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ローストビーフにむせただけで氷の公爵に溺愛されました。〜攻略本に載っていない社畜令嬢ですが、最強の二人に独占されて平穏な隠居生活が崩壊した件〜  作者: 成瀬 一
シナリオが、狂い始める

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第47話 感情に、名前をつけなくていい

 ローゼンベルク侯爵邸の朝は早い。


 次期当主として実質的に家を取り仕切っているセシリア=フォン=ローゼンベルクは、豪奢なダイニングテーブルで朝食の紅茶を飲みながら、三つの書類を同時に処理していた。


 一つは、北部領地を束ねる自商会からの今月の収支報告書。


 一つは、王都の社交界における各派閥の動向をまとめた暗号文書。


 そしてもう一つは──ルシアン王太子が中心となって進めている、新たな国政改革案の情報整理。


「お嬢様。少し、お休みになってはいかがですか。昨夜も遅くまで執務室におられましたし……」


 長年仕える侍女が、心配そうに声をかける。


「休んでいる暇なんてないわ。アッシェンバッハが失脚したとはいえ、権力の空白を狙う有象無象はまだ山のようにいるのですから」


 セシリアは羽ペンを走らせたまま、冷徹な声でピシャリと返した。


 侍女が一礼して静かに部屋を下がっていく。


 扉が閉まり、一人になったダイニングで、セシリアは不意にペンを止め、ため息とともに窓の外へ視線を向けた。


 王都の空は、今日も高く青く澄んでいる。


 だが、その空を見つめる彼女の瞳は、どこか焦点が合わず、ひどく遠くを見ているようだった。


(……私は今、一体何者なのだろうか)


 悪役令嬢として生きていた頃──自分の人生の役割は、残酷なほど明確だった。


 完璧な王妃となるべく血を吐くような努力をし、にもかかわらず最後はヒロインを虐めた罪で断罪され、惨めに没落する。それが、セシリア=フォン=ローゼンベルクという人間に与えられた存在意義だった。


 でも、今は。


 婚約破棄された、元王太子婚約者。


 独自の情報網を駆使し、盤面を俯瞰する賢き観察者。


 ルカの『シナリオ外の秘密』を共有する、唯一の理解者。


(ルシアン殿下は、あのバルコニーで私に深く頭を下げた。『取り返しがつかない』と言った。……ええ、私もそう思っているわ)


 セシリアは、手元の扇子をゆっくりと開いた。


(殿下を憎んでいるかと言えば──もう、そうではない。でも、あの仕打ちを許したかと言えば──それも、全く違う)


 怒りでも、許しでも、未練でもない。


 自分の中に渦巻くこの複雑な感情には、名前がなかった。


 役割を失い、感情の名前すら見失った自分は、ただ有能に振る舞うことでしか、ここにいる意味を証明できないような気がしていた。


   *


 その日の午後。


 ローゼンベルク邸に、予想外の来客があった。


 ルカ=フォン=エデルハイン。


 特に緊急の知らせでもなく、「近くの市場まで来たので、ついでに寄ってみました」という、貴族の令嬢らしからぬ呑気な理由での訪問だった。


「珍しいですわね。用もないのに、わざわざ我が家を訪ねてくるなんて」


 応接室に通し、向かい合って紅茶を飲みながらセシリアが言うと、ルカは不思議そうに首を傾げた。


「セシリア様は、用もない訪問は嫌いですか?」


「……嫌いでは、ないですわ」


 セシリアは少しだけ視線を逸らし、素直に答えた。


 彼女と話していると、張り詰めていた気が少しだけ緩むのだ。


「セシリア様は最近、どうですか?」


 ルカが、出されたクッキーを齧りながら尋ねる。


「どう、とは?」


「なんとなく、お顔が……少し、遠くを見ているような気がして。疲れていませんか」


 セシリアは、わずかに目を見開いた。


(この令嬢は──本当に、よく見ているわね)


