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ローストビーフにむせただけで氷の公爵に溺愛されました。〜攻略本に載っていない社畜令嬢ですが、最強の二人に独占されて平穏な隠居生活が崩壊した件〜  作者: 成瀬 一
シナリオが、狂い始める

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第54話 お前が好きそうだと思っただけ

 グレアムとの和解を果たし、「戻ってこい」という言葉をもらった翌日。


 ルカ=フォン=エデルハインは、いつものように公爵邸を訪れていた。


「……来たか」


「はい、来ました」


 書斎の扉を開け、挨拶を交わす。


 たったそれだけの短いやり取り。でも──そこにある空気の重さと温かさは、以前とは全く違っていた。


(帰ってきた感じがする。……私の『帰る場所』って、いつの間にかこの場所になってたんだな)


 ルカが内心でほっこりしていると、社畜フィルターが「待て、これは業務上の定期訪問であって、私的感情を持ち込むのはコンプライアンス的に──」と強引に起動しかけた。


 だが、ルカはそれを一瞬で電源オフにした。今日だけは、この温かい気持ちに素直に従いたかった。


   *


 その日のグレアムは、少しだけ様子が違った。


 いつもなら昼過ぎまでかかる山のような書類仕事を、驚異的なスピードで午前中のうちに終わらせてしまったのだ。


(いつもより処理速度が早い。……閣下、何か急いでる?)


 ルカが不思議に思っていると、ペンを置いたグレアムが立ち上がり、ぽつりと言った。


「……庭に出るか」


「えっ?」


「花が咲いている。……見るか」


「はい!」


 ルカは元気に答え、二人は連れ立って秋の気配が深まる庭園へと出た。


 以前は手入れの行き届いた芝生と無機質な針葉樹しかなかった庭の片隅に、可憐な白い花々が綺麗に咲き揃っている一角があった。


「あれが──先月、植えたものだ」


「閣下が植えたんですか?」


「……クラウスに頼んだ」


「でも、植えるお花を選んだのは閣下ですか?」


 ルカが問いかけると、グレアムは少しだけ視線を泳がせ、足を止めた。


「……そうだ」


「なんというお花なんですか?」


「……名前は知らない。ただ、お前が好きそうだと思っただけだ」


 ルカは、息を呑んで固まった。


(『お前が好きそうだと思っただけだ』。……この人、こういう心臓に悪い台詞を、呼吸するようにさらっと言う!)


 ルカの脳内で、「これは庭園管理におけるただの審美的判断であって──」と必死に解釈を試みようとしたが、もう無理だった。顔が熱くなるのを誤魔化しきれない。


「……すごく、綺麗です。ありがとうございます」


「……そうか」


 グレアムは、少しだけ居心地が悪そうに、でも嬉しそうに目を細めた。


   *


 二人は、木漏れ日の落ちるベンチに並んで腰を下ろした。


 しばらく、静かな時間が流れる。


 でも──以前の、疑念や「言えないこと」を抱え込んだ重苦しい沈黙とは全く違う、ひどく心地よい静寂だった。


「……閣下」


「なんだ」


 ルカが、そっと口を開いた。


「あの、先日……私が遠ざけられていた間のことなんですが」


「……ああ」


「私、あの後、お城の廊下で一回だけ、ちょっと泣いちゃいまして」


「……知っている」


 グレアムが、即答した。


 ルカは目を丸くした。


「えっ!?」


「レオナルトから聞いた」


(騎士団長殿!! 何、余計な報告を勝手にしてるんですか!!)


 ルカは内心で頭を抱え、後でレオナルトに抗議の手紙を書こうと決意した。


 顔を真っ赤にしてうつむくルカに、グレアムは少しだけ間を置いて、低く、かすれた声で言った。


「……すまなかった」


「え?」


 ルカが顔を上げる。


「……それについては、私の落ち度だ」


 氷の軍神、グレアム=ヴァルトシュタインからの、初めての明確な謝罪の言葉だった。


「いいんです。……閣下の疑問は、完全に正しかったので。私が逆の立場でも、絶対に疑ったと思いますから」


 ルカが慌てて否定すると、グレアムは首を横に振った。


「正しさは──お前を一人で泣かせていい理由にはならない」


「……閣下」


 グレアムは、フイッと視線を逸らした。


 窓からの光に透ける彼の耳の先が、信じられないほど赤く染まっているのが見える。


(謝った。閣下が、自分の非を認めて謝った。この人が誰かに『すまなかった』と頭を下げるのを聞いたのは……初めてかもしれない)


 ルカの胸の奥が、熱いものでいっぱいになった。


「ありがとうございます、閣下」


「……礼を言うな」


「言います。すごく嬉しかったので」


「……強情だな、お前は」


「閣下もですよ」


 ルカが笑って言い返すと。


 グレアムの広い肩が、くくっ、と不規則に震えた。笑いを必死に堪えている。


 それを見て、ルカも堪えきれずに吹き出し──静かな秋の庭園に、二人の明るい笑い声が少しだけ響いた。


   *


 夕方。


 美しい夕焼け空の下、帰り際のエントランス。


「……ルカ。一つ、聞いていいか」


 グレアムが、少しだけ真剣な声で引き留めた。


「はい」


「お前は──これからも、この世界にいるつもりか」


 遠い場所(前世)から来たという秘密。


 ルカは、少しだけ足を止めた。


「……わかりません。正直、いつ元の世界に戻るのかも、そもそも戻れるのかどうかも、私にはわからないんです」


「……そうか」


「でも」


 ルカは、真っ直ぐにグレアムの青い瞳を見上げた。


「今は──ここに、閣下の傍にいたいと、心から思っています」


「……今は、か」


 グレアムが、少しだけ寂しそうに目を伏せる。


 ルカは、一歩だけ彼に近づいた。


「『ずっと』は、言ってくれないんですか?」


「……それは」


 グレアムが、珍しく言葉に詰まる。


 そんな彼の不器用な姿が愛おしくて、ルカは柔らかく微笑んで言った。


「閣下が望んでくれるなら──私、ずっと、ここにいますよ」


 長い、長い沈黙が落ちた。


 やがて、グレアムは大きく息を吸い込み。


 全てを包み込むような、深く、優しい声で言った。


「……では。ずっと、いてくれ」


 ルカの視界が、一気にぼやけた。


「……はいっ」


 涙が出そうになるのを、必死に堪える。


 でも──その顔は、とびきりの笑顔だった。


 いつか彼女にも、この世界での確かな「名前」がつくかもしれない。

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