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ローストビーフにむせただけで氷の公爵に溺愛されました。〜攻略本に載っていない社畜令嬢ですが、最強の二人に独占されて平穏な隠居生活が崩壊した件〜  作者: 成瀬 一
シナリオが、狂い始める

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第51話 確かめる方法が、ない

 氷の公爵、グレアム=ヴァルトシュタインが、不穏な動きを見せていた北部国境の視察から王都へ帰還した。


「……お帰りなさいませ、閣下」


 公爵邸の玄関で出迎えたルカは、ホッと胸を撫で下ろしながら声をかけた。


 無事に帰ってきてくれた。それだけで十分だった。


「……ああ」


 グレアムは短く応じ、軍服の外套をクラウスに預けた。


 だが、彼と視線が交差した瞬間。


 ルカの背筋が、冷たい氷で撫でられたように粟立った。


(……何か、ある)


 彼の纏う空気が、出立前のあの温かい夜とは決定的に違っていた。


 軍事的な疲労ではない。もっと深く、冷たく、そしてひどく張り詰めた何か。


 ルカは何も聞けず、ただ彼の広い背中を追って書斎へと向かった。


   *


 書斎。


 二人きりになり、グレアムが持ち帰った報告書をデスクに置き終えた直後だった。


「一つ、聞く」


 グレアムが、デスク越しにルカを真っ直ぐに見据えて切り出した。


 その青い瞳には、一切の感情が読み取れなかった。


「お前が言っていた、あのゲームの中で──私は、攻略対象だったのか」


 ルカの心臓が、大きく跳ねた。


 息が止まりそうになるのを必死に堪え、絞り出すように答える。


「……はい」


「お前は最初、私を『攻略対象』として見ていたか」


「最初は──関わらないようにしようと思っていました。ただのモブとして、目立たずに生き延びるために」


「なぜだ」


「私が関わることで、決められたシナリオを変えたくなかったからです。……でも、夜会でローストビーフのソースで咽せてしまって、閣下に助けられて」


 ルカが正直に答えると、グレアムは静かに、だが重い声で確認するように言った。


「つまり──最初、お前にとって私は、この世界のただの『ゲームの登場人物』だった。……そうだな?」


 ルカは、膝の上でドレスの裾を強く握りしめた。


「……はい」


 沈黙が落ちる。


 時計の針の音だけが、場の空気を支配していた。


   *


 グレアムが、ゆっくりと立ち上がった。


 ルカから視線を外し、窓の外の曇り空を見つめる。


「お前が見ていた私は──ゲームの攻略対象と、同じ人間か」


 ルカは、ハッとして顔を上げた。


「違います」


 間髪入れず、はっきりと否定した。


 グレアムが、振り返る。


「なぜ、そう言える」


「攻略本に書かれていた閣下は、血も涙もない、冷酷な『氷の公爵』でした。でも、私が知っているのは──不器用に焼き菓子を作ってくれて、花瓶の水を誰にも言わずに毎日替えてくれて、雨の夜に、一人で抱えていた痛みを初めて話してくれた閣下です」


 ルカは、一歩だけ彼に近づき、必死に言葉を紡いだ。


「攻略本には、そんな優しい人は、どこにも書いていませんでした。私が惹かれたのは、設定でもキャラクターでもない。……この世界で、私に会ってくれた閣下です」


 グレアムの瞳が、僅かに揺らいだ。


 だが、彼は苦しげに顔を歪め、低く吐き捨てた。


「……だが」


「……」


「お前は最初、私を『ゲームの一部』として認識していた。それは、覆しようのない事実だ」


「……はい」


「今も──心のどこかで、私を『そういうもの』として見ているかもしれない」


「違います!」


 ルカが叫ぶように否定する。


 だが、グレアムは首を横に振った。


「確かめる方法が、私にはないんだ」


 それは、怒りではなかった。


 軍神として畏怖され、全てを力でねじ伏せてきた男が初めて見せた、あまりにも人間らしく、ひどく脆い「傷つき」と「不安」の吐露だった。


 自分に向けられているこの温かい感情は、本当に「自分という人間」へ向けられたものなのか。


 それとも、彼女が前世から知っていた「攻略対象というキャラクター」に対する、好意の延長線上に過ぎないのか。


 彼がルカを深く愛してしまったからこそ生じた、絶対に証明することのできない、残酷な問い。


「閣下」


 ルカは、震える声で呼びかけた。


「私は、閣下のことが好きです。……攻略本の閣下ではなく、この世界の、目の前にいる閣下のことが。……それだけは、絶対に本当です」


 ごまかしのない、初めての、真っ直ぐな告白。


 グレアムは、その言葉を聞いて──一瞬だけ、何かを堪えるように痛切に顔を歪め。


 そして、再び分厚い氷の鎧を纏うように、静かに目を閉じた。


「……今日は、帰れ」


「閣下──」


「私には、時間が必要だ」


 冷たい、拒絶の言葉。


 ルカは、それ以上何も言えなかった。


 これ以上言葉を重ねても、彼の不安を拭い去ることはできないと、痛いほど分かってしまったから。


「……わかりました」


 ルカは小さく頷き、立ち上がった。


 振り返り、扉に向かって歩き出す。


 足を止めたい。もう一度だけ彼に何かを言いたい。でも──止まらなかった。


 そのまま、重い扉を開け、書斎を後にした。


   *


 パタン、と。


 背後で扉が閉まった瞬間。


 ルカの目から、ぽろりと、大粒の涙がこぼれ落ちた。


(……え?)


 廊下に立ち尽くしたまま、ルカは自分の頬に触れた。


 濡れている。


(私、泣いてる。……なんで?)


 止まらない。


 手の甲で乱暴に拭っても、次から次へと涙が溢れてくる。


(わかってる。閣下がそう疑ってしまうのは、当然だ。私の存在そのものが、彼の人生を、彼のアイデンティティを根本から揺るがしているんだから。……彼の疑問は、完全に正しい。私だって、逆の立場なら絶対に疑う)


 頭では、理路整然と理解している。


 社畜として、常に相手の立場に立って物事を俯瞰してきたルカの論理的思考は、彼の「確かめられない不安」を痛いほど肯定していた。


 でも──。


(でも……っ!)


 心が、感情が、ひどく痛かった。


 私のこの想いは、攻略本なんて関係ない。ただの『ルカ』として、ただの「グレアム」を好きになっただけなのに。


 それが、一番大切な人に信じてもらえないことが、これほどまでに苦しくて、息が詰まるなんて。


 誰もいない王城の廊下で。


 名もなき令嬢は今日、この世界に来て初めて──ただ一人で、声を殺して泣いた。

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