第52話 いてくれてよかった
氷の公爵に「帰れ」と遠ざけられてから、数日が経った。
ルカ=フォン=エデルハインは、王城の図書室の片隅で、一人静かに本を開いていた。
いつもなら、数日も経てば『城に来い』という短すぎる手紙が届く頃だ。しかし、公爵邸からの使者は一向に現れない。
(来ない。……当たり前か。閣下は、私を受け入れるための『時間が必要だ』と言ったんだから。でも──)
ルカは活字を追おうとするが、内容は全く頭に入ってこなかった。
他人の婚約破棄イベントを傍観しながら暢気にローストビーフを食べていた頃とは違う。今は、自分自身の物語の行方が、そして何より──彼を深く傷つけてしまったという事実が、ルカの胸を重く塞いでいた。
ページを捲る手が、完全に止まっている。
「……探していましたよ、ルカ嬢」
不意に、頭上から柔らかい声が降ってきた。
顔を上げると、いつもの完璧な笑顔を浮かべたレオナルト=クロイツが立っていた。
今回は「いつの間にか」ではない。彼は明確な意志を持って、ルカを探し当て、真っ直ぐに歩み寄ってきたのだ。
「騎士団長殿が、私を……?」
「ええ。公爵殿から、貴女の様子を少し見てきてほしいと頼まれまして」
ルカは、ハッと目を丸くした。
「……閣下が?」
「遠ざけておきながら、心配で仕事が手につかないようです。……本当に、あの人らしい不器用さですね」
レオナルトが苦笑交じりに言うと、ルカの張り詰めていた表情が、ふっと和らいだ。
泣きそうな、ひどく不格好な、けれど少しだけ救われたような笑顔。
レオナルトは、その痛々しいほど愛おしい笑顔を見て──胸の奥が鋭く軋むのを感じた。だが、表情には一切出さず、ただ優しく告げた。
「……少し、外の空気を吸いながら話しますか」
*
秋風が吹き抜ける、人気のない中庭のベンチ。
隣に腰を下ろしたルカが、俯いたままぽつりとこぼした。
「……閣下は、私の言葉を、信じてくれないんでしょうか」
その悲痛な問いに、レオナルトは少しだけ首を横に振った。
「『信じていない』のとは、違うと思いますよ」
「では……?」
「信じたいのに、どうしても信じ切れない自分自身が、怖いんだと思います。……あの人は、軍神として常に『完璧であること』を自らに課して生きてきた人ですから。証明のしようがない感情という不確かなものに、自分の全てを委ねることが恐ろしいのでしょう」
ルカは、少し驚いたようにレオナルトを見つめた。
「騎士団長殿は……どうして、そんなに閣下のことがわかるんですか?」
「ふふっ。伊達に、あの無愛想な男と長い付き合いをしていませんよ」
レオナルトが軽く肩をすくめて笑うと、ルカは再び視線を落とし、膝の上で両手をぎゅっと握りしめた。
「……私は、どうすればよかったんでしょうか。本当のことを言わなければよかったのかな」
「『どうすればよかった』、という正解はないと思います。……貴女は、彼に対して嘘をつかず、誠実に正直であった。それは、人として間違いなく正しかった」
レオナルトは、穏やかに、だが残酷な事実を口にした。
「でも──その『正しさ』が、結果的に彼を深く傷つけてしまった。……それもまた、事実です」
「……はい」
ルカが消え入りそうな声で肯定すると、二人の間に重い沈黙が落ちた。
風が木々を揺らす音だけが聞こえる。
やがて、ルカがふと顔を上げ、レオナルトを見て言った。
「騎士団長殿は……いつも、こういう時に来てくれますね」
「……そうですか?」
「はい。初めての夜会で私が孤立しそうになった時も、ランツ伯爵に絡まれた時も、今日も。……私が一人でどうしようもない時に、騎士団長殿がいてくれてよかったと、いつも思います」
ピタリと。
レオナルトの呼吸が、一瞬だけ止まった。
(また。……また、貴女はそういうことを無防備に言う)
彼女の言葉に、恋愛的な駆け引きや裏の意味など一欠片も存在しないことは、嫌というほど分かっている。
ただの純粋な親愛。有能な味方に対する、「頼りにしている」という絶対的な信頼。
でも──だからこそ、痛い。
一番欲しい言葉を、一番欲しい形以外で与えられることが、どれほど残酷なことか、彼女は知る由もない。
「……光栄です」
レオナルトは、いつもの言葉を返した。
だが──今日ばかりは、その極上の響きを持った声が、語尾でほんの少しだけ震えてしまった。
「騎士団長殿……?」
「なんでもありません。風が少し冷たくなってきたようですね」
ルカが不思議そうに首を傾げると、レオナルトは瞬時に完璧な笑顔の仮面を被り直した。
(身を引く、諦める、と決めたはずなのに。……こういう不意打ちの瞬間に、また激しく揺らいでしまう。本当に、貴女はずるい人だ)
*
レオナルトは、自分の中の未練を強引に押さえ込み、意を決して口を開いた。
「ルカ嬢。……一つ、アドバイスをしていいですか」
「はい」
「公爵殿に──もう一度、言葉ではなく、『行動』で示してみてはどうですか」
ルカが「行動で?」と目を丸くする。
「言葉は、あの夜に十分に尽くしたはずです。でも──グレアム殿は、見えない言葉よりも、目に見える行動と結果を信じて生きてきた人です。貴女が『攻略本の外にいる人間』であることを、彼に届くような行動で示せれば、あるいは」
「……どうやって、示せばいいんでしょうか」
すがるように問うルカに、レオナルトは優しく微笑んで首を振った。
「それは──貴女自身が考えることです。私がここで答えを出してしまっては、何の意味もありませんから」
ルカは、ハッとした。
そうだ。これは、誰かに教えてもらう攻略法ではなく、自分と彼だけの物語なのだ。
「……ありがとうございます、騎士団長殿」
ルカの瞳に、再び強い意志の光が戻った。
彼女はベンチから立ち上がり、レオナルトに向かって深く、丁寧にお辞儀をした。
「騎士団長殿。……本当に、いつもありがとうございます」
「どういたしまして。……良い結果を期待していますよ」
レオナルトが柔らかく手を振ると、ルカは弾かれたように駆け出し、王城の回廊へと消えていった。
誰もいなくなった中庭。
冷たい秋風の中、ベンチに一人残されたレオナルトは、小さく息を吐き出した。
(愛する人の背中を、また、あいつの元へと押してしまった。……これが、私の選んだ道なのだから、後悔はないはずなのに)
胸の奥が、ひどく痛い。
騎士団長は今日も、誰かの幸せのために、自分の諦めきれない感情を、誰にも見られないよう静かに、静かに折り畳んだ。




