第50話 疲れていました
グレアムが、不穏な動きを見せる北部国境の視察へと発つ前夜。
公爵邸の書斎で、ルカ=フォン=エデルハインは彼が留守にする間の書類の整理や、準備の手伝いを黙々とこなしていた。
数日前、この部屋で彼と初めて正面から衝突した。
「王都に残れ」という命令に反発したルカに対し、彼は「お前に何かあれば、私がどうかしてしまいそうだ」と、ひどく不器用な本音をこぼした。
ルカは最終的に、王都に残ることを受け入れた。
だが──完全に納得して引き下がったわけではない。その微かな「不満」と「心配」の入り混じった感情が、まだ二人の間の空気に静かに漂っていた。
書類を束ねるルカの手が止まる。
ふと視線を上げると、デスクの向こうで出立の準備をしていたグレアムもまた、手を止めてルカを見つめていた。
あの「どうかしてしまいそうだ」という、心臓を鷲掴みにされたような言葉の甘い余韻が、二人の間にまだ色濃く残っている。
*
静かな沈黙を破ったのは、グレアムだった。
「……一つ、聞いていいか」
「はい」
ルカが背筋を伸ばすと、グレアムは少しだけ間を置いて、真っ直ぐに彼女の琥珀色の瞳を見据えた。
「お前は──この世界に来る前、どこにいたんだ」
ルカは、息を呑んで固まった。
この世界の結末を、来る前から知っていたことは打ち明けた。
でも──自分が何処から来たのかという、転生者としての最大の秘密は、まだ口にしていなかった。
「……それは」
ルカが言いよどむと、グレアムは静かに、決して無理強いしない声で言った。
「答えたくなければ、答えなくていい。……ただ、知りたいと思っただけだ」
(知りたいと思った。……命令でも、論理的な詰問でもない。ただ、私という人間をもっと深く知りたいという純粋な問い。本当に、閣下らしい真っ直ぐな聞き方だ)
ルカは、小さく深呼吸をして、真実を口にすることを選んだ。
「……遠い場所です」
「遠い?」
「はい。この世界ではない、全く違う場所でした。そこには、魔法も、騎士も、貴族もいなくて……でも、人が生きていくための複雑な柵や理不尽さは、いろんな意味でこの世界とよく似ていました」
グレアムは、黙ってルカの言葉に耳を傾けている。
「お前は、そこで幸せだったか」
その静かな問いに。
ルカは少しだけ思考を巡らせ──前世で一度も誰かに言えなかった本音を、初めて言葉にした。
「……ご飯は美味しかったし、安全でしたから、幸せだったとは思います。でも──疲れていました。毎日」
*
「疲れていた?」
グレアムの眉が、微かに寄る。
「はい。毎日、決められた時間に同じ場所に行って、山のような書類とクレームを処理して。……でも、自分がやっていることが本当に誰かのためになっているのか、よくわからなくて。ただ、自分の精神と体力を消耗して、部品のようにすり減っていく感覚でした」
ルカは、膝の上で両手を軽く組んだ。
「休みの日は、一人で暗い部屋に引きこもって、ゲームをしていました。……この世界の出来事が描かれた、『緋色の誓約』というゲームを」
「……ゲーム」
「はい。私が前に言った『攻略本』というのは、そのゲームの進め方や世界の秘密が書かれた本のことです。私は、現実から逃げるようにそれを──何度も何度も、ボロボロになるまで読み込んでいました。閣下のことも、ルシアン殿下のことも、全部そこで知ったんです」
突拍子もない話だ。狂人の戯言だと思われても仕方ない。
だが、グレアムは真剣な眼差しでルカを見つめたまま、低く問うた。
「……攻略本には、私のことはどう書かれていたんだ」
「『誰も寄せ付けない、冷酷無比な氷の公爵』と書いてありました。血も涙もなく、ただ王国の防衛と規律のためだけに生きる、恐ろしい人だと」
グレアムが「……そうか」と、少しだけ自嘲するように目を伏せる。
だが、ルカはすぐに首を横に振った。
「でも──実際に会ったら、全然違いました」
「……何が違った」
「焼き菓子を自分で焼いてくれるし。私が渡した花瓶の水を、毎日誰にも言わずに替えてくれるし。私が『また雨が降ったら話してください』と言ったら、ちゃんと『ああ』と答えてくれる。……そんなに不器用で優しい人だなんて、本には一行も書いていませんでした」
ルカが柔らかく微笑みながら言うと、グレアムは分かりやすく顔を背け、耳の先を赤く染めた。
「……そんな下らないことが、本に書いていなかったのか」
「書いていませんでしたよ。閣下の本当の姿は──私がこの世界で、直接お会いして、初めて知ったんです」
心地よい沈黙が落ちる。
やがて、グレアムが再びルカに向き直り、静かに尋ねた。
「お前は──なぜ、この世界に来たんだ」
「わかりません」
ルカは正直に答えた。トラックに轢かれたのか、過労死したのかすら覚えていないのだから。
「気づいたら、ここにいました。……でも」
ルカは、少し間を置いて。
真っ直ぐに、彼を見つめて告げた。
「ここに来て、本当によかったと思っています」
「なぜ」
「……お城のローストビーフが、前世の何よりも美味しかったので」
「……それだけか」
グレアムが、少しだけ不満げに目を細める。
ルカは、照れくさそうに笑って──でも今回は、躊躇うことなく、はっきりと声に出して言った。
「あと。……閣下に会えたので」
あの時、消え入りそうな小声で言ったのと同じ言葉。
だが今回は、明確な意志を持って、彼に届くように紡がれた言葉。
グレアムは、大きく目を見開いた。
そして、深く、深いため息を吐くように。
「……そうか」
と呟いた。
今回の「そうか」は──今までのどんな言葉よりも、一番深く、温かく、ルカの心に響いた。
*
しばらくの静寂の後。
グレアムが、真剣な声で切り出した。
「一つだけ、確認させてくれ」
「はい」
「お前がこの世界に来る前──本来の物語で、私は最後、どうなっていたんだ」
ルカの息が、少しだけ詰まる。
「……言えません」
「なぜだ」
「言う必要が、全くないからです」
ルカは、きっぱりと言い切った。
「閣下は今、攻略本の外側を、ご自身の足で歩いて生きています。だから、あの本に書かれていた結末は、もうどこにも存在しません」
グレアムは、少しの間ルカの言葉を反芻し、やがて「……わかった」と頷いた。
「お前が来たことで──この世界が変わったということか」
「私が変えたんじゃないと思います。ルシアン殿下も、リリアナ様も、閣下も。みんなが自分で選択して、自分で変えたんです」
「……いや」
グレアムが、立ち上がりながら静かに否定した。
「お前がそこにいたから、我々は変えられたんだ」
ルカは、その言葉の重さにハッとして固まった。
グレアムはルカの前に立ち、その見上げるような高い位置から、彼女を深く見つめ下ろした。
「明日、発つ。……王都で、待っていてくれ」
数日前の「王都に残れ」という強圧的な命令ではない。
自分の帰る場所として、ただそこにいてほしいという、祈りのような言葉。
ルカは、小さく深呼吸をして。
今度は、心からの納得とともに、はっきりと答えた。
「はい。……いってらっしゃいませ、閣下」
今回の「はい」は――あの日の反発を含んだ「わかりました」とは、全く違う温度を持っていた。
氷の公爵は明日、見えない敵が潜む北部の戦場へ向かう。
そして、かつて逃げることしか考えていなかった名もなき令嬢は、今日初めて、「愛する人の帰りを待つ」という選択を、自分の確固たる意志で選び取ったのだった。




