第57話 騎士団長の立場を、使い切る
夜の帳が下りた王都の裏通り。
人目につかない路地の奥にある、ひっそりとした事務所の前に、一人の男が立っていた。
王国第一騎士団長、レオナルト=クロイツ。
いつもの輝かしい銀の甲冑も、整った軍服も身につけていない。夜の闇に紛れるような、地味な深い紺色の私服を纏っている。
(正面から力でねじ伏せるのは容易い。けれど──それでは煤が残る)
レオナルトは、一度だけ深く息を吐き出し、重い鉄の扉を叩いた。
(これが、私という手札を『騎士団長』として使える、最後の大きな仕事になるかもしれないからな)
*
事務所の中でレオナルトを待ち構えていたのは、アッシェンバッハの残党の一人、法務官僚ハインツ=クラウゼだった。
「……何の用だ、騎士団長。我々を捕らえに来たのか」
ハインツが、机越しに剥き出しの警戒心を向けてくる。
「いえ、あなたを潰しに来たのではありません」
レオナルトは、極上の笑顔を浮かべて、正面の椅子に腰を下ろした。
「あなたに、こちら側──『正しい側』で働いてほしいと思って、直接伺ったのですよ」
「何だと……?」
「あなたは王国の法律の抜け穴を熟知している。アッシェンバッハに脅され、その知識を悪用して泥船に乗るより。その知識を、今後王国の法を整えるために使えば──あなたは誰よりも有能な、歴史に名を残す法務官になれる。どちらが賢い選択か、説明するまでもありませんよね?」
レオナルトの甘い提案に、ハインツは苦々しく笑った。
「そんな言葉、信用できるはずがない。私が裏切った瞬間、お前たちは私をトカゲの尻尾として切り捨てるだろう」
「……では、信用の担保として。私が『個人的に』、あなたの地位と身の安全を完全に保証しましょう。騎士団の名においてではなく、レオナルト=クロイツ個人として」
ハインツが目を見開く。
「騎士団長が、個人的に? なぜそこまでする」
「ええ。……私は、もうすぐこの『騎士団長』という立場を使い切るつもりですからね。その前に、一つだけ大きな仕事を、私の独断で完遂しておきたいのですよ」
「使い切る……?」
「気にしないでください。こちらの事情です」
レオナルトは、完璧な仮面の裏で静かに笑った。
交渉は、成立した。
*
事務所を出て、一人で夜の王都を歩く。
(うまくいった。ハインツは──思ったより早く、正しい側に来てくれた。あの人は元々、残党に脅されて動いていただけだったからな)
ハインツが持っていた機密情報があれば、残党の動きは完全に封じられる。
グレアム公爵への公式な報告は明日でいい。今夜だけは、一人の青年として、冷たい夜風を浴びながら考えたかった。
(『騎士団長の立場を使い切る』か。……自分でそう言いながら、ようやく実感が湧いてきたな)
レオナルトは、立ち止まって夜空を見上げた。
(グレアム殿下は、近いうちにルカ嬢に求婚するだろう)
確信があった。
先日の市場での帰り道、あの不器用な軍神が何かを言いかけて飲み込んだ、あのひどく真剣な表情を。レオナルトは遠くから見逃していなかった。
(あの鉄仮面の公爵が、あんな顔をするとは思わなかった。……彼女への感情が、完全に『恋』の形をしていた)
レオナルトは、自嘲気味に、けれど柔らかく笑った。
(二人が結ばれた後──私は、騎士団を降りる。そして、公爵派の最前線の盾として、政敵と正面から戦う政治の場へ回ろう。騎士団長として彼女を遠くから守る仕事を終えた後、私には、私にしかできない『別の役割』がある)
それは、退場ではない。
新しい戦いへの門出だ。
(ルカ嬢の、あの無防備な笑顔は──公爵殿が、その腕の中で守り抜けばいい。私はその腕に、一筋の影も、一粒の火の粉も飛ばさせないために、別の場所で、別の形で、この王国という盤面を支える。……それでいい)
自らの恋心を、誇り高く、そして静かに葬り去る。
それが、一人の騎士が愛した女性に捧げる、最高級の献身だった。
*
翌日。
公爵邸の回廊で、ルカがレオナルトの姿を見つけて駆け寄ってきた。
「あ、騎士団長殿! お疲れ様です。昨日の交渉……なんだか凄く大変そうでしたけど、うまくいったんですか?」
「ええ。おかげさまで、完璧に」
レオナルトがいつもの笑顔で返すと、ルカは「よかったぁ」と心底安堵したように胸を撫で下ろした。
「騎士団長殿、最近寝不足そうでしたから。あんまり無理して、過労で倒れたりしないでくださいね?」
「無理ではありませんよ、ルカ嬢。……むしろ、今はとてもすっきりしているんです」
「すっきり?」
ルカが不思議そうに首を傾げる。
レオナルトは、その琥珀色の瞳を眩しそうに見つめ、優しく微笑んだ。
「ええ。自分がこれからやるべきことが、ようやく、はっきりと見えてきた感じがしましてね」
「やるべきこと……。それは、いいことですね! 応援しています!」
屈託のない、心からのエール。
レオナルトは、その笑顔を目に焼き付けるように、少しだけ目を細めた。
(……そうだ。これが最後ではなく、新しい物語の始まりだ)
騎士団長は今夜、自分の歩むべき「次の道」を、静かに、そして確かに決めたのだった。




