第58話 どっちにしても、心臓が持たない
アッシェンバッハの残党による法務的な反撃の芽は、レオナルトの裏工作によって完全に摘み取られた。
王城にも公爵邸にも、今度こそ正真正銘の穏やかな日常が戻ってきていた。
「今回も、よくやった」
執務室で報告を受けた後、グレアムがいつものように低く褒めた。
「私は何もしていませんよ。騎士団長殿が全部、完璧に裏でやってくれましたから」
「それでも──お前が迷わずに言葉にしたから、話が動いた。それは前も言ったはずだ」
ルカが謙遜すると、グレアムは真っ直ぐに彼女の目を見て断言した。
「……閣下、また同じことを言いますね」
「事実だから言う」
少しだけ口元を和らげて言う彼に、ルカもつられて柔らかく笑った。
二人の間の空気は、かつての「契約の同伴者」のそれとは全く違い、確かな信頼で結ばれたパートナーのものになっていた。
*
しかし。
数日後から、グレアムの様子が少しだけ「おかしく」なり始めた。
「ルカ。……少し付き合え」
ある日の午後。執務の合間に、グレアムが珍しくルカを呼び出した。
連れて行かれたのは、公爵邸の奥にある、普段は全く使われていない広い部屋だった。
「ここは?」
「……客間だ」
「知っていますけど、なぜここに?」
ルカが首を傾げると、グレアムは部屋の中を少しだけ落ち着かない様子で見回し、ぽつりと聞いた。
「……お前は、この部屋をどう思う」
「え? 綺麗ですけど……少し、寒い感じがしますね。人が長年使っていない部屋って、そういう独特の冷たい空気がありますよね。日当たりは良さそうなのに、少しもったいないというか」
ルカが素直な感想を述べると、グレアムは「……そうか」とだけ言い、それ以上何も言わずに部屋を出ていってしまった。
(……何だったんだ? いきなり客間の感想を聞かれた? なぜ?)
ルカは首をひねりながら、彼の手を追って書斎へと戻った。
*
その数日後。
今度は、休憩がてら二人で庭を歩いていた時のことだ。
「……庭を、少し広げようと思っている」
グレアムが、不意にそんなことを言い出した。
「広げる? 今でも十分すぎるくらい広いですよ? 私の実家の領地の森くらいありますけど」
「……花を、もっと増やしたい」
「へ?」
ルカは目を丸くした。
「手入れが面倒だからって、先代が全部刈り取らせたんですよね? 閣下、急にお花が好きになったんですか?」
「……そういうわけではない」
「じゃあ、なぜですか?」
ルカが不思議そうに覗き込むと、グレアムはフイッと顔を背け、耳の先を赤く染めながら言った。
「……お前が、好きそうだと思って」
ルカの動きが、ピタリと止まった。
(またその言葉だ。『お前が好きそうだと思って』。……閣下、最近この台詞を乱用しすぎている気がする。破壊力が高すぎるんですけど)
ルカの脳内で、いつもの社畜フィルターが「待て。これは庭園管理におけるただの審美的判断、あるいは来客へのホスピタリティ向上のためであって──」と強引に起動しかけた。
だが、今回はそのフィルターの電源を、ルカ自身が即座にバツンと切った。
「……綺麗ですね。楽しみです」
ルカがただ真っ直ぐに微笑むと、グレアムは少しだけホッとしたように「……ああ」と頷いた。
*
決定的な出来事は、その翌日に起きた。
ルカが図書室へ向かうため廊下を歩いていると、少し先の物陰から、話し声が聞こえてきた。
グレアムと、メイドのエマだ。
何気なく通り過ぎようとしたルカの耳に、信じられない言葉が飛び込んできた。
「……エデルハイン令嬢の、好きな食べ物はなんだ」
「えっ?」
「好きな季節は。……好きな花は、なんだ」
グレアムの、ひどく真剣で、どこか焦っているような声。
「も、もしかして、閣下……?」
「何でもない。……報告だけしろ」
誤魔化しきれていないグレアムの命令に、エマは一瞬言葉を失った後、顔を真っ赤にして興奮気味に早口で答え始めた。
「は、はい! ルカ様は春のぽかぽかした陽気が一番お好きで、食べ物はお肉全般ならなんでも大喜びで、花は特に白い可憐なものがお好きだと──!」
ルカは、物陰で両手で口を覆い、完全にフリーズしていた。
(か、閣下が……私の好きなものを、エマにリサーチしていた? なんで? もしかして……?)
ルカの社畜フィルターが、最後の抵抗とばかりに「これは部下の嗜好を正確に把握し、モチベーション管理に役立てる優秀な上司の模範的行動では──」と分析結果を弾き出そうとしたが。
今回は、そのフィルターが起動した瞬間に、ルカは自分でおかしくなって笑ってしまった。
(……さすがに、それは無理があるよ。私、どれだけ現実逃避したいんだ)
*
その夜。
男爵邸の自室のベッドに潜り込んだルカは、ここ数日の出来事を一人で思い返していた。
使っていない客間の感想を聞かれた。
庭に花を増やすと言われた。
私の好きなものを、わざわざエマに聞いていた。
(……閣下、絶対に何かを準備している)
それが「何」なのか。
鈍感なルカにだって、さすがに薄々わかっている。
(もし違ったら、ただの私の自意識過剰で恥ずかしすぎる。でも──もし、私の想像通りだとしたら……)
ルカは、真っ赤になった顔を隠すように、布団を頭まですっぽりと被った。
心臓が、自分でも引くくらいうるさく鳴っている。
(あーもう、ダメだ! どっちにしても、心臓が持たない!)
一人でベッドを転げ回るルカの姿を、誰も知らない。
氷の公爵は今日も、不器用に、でも確実に、愛する名もなき令嬢のための「何か」を準備していた。




