第48話 紙切れの攻略本
アッシェンバッハ侯爵の失脚からしばらく経ったある日。
ルカ=フォン=エデルハインは、公爵邸の執務室で、グレアムとレオナルトから不穏な報告を受けていた。
「……隣国・ヴァレンティア王国が、再び不審な動きを見せ始めている」
グレアムの重々しい声に、ルカの背筋がピンと伸びた。
黒幕であったアッシェンバッハは退場した。しかし、彼が失脚の間際に結んでいた「ヴァレンティアとの密約」の残骸は、まだ完全に消滅したわけではなかったのだ。
(ヴァレンティア王国。……あのゲームに出てきたはずだ。よし、確認しよう)
ルカは目を閉じ、脳内の「乙女ゲーム・緋色の誓約データベース」に全力で検索をかけた。
──出てこない。
もう一度、キーワードを変えて検索する。
──やっぱり、何も出てこない。
(あれ? おかしい。……あ、そうか! ヴァレンティアが本格的に介入してくるのって、グレアムルートのバッドエンドで『アッシェンバッハが王国の実権を完全に握った後』の話だ。でも今、現実はアッシェンバッハが先に失脚しちゃってるから……そこから先の情報が、攻略本にはそもそも載っていなかったんだ!)
つまり。
ルカは今、この問題について『前世の知識』を一切持っていない状態だった。
「ルカ」
不意に、グレアムがルカを真っ直ぐに見据えて問うた。
「ヴァレンティアの次の手について、お前はどう見る」
ルカは、ピクリと固まった。
(聞かれた。どうしよう、全然わからない。攻略本に載っていない!)
いつもなら「遠い親戚から聞いた噂話なのですが……」という便利な枕詞を使って、ゲームの知識を小出しにして誤魔化すことができた。
しかし今回は、その引き出しの中身が完全に空っぽなのだ。
グレアムが、静かにルカの答えを待っている。
隣では、レオナルトも興味深そうに視線を向けている。
王国のツートップの視線が、一介の令嬢に集中している。
(これ、前職で『全く関わっていない別部署の炎上案件について、社長と専務から「君、この件どう思う?」って急に意見を振られた時』と完全に同じだ。最悪のキラーパスすぎる!)
ルカの額に冷や汗が滲む。
だが──ここで「わかりません」とだけ言って逃げるのは、あの日「ついてこられるか」という問いに「はい」と答えた自分の覚悟に対する裏切りのような気がした。
「……少し、考えてもいいですか」
ルカが絞り出すように言うと、グレアムは急かすことなく「ああ」と短く頷いた。
ルカは目を閉じ、必死に思考を巡らせた。
攻略本の知識はない。ならば──この世界で、自分が実際に見て、聞いて、経験してきた事実から導き出すしかない。
(落ち着け。事実を整理するんだ。
①アッシェンバッハは『自分の手は汚さず、証拠を残さない』陰湿なやり方だった。でも、ヴァレンティアは暗殺者を送り込んでくるような『直接的な軍事力・暴力』を厭わない国だ。やり方が全然違う。
②使節団の暗殺者カール=ヴァイスは、完全な『捨て駒』だった。つまりヴァレンティアは、目的のためなら自国の人間すら使い捨てることを前提に動く。
③今、ルシアン殿下が心を入れ替え、国内の基盤を急速に固め始めている。アッシェンバッハの残党も一掃されつつある)
ルカはゆっくりと目を開け、二人の顔を交互に見た。
「……国境の、どこかに不穏な動きがあるんじゃないですか」
静かな執務室に、ルカの声が響いた。
グレアムが、少しだけ目を細める。
「なぜ、そう思う」
「アッシェンバッハ侯爵は、国内の政治工作から国を崩そうとしました。でもそれは、殿下たちの手によって完全に失敗した。……だとすれば、ヴァレンティアは同じ轍は踏まないはずです。国内への政治的介入を諦め、彼らの得意な『外からの直接的な軍事圧力』に切り替えてくる」
ルカは、確信を持って言葉を繋いだ。
「しかも、ルシアン殿下が国内を強固に固めつつある今、王都の内部を狙っても効果が薄い。だから、手薄になりがちな外側から──国境付近で、何かしらの実力行使に出るつもりなんじゃないかと」
全て、彼女自身の頭で論理的に組み立てた推測だった。
グレアムは何も言わず、隣のレオナルトへと視線を送った。
レオナルトは、感嘆したように小さく息を吐き、微笑んだ。
「……北部国境の哨戒部隊から上がってきた直近の報告に、確かに、ヴァレンティア軍の不自然な部隊移動の兆候があります。ルカ嬢の読み、ドンピシャで当たっているかもしれません」
「えっ、本当ですか!?」
ルカが目を丸くして驚くと、グレアムは深く頷き、静かに言った。
「……今日は、よく考えたな」
それは、「遠い親戚から聞いた噂話」に対する評価ではなく。ルカ自身の思考と分析に対する、明確な賛辞だった。
(攻略本がなくても、自分の頭で考えられた。……なんか、ちょっと、すごく嬉しいかも)
ルカの胸の奥に、ささやかな誇らしさが芽生えた。
だが、次の瞬間、社畜フィルターが冷や水を浴びせるように強引に起動した。
(いや待って、落ち着け私! 当たっているかもしれないというだけで、まだ確定したわけじゃない。ここでドヤ顔して喜ぶのは早すぎる! 前職でも『それっぽい分析』で上司を満足させたけど、蓋を開けてみたら前提条件から全部違ってて、後で死ぬほど怒られたことが何度もあったじゃないか!)
ルカは慌てて表情を引き締め、「あくまで素人の推測ですので、ご参考までに……」と謙遜して頭を下げた。
*
会議が終わった後。
ルカは、公爵邸の廊下を一人で歩いていた。
(攻略本がなかった。でも、私なりに考えられた。……この世界で自分が経験したことが、ただの出来事じゃなくて、ちゃんと私の中で『生きた知識』になっていたんだな)
それは、確かな一歩だった。
でも同時に──不安もある。
(これから、もっと攻略本に載っていない問題が、次々と押し寄せてくる。その時、私は今日みたいに、ちゃんと自分の頭で考えられるんだろうか)
「ルカ」
背後から、低い声が呼び止めた。
振り返ると、グレアムが立っていた。
「はい」
「さっきの分析──あれは本当に、お前自身の考えか?」
グレアムの青い瞳が、ルカを真っ直ぐに射抜く。
もう「遠い親戚」の言い訳は通用しない。
ルカは、真っ直ぐに見つめ返し、はっきりと答えた。
「はい。……初めて、私自身の頭だけで考えました」
グレアムは、少しだけ動きを止めた。
長い沈黙の後。
「……そうか」
彼が低くこぼした今回の「そうか」は。
ただの納得ではなく、ルカの成長に対する確かな評価と、ほんの少しの驚きが混ざった、心地のよい温かな響きを持っていた。
攻略本の知識という最大の武器を失った令嬢は、今日。
自分の頭だけで、少しだけ、この複雑な世界を読み解いたのだった。




