「──はい」


「……はい?」


 グレアムが、少しだけ驚いたように目を丸くする。


「はい。……喜んで、閣下の妻になります」


 グレアムの動きが、一瞬だけピタリと止まった。


 そして──。


「……そうか」


 と呟いた彼の顔に、これまでに見たことがないほど、優しく、柔らかく、深い安堵の笑みが広がった。


 彼が包み込んでいたルカの手を、さらに強く、壊れ物を労るように愛おしそうに握りしめる。


   *


 しばらくの間、二人は何も言わず、ただ静かにお互いの体温を共有していた。


 ルカは、ふっと息を吐き出し、グレアムの顔を見上げて言った。


「閣下」


「なんだ」


「私──本当に、ここにいていいんですね」


 これまで、彼に『ここにいろ』と言われたことは何度もあった。


 でも──今回のその言葉の意味は、これまでのどれとも、全く違う重さを持っていた。


 グレアムは、ルカの髪にそっと触れ、低く囁いた。


「……お前の場所だ。これから先、ずっと」


「……ありがとうございます、閣下」


「礼を言うな」


「言います。すごく、嬉しいので」


「……本当に、強情な奴だな」


「閣下ほどではありませんよ」


 ルカが笑って言い返すと、グレアムもまた、喉の奥で小さく笑い声をこぼした。


 窓の外では、変わらない王都の街並みが広がっている。


 けれど、二人の世界は、今日で完全に、新しく生まれ変わっていた。


 攻略本に名前のなかった名もなき令嬢は。


 今日。


 この世界で、一生を共に生きるための、最初の「はい」を言ったのだった。

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