第55話 ひとつだけ
グレアムからの「ずっといてくれ」にルカが「はい」と笑顔で答えた、あの決定的な夜から数日後。
二人の間にあった見えない壁は完全に取り払われ、公爵邸には「新しい日常」が訪れていた。
いつもの私的な書斎。
ルカがソファで本を読み、デスクの向こうでグレアムが書類を処理している。
部屋には、二人の静かな呼吸の音と、ページを捲る微かな音だけが響いている。
でも──「ずっといてくれ」という言葉の後に流れるこの沈黙は、以前の「お互いの腹の底を探り合う重苦しさ」とは全く違うものだった。
(……この沈黙、すごく心地いいな)
ルカは本からそっと視線を外し、窓の外の青空を眺めた。
(前世で、休日に一人暗い部屋に引きこもってゲームをしてた時の、あの逃避みたいな沈黙とは全然違う。……誰かが同じ空間にいてくれるだけで、こんなに安心できるんだ)
ルカが静かに温かい気持ちを噛み締めていると、不意にグレアムが羽ペンを置いた。
「……今日は、早く終わりそうだ」
ルカは驚いて顔を上げた。
「珍しいですね。閣下が明るいうちに仕事を終えられるなんて」
「……ああ」
グレアムは少しだけ視線を泳がせ、床に落ちるような声で言った。
「……少し、出かけるか」
「え?」
「王都の市場に、少し用がある」
「閣下が、市場にですか?」
氷の公爵が庶民の市場に用事など、あるはずがない。
ルカが首を傾げると、グレアムは腕を組み、真顔で言い切った。
「……視察だ」
(『視察』。……出た! 『部下をご飯に誘いたいけど、素直に言えないから「午後の会議の後に外で軽くランチミーティングでもするか」って誤魔化す』やつだ!)
いつもならここで社畜フィルターが「時間外労働の強要」と警報を鳴らすところだが、今日のルカは一味違った。
社畜の電源をバツンと切り、満面の笑みで即答する。
「行きます! ぜひお供させてください!」
ルカの弾んだ声に、グレアムの耳の先がほんのりと赤く染まった。
*
かくして、王都の賑やかな市場に、異様な一角が誕生した。
「……」
「……」
活気あふれる屋台通りを、グレアムとルカが並んで歩いている。
黒い軍服風の私服を着たグレアムの、隠しきれない「絶対強者」の威圧オーラは凄まじく、すれ違う市民や露店の店主たちが、蛇に睨まれた蛙のように全員カチンコチンに固まっていた。
(閣下、目立ちすぎる……。市場の喧騒が、私たちが通るたびにモーセの十戒みたいに静まり返って道が開いていく)
ルカが内心で冷や汗を流していると、周囲の視線に気づいたグレアムが、不機嫌そうに眉をひそめた。
「……何を見ている」
「みんな、閣下に見惚れてるんですよ。背も高いし、ものすごくカッコいいですから」
ルカが正直に答えると、グレアムはピタリと足を止め、顔を背けた。
「……余計なことを言うな」
声は低かったが、横顔の耳の先が真っ赤になっているのが見えた。
(あ、また照れてる。可愛い)
ルカが密かにキュンとしていると、ふと、香ばしい肉の匂いが鼻腔をくすぐった。
「あ、閣下! あれ食べていいですか!」
ルカが指差したのは、炭火で焼かれた肉汁たっぷりの串焼きの屋台だった。
以前、レオナルトが種飛ばしで自滅した時にも食べた、庶民の味だ。
「……好きにしろ」
グレアムが呆れたようにため息をつくと、ルカは嬉々として屋台に駆け寄り、串焼きを購入した。
「いただきまーす!」
串にかぶりつき、熱々の肉を咀嚼する。
(美味しい! 最高! やっぱりこの世界のご飯は、レベルが高すぎる!)
ルカが幸せそうに頬を緩めていると、グレアムがその無防備な顔をじっと見つめ、ぽつりと聞いた。
「……どうだ」
「すごく美味しいです! 閣下も食べますか?」
ルカは無意識のうちに、自分が一口齧った串焼きを、グレアムの顔の前にスッと差し出していた。
「……私は」
グレアムが、目を見開いて完全に固まった。
周囲で遠巻きに見ていた市場の人々も、「あ、あの氷の公爵に『あーん』だと!?」と、衝撃のあまり石像のようにフリーズしている。
(あっ! やばい、やりすぎたかも!)
ルカは我に返り、慌てて串焼きを引っ込めようとした。
「す、すみません! 貴族の作法的に、こんな立ち食いの食べかけを勧めるなんて、絶対にダメでしたよね!」
ルカが真っ赤になって謝罪した、その直後だった。
グレアムが、ルカの手首を軽く掴んで引き寄せ。
パクッ。
「え?」
グレアムが、ルカの差し出した串焼きの肉を、一つだけ口に含んだ。
長い睫毛を伏せ、少しだけ咀嚼し、嚥下する。
「……悪くない」
彼が低く言うと、市場全体から「おおぉっ……!」という、どよめきにも似た歓声が湧き上がった。
「よ、よかったです!」
ルカが慌てて笑顔を作ると、グレアムはそっぽを向き、耳まで真っ赤に染めながら「……行くぞ」とだけ言って、足早に歩き出した。
*
夕暮れ時。
視察という名のデートを終え、夕日に照らされる帰り道を二人で並んで歩いていた。
「……また、来るか」
グレアムが、前を向いたまま不意に聞いた。
「はい! ぜひ!」
ルカが即答すると、彼は「……そうか」と、柔らかく口元を和らげた。
少しの間、二人の足音だけが響く。
やがて、グレアムが立ち止まり、ルカを見下ろした。
「……ルカ」
「はい?」
真剣な、深い青の瞳。
「お前は──この先、どうしたいと思っているんだ」
ルカは、少しだけ首を傾げた。
「この先、というのは……?」
仕事のことだろうか。領地のことだろうか。
グレアムは、何かを言い淀むように視線を僅かに泳がせ──やがて、小さく息を吐いた。
「……いや、なんでもない」
彼はそう言って、再び歩き出した。
でも──彼が言いかけたその「言葉の重さ」を、ルカは確かに感じ取っていた。
(この先。……閣下、今、すごく大事なことを言いかけた。前職で言うと『上司が重大な人事異動の話を切り出す直前に、言葉を飲み込んだ時』のあの空気だ)
社畜フィルターが即座に最適解を弾き出したが、ルカは今日、完全にその電源を落とした。
ただ──胸の奥が、期待と緊張で、トクトクと高鳴るのを感じながら。
「閣下が聞きたいことがあれば……いつでも、聞いてくださいね」
ルカが少しだけ背伸びをして背中に声をかけると。
前を歩くグレアムは、振り返らずに、でも確かに届く声で応えた。
「……ああ」
氷の公爵は今日、言いかけた言葉を飲み込んだ。
でも──その言葉はもう、彼の胸の中でゆっくりと、確かな「形」になり始めていた。




