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ローストビーフにむせただけで氷の公爵に溺愛されました。〜攻略本に載っていない社畜令嬢ですが、最強の二人に独占されて平穏な隠居生活が崩壊した件〜  作者: 成瀬 一
第六章 名前のない令嬢の、名前

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第59話 お前がいない食卓が、想像できない

 秋の夜気は冷たく、窓硝子の向こう側で揺れる王都の夜景は、いつもより少しだけ遠くに見えた。


 公爵邸の書斎。


 ルカ=フォン=エデルハインは、いつものソファに座って膝の上の本を見つめていた。デスクの向こうでは、グレアムが手元の羊皮紙に目を落としている。


 いつもの場所。いつもの、二人だけの静寂。


 けれど、今夜の部屋を支配する空気は、これまでルカが経験したどんな沈黙とも違っていた。


 心地よい安らぎでも、かつてのような刺すような疑念でもない。


 まるで、重要な契約書の調印式を数分後に控えた会議室のような、肌がピリピリとするほどの期待と緊張が、静かに、確実に満ちていた。


 ルカは、本からそっと視線を上げ、グレアムの様子を盗み見た。


 彼は真剣な顔で書類を見つめている。だが、その大きな手に握られた羽ペンは、先ほどから一ミリも動いていなかった。インクの雫が、ペン先で今にも落ちそうに丸く膨らんでいる。


(……閣下、書類を見ているふりをして、全然仕事が進んでいない。……まあ、私も同じページをさっきから十回くらい往復しているから、お互い様なんだけど)


 ルカの胸の奥で、トクトクと小さく、しかし確実な鼓動が刻まれる。


 お互いが、お互いのことを意識している。その事実を、互いが痛いほどに理解している。


 けれど、誰も最初にその均衡を破るような言葉を口にしようとはしなかった。ただ、この張り詰めた愛おしい沈黙を、少しでも長く引き延ばすように、静かに呼吸を重ねていた。


 コツン。


 グレアムが、ようやく羽ペンをペン立てに戻した。


 そのわずかな音が、ルカの肩を小さく跳ね上がらせる。


「……ルカ」


 低い、砂を噛むような、でもひどく優しい声。


「はい」


 ルカが顔を上げる。


 グレアムは、ソファに座るルカを真っ直ぐに見つめ──何かを言いかけて、その形の良い唇を静かに噤んだ。


「閣下?」


「……お前は、この先も、ずっとここにいるつもりか」


 それは、先日も聞いた問いだった。


 ルカは、少しだけ姿勢を正し、あの日と同じ答えを口にした。


「はい。いると言いました。……閣下が望んでくださるなら、ずっと、ここにいます」


「……それは」


 グレアムの青い瞳が、僅かに揺れる。


 彼は再び何かを語りかけようとして、喉の奥で言葉を留めた。


 ルカは促さず、ただ静かに彼の次の言葉を待った。焦る必要はなかった。二人の時間は、もう誰にも邪魔されないのだから。


「……明日、話したいことがある」


 グレアムが、ルカの目を見つめたまま、はっきりと告げた。


「明日、ですか?」


「ああ。今日は──まだ、このままでいい」


 グレアムはそう言って、わずかに口元を緩めた。


「わかりました。……明日、楽しみにしています」


 ルカは微笑んで頷いた。


 再び、部屋に静かな沈黙が戻ってくる。


 けれど、その空気は、先ほどよりもずっと温かく、そして心臓が痛くなるほどに甘い温度を帯びていた。


(明日、話したいことがある。……閣下が『明日』と言った。今日じゃなくて、明日。……それだけで、なんでこんなに胸が苦しくて、愛おしいんだろう)


 ルカは、自分の胸にそっと手を当て、熱を帯びていく呼吸を必死に整えようとしていた。


   *


 その後、二人は食堂へと移動し、並んで遅い夕食をとった。


 大皿に盛られた温かいシチューと、焼きたてのパン。


「お前は──前世で、一人で食事をとることが多かったのか」


 グレアムが、シチュー用のスプーンを動かしながら、ふと尋ねた。


「はい。前職……前世の仕事が忙しかったので。毎日深夜に、コンビニの冷めたお弁当を一人で食べたり、最悪の時はパソコンの画面を見ながら、片手でパンを押し込んだりしていました」