 氷の公爵が唯一傍に置く人間なだけはある。底抜けに鈍感なようでいて、他人の心の機微には恐ろしいほど敏い。


 セシリアは、扇子をパチリと閉じ、少し考えてから正直に答えることにした。


「……自分が何者なのか、考えていましたの」


「何者か、ですか」


「ええ。……悪役令嬢として生きていた頃は、自分がどう振る舞うべきか、役割が決まっていたわ。でも今は──私が何のためにここにいて、何のために動いているのか、自分でもよくわからなくて」


 誰にも見せたことのない、完璧な令嬢のひどく脆い本音。


 ルカは紅茶のカップを置き、少しだけ黙り込んだ。


「セシリア様は、ローゼンベルク家の次期当主として、北部の領地と民を守っていますよね」


「それは、貴族としての当然の義務ですわ」


「セシリア様が巨大な情報網を持って、アッシェンバッハの罠を見抜いたり、私やいろんな人を助けてくれていますよね」


「……それも、私がただ『無力な捨てられ女』ではないという、有能さの証明のためかもしれないわ」


 自嘲気味に笑うセシリアに対し、ルカは真っ直ぐに彼女の目を見て言った。


「じゃあ──私と紅茶を飲みながら話している今は、何のためですか? 義務ですか? 有能さの証明ですか?」


 セシリアの言葉が、ピタリと止まる。


「……それは」


「義務でも、有能さの証明でもないと思います。ただ、私と話したいから、話してくれているんじゃないですか?」


 ルカが、柔らかく微笑む。


「……セシリア様は、もう十分すごい人ですよ。だから、たまには『何のためでもない時間』があってもいいと思います」


 セシリアは、ルカの顔をまじまじと見つめた。


 本当に、不思議な人だ。彼女といると、自分が背負っていた重い鎧の紐が、音もなく解かれていくような気がする。


「……そうかもしれませんわね」


 セシリアは、ふっと肩の力を抜き、本当に久しぶりに、心からの自然な笑みをこぼした。


「ルカ嬢。……あなたは、ルシアン殿下のことを、どう思っていますか」


「どう、とは?」


「あの方は──変わりましたか?」


 ルカは少し真剣な顔になり、「変わりました」とはっきりと答えた。


「すごく。自分の過ちから逃げずに、這いつくばってでも国を守ろうとしています。……リリアナ様と一緒に」


「……そうですか」


 セシリアは、窓の外の青空に視線を向けた。


「私には──まだ、あの方をどう扱えばいいのか、どう思えばいいのか、わかりませんわ」


「無理に決めなくていいんじゃないですか」


「え?」


「憎んでもいない、許してもいない──そのままでいいと思います。感情に無理やり名前をつけなくても、別に生きていくのに困らないですし」


 ルカのその、前世の社畜時代に培った「グレーなものはグレーのまま保留箱に入れておく」という大人びたアドバイスに。


 セシリアはきょとんとして──やがて、堪えきれないようにクスクスと笑い出した。


「……貴女は本当に、貴族の常識から外れた変なことを言いますわね」


「よく言われます」


 ルカもつられて、へへっと笑った。


   *


 ルカが嵐のようにやって来て、嵐のように帰っていった後。

 

 セシリアは一人、私室の窓から夕暮れに染まる王都の街並みを見下ろしていた。


(義務でも、有能さの証明でもない時間。……そういえば、最近少しずつ、私の人生にも増えてきた気がするわね)


 ルカと、お茶とお菓子の話で笑い合う時間。


 ルシアンが深く頭を下げて謝りに来た後の、あの不思議な胸の軽さ。


(感情に名前をつけなくていい、か。……そういう大雑把な考え方も、あるのね)


 セシリアは、手元の扇子を静かに閉じた。


 自分がこれから何者になるのか、ルシアンをどう思っているのか──まだ、はっきりとはわからない。

 でも。


(わからないまま、とりあえず今日を生きていくのも──悪くないかもしれないわね)


 完璧を求めて息を詰まらせていた「悪役令嬢」は今日、名前のない複雑な感情を抱えたまま。


 それでも、昨日よりずっと、心が少しだけ軽くなった気がしたのだった。

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