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ローストビーフにむせただけで氷の公爵に溺愛されました。〜攻略本に載っていない社畜令嬢ですが、最強の二人に独占されて平穏な隠居生活が崩壊した件〜  作者: 成瀬 一
第六章 名前のない令嬢の、名前

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第57話 騎士団長の立場を、使い切る

 夜の帳が下りた王都の裏通り。


 人目につかない路地の奥にある、ひっそりとした事務所の前に、一人の男が立っていた。


 王国第一騎士団長、レオナルト=クロイツ。


 いつもの輝かしい銀の甲冑も、整った軍服も身につけていない。夜の闇に紛れるような、地味な深い紺色の私服を纏っている。


(正面から力でねじ伏せるのは容易い。けれど──それでは煤が残る)


 レオナルトは、一度だけ深く息を吐き出し、重い鉄の扉を叩いた。


(これが、私という手札を『騎士団長』として使える、最後の大きな仕事になるかもしれないからな)


   *


 事務所の中でレオナルトを待ち構えていたのは、アッシェンバッハの残党の一人、法務官僚ハインツ=クラウゼだった。


「……何の用だ、騎士団長。我々を捕らえに来たのか」


 ハインツが、机越しに剥き出しの警戒心を向けてくる。


「いえ、あなたを潰しに来たのではありません」


 レオナルトは、極上の笑顔を浮かべて、正面の椅子に腰を下ろした。


「あなたに、こちら側──『正しい側』で働いてほしいと思って、直接伺ったのですよ」


「何だと……?」


「あなたは王国の法律の抜け穴を熟知している。アッシェンバッハに脅され、その知識を悪用して泥船に乗るより。その知識を、今後王国の法を整えるために使えば──あなたは誰よりも有能な、歴史に名を残す法務官になれる。どちらが賢い選択か、説明するまでもありませんよね?」


 レオナルトの甘い提案に、ハインツは苦々しく笑った。


「そんな言葉、信用できるはずがない。私が裏切った瞬間、お前たちは私をトカゲの尻尾として切り捨てるだろう」


「……では、信用の担保として。私が『個人的に』、あなたの地位と身の安全を完全に保証しましょう。騎士団の名においてではなく、レオナルト=クロイツ個人として」


 ハインツが目を見開く。


「騎士団長が、個人的に? なぜそこまでする」


「ええ。……私は、もうすぐこの『騎士団長』という立場を使い切るつもりですからね。その前に、一つだけ大きな仕事を、私の独断で完遂しておきたいのですよ」


「使い切る……?」


「気にしないでください。こちらの事情です」


 レオナルトは、完璧な仮面の裏で静かに笑った。


 交渉は、成立した。


   *


 事務所を出て、一人で夜の王都を歩く。


(うまくいった。ハインツは──思ったより早く、正しい側に来てくれた。あの人は元々、残党に脅されて動いていただけだったからな)


 ハインツが持っていた機密情報があれば、残党の動きは完全に封じられる。


 グレアム公爵への公式な報告は明日でいい。今夜だけは、一人の青年として、冷たい夜風を浴びながら考えたかった。


(『騎士団長の立場を使い切る』か。……自分でそう言いながら、ようやく実感が湧いてきたな)


 レオナルトは、立ち止まって夜空を見上げた。


(グレアム殿下は、近いうちにルカ嬢に求婚するだろう)


 確信があった。


 先日の市場での帰り道、あの不器用な軍神が何かを言いかけて飲み込んだ、あのひどく真剣な表情を。レオナルトは遠くから見逃していなかった。


(あの鉄仮面の公爵が、あんな顔をするとは思わなかった。……彼女への感情が、完全に『恋』の形をしていた)


 レオナルトは、自嘲気味に、けれど柔らかく笑った。


(二人が結ばれた後──私は、騎士団を降りる。そして、公爵派の最前線の盾として、政敵と正面から戦う政治の場へ回ろう。騎士団長として彼女を遠くから守る仕事を終えた後、私には、私にしかできない『別の役割』がある)


 それは、退場ではない。


 新しい戦いへの門出だ。


(ルカ嬢の、あの無防備な笑顔は──公爵殿が、その腕の中で守り抜けばいい。私はその腕に、一筋の影も、一粒の火の粉も飛ばさせないために、別の場所で、別の形で、この王国という盤面を支える。……それでいい)


 自らの恋心を、誇り高く、そして静かに葬り去る。


 それが、一人の騎士が愛した女性に捧げる、最高級の献身だった。


   *


 翌日。


 公爵邸の回廊で、ルカがレオナルトの姿を見つけて駆け寄ってきた。


「あ、騎士団長殿! お疲れ様です。昨日の交渉……なんだか凄く大変そうでしたけど、うまくいったんですか?」


「ええ。おかげさまで、完璧に」


 レオナルトがいつもの笑顔で返すと、ルカは「よかったぁ」と心底安堵したように胸を撫で下ろした。


「騎士団長殿、最近寝不足そうでしたから。あんまり無理して、過労で倒れたりしないでくださいね?」


「無理ではありませんよ、ルカ嬢。……むしろ、今はとてもすっきりしているんです」


「すっきり?」


 ルカが不思議そうに首を傾げる。


 レオナルトは、その琥珀色の瞳を眩しそうに見つめ、優しく微笑んだ。


「ええ。自分がこれからやるべきことが、ようやく、はっきりと見えてきた感じがしましてね」


「やるべきこと……。それは、いいことですね! 応援しています!」


 屈託のない、心からのエール。


 レオナルトは、その笑顔を目に焼き付けるように、少しだけ目を細めた。


(……そうだ。これが最後ではなく、新しい物語の始まりだ)


 騎士団長は今夜、自分の歩むべき「次の道」を、静かに、そして確かに決めたのだった。

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