 グレアムは「コンビニ」「パソコン」という聞き慣れない言葉に少し首を傾げた。


「……それは、寂しかったか」


 グレアムの、静かな問い。


 ルカはスプーンを止め、少しだけ昔のことを思い返した。


「……当時は、それが当たり前でしたから、特に寂しいとは思ったことはありませんでした。慣れていましたから。でも──」


 ルカは、温かい湯気が立ち上るスープを見つめ、静かに笑った。


「今は、あの頃みたいに一人で食べるご飯が、ちょっと想像できなくなっています。……不思議ですね」


「……私もだ」


 グレアムが、低い声で言った。


「私も、以前は一人で食事をすることが当然だった。戦場でも、この屋敷でも、誰かと食卓を囲む必要性を感じたことはなかった」


「今は、どうですか?」


「今は──」


 グレアムは、食べるのを止め、ルカを真っ直ぐに見つめた。


 その青い瞳には、一切の迷いも、照れ隠しのような無愛想さもなかった。一人の男としての、極めて真摯な、揺るぎない眼差し。


「お前がいない食卓が、私には、想像できない」


 ドクン、と。


 ルカの心臓が、今日一番の大きさで跳ね上がった。


 いつもなら起動するはずの、ルカの『社畜防衛フィルター』は。


 この完璧な、逃げ道のないストレートな肯定を前にして、システムエラーを起こして完全に機能停止していた。


 『これは福利厚生の一環としての──』なんて、そんな無駄な言い訳は、もう一文字も頭に浮かばない。


「……私も、です。閣下のいないご飯なんて、もう美味しくないと思います」


 ルカは、真っ赤になった顔を隠すように俯きながら、小さな声で、でもはっきりと答えた。


「……ああ」


 グレアムの声が、ひどく嬉しそうに、そして優しく響いた。


 二人は、それ以上言葉を重ねることなく、静かに食事を続けた。


 けれど、カチャカチャとスプーンが当たる音の合間で、二人の肩の距離は、先ほどよりもずっと近くなっているような気がした。


   *


 夜会も完全に引け、ルカが帰るための馬車が玄関前に用意された。


 グレアムは、外套を羽織ったルカを、自らエントランスまで見送った。


「また明日、来い」


 グレアムが、ルカを見下ろして言った。


「はい。明日も、朝からお邪魔します」


「……ああ。明日、話す」


「はい」


 ルカが微笑んで頷くと、グレアムは少しだけ躊躇うように間を置いて、続けた。


「……楽しみにしていていい」


「え?」


 ルカは驚いて顔を見上げた。


「明日の話を。……お前が望むものを、用意して待っている。だから、楽しみにしていていい」


 それは、彼がルカに向けて言った、これまでの人生で最も積極的で、最も確信に満ちた言葉だった。


「……はいっ。……楽しみに、しています!」


 ルカは、涙がこぼれそうになるのを、とびきりの笑顔で堪えながら答えた。


 馬車に乗り込み、扉が閉まる。


 ゆっくりと動き出す車輪の音を聞きながら、ルカは座席に深く背中をもたれかけ、両手で顔を覆った。


 小窓から外を見ると、公爵邸の門の前で、いつまでもルカの馬車を見送っているグレアムの、あの大きな黒いシルエットが遠ざかっていく。


(明日。……明日、閣下が本当に、大事な話をしてくれる。楽しみにしていていいって、あの人が自分で言ったんだ。……あんなに不器用な人が)


 胸が、熱い。


 嬉しい。


 でも、同じくらい、心臓が潰れそうに怖い。


 その相反する二つの感情が、同時に、けれどひどく心地よくルカの胸をいっぱいに満たしていた。


 馬車は、静まり返った夜の王都を、滑るように走っていく。


 名もなきモブ令嬢にとって。


 人生で、一番長くて、一番待ち遠しい夜が始まった。

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