表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ローストビーフにむせただけで氷の公爵に溺愛されました。〜攻略本に載っていない社畜令嬢ですが、最強の二人に独占されて平穏な隠居生活が崩壊した件〜  作者: 成瀬 一
シナリオが、狂い始める

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

55/56

第55話 ひとつだけ

 グレアムからの「ずっといてくれ」にルカが「はい」と笑顔で答えた、あの決定的な夜から数日後。


 二人の間にあった見えない壁は完全に取り払われ、公爵邸には「新しい日常」が訪れていた。


 いつもの私的な書斎。


 ルカがソファで本を読み、デスクの向こうでグレアムが書類を処理している。


 部屋には、二人の静かな呼吸の音と、ページを捲る微かな音だけが響いている。


 でも──「ずっといてくれ」という言葉の後に流れるこの沈黙は、以前の「お互いの腹の底を探り合う重苦しさ」とは全く違うものだった。


(……この沈黙、すごく心地いいな)


 ルカは本からそっと視線を外し、窓の外の青空を眺めた。


(前世で、休日に一人暗い部屋に引きこもってゲームをしてた時の、あの逃避みたいな沈黙とは全然違う。……誰かが同じ空間にいてくれるだけで、こんなに安心できるんだ)


 ルカが静かに温かい気持ちを噛み締めていると、不意にグレアムが羽ペンを置いた。


「……今日は、早く終わりそうだ」


 ルカは驚いて顔を上げた。


「珍しいですね。閣下が明るいうちに仕事を終えられるなんて」


「……ああ」


 グレアムは少しだけ視線を泳がせ、床に落ちるような声で言った。


「……少し、出かけるか」


「え?」


「王都の市場に、少し用がある」


「閣下が、市場にですか?」


 氷の公爵が庶民の市場に用事など、あるはずがない。


 ルカが首を傾げると、グレアムは腕を組み、真顔で言い切った。


「……視察だ」


(『視察』。……出た! 『部下をご飯に誘いたいけど、素直に言えないから「午後の会議の後に外で軽くランチミーティングでもするか」って誤魔化す』やつだ!)


 いつもならここで社畜フィルターが「時間外労働の強要」と警報を鳴らすところだが、今日のルカは一味違った。


 社畜の電源をバツンと切り、満面の笑みで即答する。


「行きます! ぜひお供させてください!」


 ルカの弾んだ声に、グレアムの耳の先がほんのりと赤く染まった。


   *


 かくして、王都の賑やかな市場に、異様な一角が誕生した。


「……」


「……」


 活気あふれる屋台通りを、グレアムとルカが並んで歩いている。


 黒い軍服風の私服を着たグレアムの、隠しきれない「絶対強者」の威圧オーラは凄まじく、すれ違う市民や露店の店主たちが、蛇に睨まれた蛙のように全員カチンコチンに固まっていた。


(閣下、目立ちすぎる……。市場の喧騒が、私たちが通るたびにモーセの十戒みたいに静まり返って道が開いていく)


 ルカが内心で冷や汗を流していると、周囲の視線に気づいたグレアムが、不機嫌そうに眉をひそめた。


「……何を見ている」


「みんな、閣下に見惚れてるんですよ。背も高いし、ものすごくカッコいいですから」


 ルカが正直に答えると、グレアムはピタリと足を止め、顔を背けた。


「……余計なことを言うな」


 声は低かったが、横顔の耳の先が真っ赤になっているのが見えた。


(あ、また照れてる。可愛い)


 ルカが密かにキュンとしていると、ふと、香ばしい肉の匂いが鼻腔をくすぐった。


「あ、閣下! あれ食べていいですか!」


 ルカが指差したのは、炭火で焼かれた肉汁たっぷりの串焼きの屋台だった。


 以前、レオナルトが種飛ばしで自滅した時にも食べた、庶民の味だ。


「……好きにしろ」


 グレアムが呆れたようにため息をつくと、ルカは嬉々として屋台に駆け寄り、串焼きを購入した。


「いただきまーす!」


 串にかぶりつき、熱々の肉を咀嚼する。


(美味しい! 最高! やっぱりこの世界のご飯は、レベルが高すぎる!)


 ルカが幸せそうに頬を緩めていると、グレアムがその無防備な顔をじっと見つめ、ぽつりと聞いた。


「……どうだ」


「すごく美味しいです! 閣下も食べますか?」


 ルカは無意識のうちに、自分が一口齧った串焼きを、グレアムの顔の前にスッと差し出していた。


「……私は」


 グレアムが、目を見開いて完全に固まった。


 周囲で遠巻きに見ていた市場の人々も、「あ、あの氷の公爵に『あーん』だと!?」と、衝撃のあまり石像のようにフリーズしている。


(あっ! やばい、やりすぎたかも!)


 ルカは我に返り、慌てて串焼きを引っ込めようとした。


「す、すみません! 貴族の作法的に、こんな立ち食いの食べかけを勧めるなんて、絶対にダメでしたよね!」


 ルカが真っ赤になって謝罪した、その直後だった。


 グレアムが、ルカの手首を軽く掴んで引き寄せ。


 パクッ。


「え?」


 グレアムが、ルカの差し出した串焼きの肉を、一つだけ口に含んだ。


 長い睫毛を伏せ、少しだけ咀嚼し、嚥下する。


「……悪くない」


 彼が低く言うと、市場全体から「おおぉっ……!」という、どよめきにも似た歓声が湧き上がった。


「よ、よかったです!」


 ルカが慌てて笑顔を作ると、グレアムはそっぽを向き、耳まで真っ赤に染めながら「……行くぞ」とだけ言って、足早に歩き出した。


   *


 夕暮れ時。


 視察という名のデートを終え、夕日に照らされる帰り道を二人で並んで歩いていた。


「……また、来るか」


 グレアムが、前を向いたまま不意に聞いた。


「はい! ぜひ!」


 ルカが即答すると、彼は「……そうか」と、柔らかく口元を和らげた。


 少しの間、二人の足音だけが響く。


 やがて、グレアムが立ち止まり、ルカを見下ろした。


「……ルカ」


「はい?」


 真剣な、深い青の瞳。


「お前は──この先、どうしたいと思っているんだ」


 ルカは、少しだけ首を傾げた。


「この先、というのは……?」


 仕事のことだろうか。領地のことだろうか。


 グレアムは、何かを言い淀むように視線を僅かに泳がせ──やがて、小さく息を吐いた。


「……いや、なんでもない」


 彼はそう言って、再び歩き出した。


 でも──彼が言いかけたその「言葉の重さ」を、ルカは確かに感じ取っていた。


(この先。……閣下、今、すごく大事なことを言いかけた。前職で言うと『上司が重大な人事異動の話を切り出す直前に、言葉を飲み込んだ時』のあの空気だ)


 社畜フィルターが即座に最適解を弾き出したが、ルカは今日、完全にその電源を落とした。


 ただ──胸の奥が、期待と緊張で、トクトクと高鳴るのを感じながら。


「閣下が聞きたいことがあれば……いつでも、聞いてくださいね」


 ルカが少しだけ背伸びをして背中に声をかけると。


 前を歩くグレアムは、振り返らずに、でも確かに届く声で応えた。


「……ああ」


 氷の公爵は今日、言いかけた言葉を飲み込んだ。


 でも──その言葉はもう、彼の胸の中でゆっくりと、確かな「形」になり始めていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