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ローストビーフにむせただけで氷の公爵に溺愛されました。〜攻略本に載っていない社畜令嬢ですが、最強の二人に独占されて平穏な隠居生活が崩壊した件〜  作者: 成瀬 一
シナリオが、狂い始める

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第49話 どうかしてしまいそうだ

 ルカが自らの頭で導き出した「ヴァレンティアは国境から動く」という推測は、数日のうちに現実の脅威として形を成し始めていた。


 公爵邸の執務室。


 不穏な空気が漂う北部国境へ、グレアム自身が軍を率いて視察と牽制に向かう計画が立てられていた。


「……私も行きます」


 ルカが真っ直ぐにグレアムを見て言うと、彼は手元の地図から顔を上げ、即座に、そして氷のように冷たく言い放った。


「お前は行かなくていい」


「でも──」


「王都に残れ。これは決定事項だ」


 いつもより、明らかに語気が強い。


 ルカは思わず息を呑んだ。


(いつもよりすごい強く言った。……なんで? 私が足手まといになるから?)


「なぜですか」


 ルカは引き下がらなかった。


「国境は危険だ。いつ実力行使に発展するかわからん」


「でも、アッシェンバッハの時も危険でした。私は現場の状況を直接見れば、また何か役に立てる推測ができるかもしれません」


「お前は令嬢だ。わざわざ戦場に近い場所へ出る必要はない」


 グレアムのその言葉に。


 ルカの胸の奥で、カチンと冷たい火花が散った。


(令嬢だから。……大きな現場プロジェクトから外された時に『君は女性だし、体力的にキツイ現場には向かなくていいから内勤でサポートしてよ』って、笑顔で戦力外通告された時と、全く同じ感覚だ)


 ルカは、ギリッと奥歯を噛み締めた。


 守られているのは分かる。でも、それが「対等なパートナー」ではなく「庇護すべき弱い存在」として遠ざけられているようで、ひどく悔しかった。


「私は令嬢ですが、この世界の外側の知識があります。閣下の役に立てることは必ずあります」


「役に立てることと、お前が自ら危険な場所へ行くべきかどうかは、全く別の話だ」


 平行線だった。


 ルカは、少しだけ声を震わせて聞いた。


「……閣下は、私が邪魔なんですか。それとも、心配してくれているんですか」


 グレアムの動きが、ピタリと止まる。


 長い沈黙の後。


「……心配しているからだ」


 ひどく不器用な、絞り出すような声だった。


「でも──心配だからといって、何もできない安全な場所にただ置いておかれるのは、私は嫌です。閣下が戦っている時に、一人で待っているなんて」


「ルカ」


 グレアムが、ルカの言葉を遮った。


 低く、重い声。


「……お前に何かあれば。私は」


 そこで、また言葉が止まる。


 あの夜会で、ランツ伯爵からルカを引き離した時と全く同じパターンだ。


 だが、今のルカは引かなかった。彼が言葉の続きを紡ぐのを、じっと待った。


 しかし、グレアムは顔を背け、頑なに口を閉ざしてしまった。


「……とにかく、今回は王都に残れ」


 それ以上は、もう対話を拒絶する態度だった。


 ルカは唇を噛み、「……わかりました」とだけ答えた。


 全く、納得していない顔で。


   *


 その後。


 執務室を飛び出し、公爵邸の廊下を足早に歩いていたルカに、柔らかい声が掛かった。


「……少し、頭に血が上っているようですね」


 第一騎士団長、レオナルトだった。


 彼はいつもの完璧な笑顔を浮かべながら、ルカの隣に並んで歩き始めた。


「騎士団長殿は……どう思いますか。閣下が、私を現場から遠ざけることを」


 ルカが不満げに尋ねると、レオナルトは少しだけ考えてから答えた。


「公爵殿のお気持ちは──痛いほど理解できます。彼にとって、貴女を失うリスクは、国を失うことと同義になりつつありますから」


「……でも、私だって」


「ええ。貴女の『役に立ちたい』『同じ場所に立ちたい』というお気持ちも、理解できます」


 ルカは、少しだけ恨めしそうに彼を見上げた。


「……騎士団長殿は、どっちの味方なんですか?」


「どちらの味方でもありませんよ。私はただの、一介の騎士団長ですから」


 レオナルトは微笑んだ。


 だが、少しだけ間を置いて、ひどく優しい声で言葉を継いだ。


「でも──傍から見ていて思うのは。お二人とも、お互いを大切に想って同じ方向を向いているのに、致命的に『言葉が足りていない』だけだということです」


「言葉が、足りていない?」


「公爵殿は先ほど、『お前に何かあれば』と言いかけて言葉を止めましたよね。……あの言葉の続きを、貴女は最後まで聞きましたか?」


 ルカはハッとして、「……聞いていません」と答えた。


「では──意地を張らずに、聞いてみてはどうですか」


 完璧な笑顔。


 でも──その翠の瞳の奥は、どこかひどく切なげに揺れていた。


(愛する人の背中を、自ら恋敵の元へと押す。……言葉が足りていない二人を、私が繋ぐ。これが、私の選んだ役割なのだから)


 レオナルトは、誰にも聞こえない胸の奥で、静かにそう呟いた。


   *


 ルカは、再び執務室の扉を叩いた。


「……閣下」


「……何だ」


 デスクに向かうグレアムの声は、まだ少し硬い。


「さっき、『お前に何かあれば』と言いかけて止まりましたよね」


 グレアムの手が、ピタリと止まる。


「……それが、何だ」


「続きを、最後まで聞かせてもらえますか」


 沈黙。


 グレアムは顔を上げず、「……聞いてどうする」と低く問うた。


「聞きたいんです。閣下が、本当は何を一番恐れて、私を遠ざけようとしているのかを」


 長い、長い沈黙が落ちた。


 やがて、グレアムはゆっくりとペンを置き、ルカを真っ直ぐに見つめ返した。


 氷の軍神が、その分厚い鎧を脱ぎ捨てて。


 たった一人の、不器用な男としての本音を、絞り出すようにこぼした。


「……お前に、もし何かあれば」


 少し、間を置いて。


「私が、どうかしてしまいそうなんだ」


 ルカは、息を呑んで完全に固まった。


(──どうかしてしまいそうだ。)


 ルカの脳内で、いつもの社畜フィルターが強引に起動しようとした。


(これは、『替えの効かない重要な戦力を失うことへの、プロジェクトリーダーとしての危機感』の表れでは──)


 だが。


 今回ばかりは、そのフィルターが作動するよりもずっと早く。


 ルカの胸の奥が、かつてないほどの熱を帯びて、激しく反応した。


 ドクン、と。心臓が大きく跳ねる。


 ただの部下を失う恐怖ではない。


 自分という存在が、この完璧な氷の公爵の理性を壊してしまうほど、彼の中で大きく、深く根を張っているという事実。


 「どうかしてしまいそうだ」という不器用で、重たくて、甘い言葉が。


 ルカの胸の奥深くに突き刺さったまま、もう二度と、抜けなくなってしまった。

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