第43話 身を引く日を、想像した
秋晴れの空の下、第一騎士団の広い訓練場に、騎士たちの剣がぶつかり合う鋭い音が響き渡っていた。
「甘いぞ! 実戦なら今の一撃で腕が飛んでいる!」
「はっ! 申し訳ありません!」
騎士団長レオナルト=クロイツは、いつもの完璧な指導者の顔で、若手騎士たちの訓練に檄を飛ばしていた。
アッシェンバッハ侯爵の失脚という激動を乗り越え、王国の政局は新たな局面を迎えている。だが、騎士団の日常は変わらない。
厳しい訓練が終わり、汗を拭う部下たちを労ってから、レオナルトは一人で執務室へと戻った。
分厚い扉を閉め、誰の目もなくなった瞬間。
彼の顔から、いつもの完璧な笑顔がすっと消え失せた。
(……公爵殿に『好きだ』と声に出して伝えてから。……不思議と、あの頃の息苦しさは消えたな)
一人で感情を抱え込み、完璧な仮面の下で擦り切れていた頃よりは、確かに心は楽になった。
だが──感情の蓋を開けてしまったことで、より鮮明に『見えてきてしまったもの』があった。
*
その日の午後。
書類を届けるため、王城の連絡回廊を歩いていたレオナルトは、ふと足を止めた。
中庭のベンチ。柔らかな木漏れ日が落ちるその場所に、見慣れた二つの影があった。
グレアム=ヴァルトシュタインと、ルカ=フォン=エデルハイン。
臨時議会の直後に見た時のような、極度の緊張から解放された特別な時間ではない。
ただの、何でもない、平穏な秋の午後。
二人は並んで座り、それぞれ別の本を読みながら、時折思い出したように短い言葉を交わしている。
ルカが、何か可笑しなことを言ったのだろう。肩を揺らして笑っている。
それを見て、グレアムが本から目を離し──ほんの少しだけ、口元を和らげた。
ただそれだけ。
特別甘い言葉を囁き合っているわけでも、情熱的に触れ合っているわけでもない。
だが、レオナルトの胸の奥を鋭く抉ったのは、まさにその『普通さ』だった。
(……ああ。もう、あの二人は特別な緊張感や危機の中にいるのではない。息をするように自然な、当たり前の日常の中にいるのだ)
レオナルトは、柱の陰からその光景を静かに見つめていた。
もし、アッシェンバッハのような政敵が現れれば、自分が裏で手を回して潰せる。
もし、彼女に物理的な危機が迫れば、自らの剣で切り伏せて守れる。
……だが。
「何でもない当たり前の平穏な午後に、隣でただ本を読んで笑い合っている」という、この完成された日常の空間に。
自分が割り込む余地など──もう、一ミリも存在しなかった。
*
レオナルトは、静かに踵を返した。
今回は、議会の日のように、扉の前で立ち止まって葛藤することはなかった。
ただ、歩いた。
軍靴の音が、人気のない回廊に虚しく響く。
騎士団長室に戻り、窓枠に手をついて王都の街並みを見下ろした。
(好きだ。……今でも、どうしようもなく惹かれている)
彼女の飾らない正直さ。打算のない真っ直ぐな瞳。
全てが、仮面を被って生きてきた自分には眩しかった。
だが。
議会の後、無言で深く頭を下げたグレアムの顔が蘇る。
「間違えた者だけが正しい道を知っている」と前を向いたルシアンの横顔が蘇る。
「共に立つ」と宣言したリリアナの、気高い瞳が蘇る。
そして、「悪くなかったですわ」と、静かに微笑んだセシリアの顔。
全員が、もがきながらも、自分の足で「自分の物語」を選び取り、前に進み始めている。
(……ならば、私は。私はこれから、何を選ぶのだろうか)
レオナルトは、窓ガラスに映る自分の顔を見た。
ルカの幸せを心から願うなら。彼女が一番自然に、自分らしく笑っていられるのは、間違いなくあの不器用な氷の公爵の隣だ。
彼女の笑顔を守りたいなら──自分が無理に割り込んで困らせるより、遠くからあの日常を守り続ける方が、ずっと確実だ。
(……なら、私は)
答えは、もう出かかっている。
だが、彼の中の燻るような感情が、まだ完全に「それ」を受け入れることを拒んでいた。
前夜、グレアムとルカの間に「秘密の共有」という決定的な絆が結ばれたことを、レオナルトは知らない。
知らないまま──彼は一人で、痛切に「もう自分には余地がない」と感じていた。
その残酷な事実が、彼の胸をひどく締め付けた。
*
その日の夜。
残業を終えようとしていた騎士団長室に、一通の手紙が届いた。
差出人は、ルカ=フォン=エデルハインだった。
レオナルトは少しだけ目を丸くし、ペーパーナイフで丁寧に封を切った。
簡潔な、彼女らしい丸みを帯びた文字が並んでいる。
『先日は、本当にありがとうございました。
騎士団長殿が裏で色々と手配してくださらなければ、今回のことは絶対にうまくいきませんでした。
いつも素敵な笑顔の裏で、誰よりも過労になっていないか心配ですが……。
騎士団長殿のこと、私、すごく頼りにしています。また市場の串焼き、奢ってくださいね』
短い手紙。
だが、そこにある「頼りにしています」という一言が、レオナルトの胸の最も柔らかい部分に、深く、深く突き刺さった。
(……頼りにしている、か)
もちろん、そこには恋愛的な意味など一欠片も含まれていない。有能な上司や、頼れる同僚に向けるような、純粋な親愛と信頼だ。
でも──それでも。
「……貴女は、ずるい人だ」
誰もいない部屋で、レオナルトはぽつりと呟いた。
手紙を綺麗に折りたたみ、執務デスクの一番奥の引き出しに、宝物のようにそっと大切にしまう。
窓の外には、静かに眠る夜の王都が広がっている。
(……もう少しだけ。あと少しだけ、この惨めで愛おしい感情を抱えたままでいても、許されるだろうか)
まだ、はっきりと決断することはできない。
彼女への想いを断ち切るには、あまりにもその笑顔が眩しすぎた。
でも──いつか必ず、その時は来る。
騎士団長は、引き出しを閉める微かな音を聞きながら。
自分がいつか、完璧な笑顔とともに彼女の前から「身を引く」日のことを──今日、初めて具体的に想像したのだった。




