第53話 ただいまの代わりに
第一騎士団長レオナルトに「言葉ではなく行動で示せ」と背中を押されたあの日から、数日が経っていた。
王城の図書室の片隅で、ルカ=フォン=エデルハインは山積みの資料と格闘していた。
グレアムに会いに行くのではない。
彼に遠ざけられている今の自分が、彼のためにできる行動とは何か。
(……攻略本の知識には、もう頼らない。いや、頼れない)
アッシェンバッハが失脚し、隣国・ヴァレンティアが国境で不穏な動きを見せている今の状況は、ゲームのどのルートにも存在しない完全なイレギュラーだ。
今のグレアムが本当に必要としているのは、『未来を知っている不思議な令嬢の予言』などではない。
(この世界で一緒に戦ってきた私の、社畜としての実務能力と、彼を支えたいという意思表示だ)
ルカは羽ペンを握り直し、独自の調査をまとめた報告書の作成に没頭した。
*
翌日。ルカは王都のローゼンベルク侯爵邸を訪ねていた。
「また来ましたわね、エデルハイン令嬢」
応接室で紅茶を傾けるセシリアが、少しだけ呆れたように目を細めた。
「はい。ヴァレンティアの件で、ローゼンベルク家の北部の情報網から、少し教えていただきたいことがあって」
「……公爵殿のためですか?」
セシリアの問いに、ルカは「……はい」とはっきりと頷いた。
セシリアは、ティーカップをことりとソーサーに置いた。
「あなたは今、公爵殿から遠ざけられているのでしょう? 騎士団長殿から、そう伺っていますわ」
「はい。事実上の出入り禁止状態です」
「それでも、動くんですか?」
突き放された相手のために、なぜそこまで必死になるのか。
セシリアの疑問に、ルカは少しも迷わずに答えた。
「閣下が必要としている情報なら──私が遠ざけられているかどうかは、関係ないですから」
自分が愛されたいから動くのではない。彼が今、一人で戦っている戦場に、少しでも有益な弾薬(情報)を届けたいだけだ。
セシリアは、少しの間ルカの顔をまじまじと見つめ。
やがて、ふっと肩の力を抜いて笑った。
「……本当に、変な人ですわね」
「よく言われます」
セシリアは「これで役に立てるかはわかりませんが」と前置きし、北部の商会が独自に掴んでいたヴァレンティアの物資調達の不審な動向について、詳細なデータを提供してくれた。
*
夜。公爵邸の、私的な書斎の扉の前。
ルカは、音を立てないようにそっとしゃがみ込み、数日かけて自らの頭と足で纏め上げた分厚い報告書を、扉の足元に置こうとしていた。
(直接お渡しするのは、閣下がお嫌だろうから。……朝、クラウスさんが気づいて、閣下のデスクに置いてくれればそれでいい)
「会いたい」という私情ではなく、役に立ちたいという純粋な行動。
前職で言うところの、機嫌の悪い上司のデスクに、夜中にそっと完璧な修正資料を置いておく「ステルス提出」である。
ルカが報告書の束を床に置き、そっと手を離そうとした、まさにその瞬間だった。
ガチャリ。
目の前の重厚な扉が、内側から開いた。
ルカは息を呑んで固まった。
扉の向こうに立っていたのは──疲れ切った顔で、軍服の襟元を少し緩めたグレアムだった。
床にしゃがみ込んでいるルカと、見下ろすグレアム。
至近距離で、二人の視線が完全に交差した。
「あっ」
間抜けな声が漏れる。
「……」
グレアムは、幽霊でも見たかのように目を大きく見開き、言葉を失って完全にフリーズしていた。
「え、えっと──これを、お届けしようと思いまして!」
ルカは慌てて立ち上がり、持っていた書類の束をグレアムの胸元に押し付けた。
「ヴァレンティアの件で、参考になるかもしれない情報を纏めました。ローゼンベルク家の商会記録と、私なりの分析を合わせたものです。……でも、直接お会いするのは閣下がご不快かと思って、扉の前に置いて帰ろうとしていました。不法侵入してすみません!」
早口で弁明するルカから、グレアムは無言で書類を受け取った。
パラリ、と最初の数ページに目を通す。
「……これは」
「ゲームの知識ではありません」
ルカは、真っ直ぐにグレアムの目を見て言った。
「全部、この世界で私が実際に見て、関わった人たちから教えてもらった、現実の情報です。……閣下の、お役に立てるかどうかはわかりませんが」
グレアムは書類から顔を上げ、ルカを射抜くように見つめた。
「なぜ──私に遠ざけられているのに、こういうことをする」
「遠ざけられていても、閣下のことが心配なのは、変わらないので」
ルカが即答すると、グレアムの顔が微かに苦しげに歪んだ。
「それは──あの『攻略本』に書かれた知識から来る感情か」
「違います」
ルカは、一歩も引かなかった。
「ゲームに書かれていた氷の公爵のことは、心配なんてしませんでした。会ったことも、話したこともなかったから」
ルカは、震えそうになる声を必死に抑え込み、紡いだ。
「私が今、心配でたまらないのは。……花瓶の水を替えてくれて、雨の夜に一人で痛みを抱えながら、私に『また話してくれ』と言ってくれた、この世界の閣下です」
長い、長い沈黙が落ちた。
廊下の燭台の火が、小さく揺れている。
やがて。
グレアムは書類を片手に持ったまま、低く、かすれた声で言った。
「……中に入れ」
「え?」
「話がある」
*
数日ぶりに入った私的な書斎は、少しだけ冷えていた。
グレアムはデスクに寄りかかり、腕を組んでルカを見下ろした。
「……お前の気持ちが、本物の感情なのか、ゲームの知識の延長なのか。私には、一生確かめる方法がない。それは、今も変わらない」
「……はい」
「でも──」
グレアムは、組んでいた腕を解き、少しだけ目を伏せた。
「お前は、私に遠ざけられても、一人で情報を集めて動いた。……それは、お前が持っていたという『攻略本』には、絶対に書いていないことだ」
「はい」
「攻略本の中のお前は、ここにはいなかった。……今、私の目の前にいるのは、紛れもなく『ルカ』という一人の人間だけだ」
確かめる方法がないのなら。
今、目の前にある彼女の行動と、彼女がくれた温もりだけを信じる。
それが、不器用な氷の公爵が、数日間の苦悩の末に出した、彼なりの一つの「答え」だった。
沈黙。
グレアムは、ゆっくりと顔を上げ、真っ直ぐにルカを見つめた。
「……戻ってこい」
「え?」
「公爵邸に。……また、来い」
ルカの視界が、一気にぼやけた。
「……はいっ」
涙が出そうになるのを、社畜の意地で必死に堪える。
「今日は遅い。馬車を出させるから、帰れ」
グレアムが、いつもの少しぶっきらぼうな、でもひどく優しい声で言った。
ルカは「はい」と頷き、書斎の扉に向かって歩き出した。
ドアノブに手をかけ──ふと、振り返る。
「……お帰りなさい、閣下」
北部視察から帰還したあの日。
疑念に苛まれ、彼が受け取ることができなかった言葉。
そして、ルカがどうしても彼に一番伝えたかった言葉。
グレアムの動きが、ピタリと止まる。
氷のような青い瞳が、わずかに見開かれ、そして──柔らかく、ほどけるように細められた。
「……ああ」
氷の公爵は今日、愛する名もなき令嬢の元へ。
「ただいま」という言葉の代わりに、静かで温かい安堵とともに、確かに戻ってきたのだった。




