表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ローストビーフにむせただけで氷の公爵に溺愛されました。〜攻略本に載っていない社畜令嬢ですが、最強の二人に独占されて平穏な隠居生活が崩壊した件〜  作者: 成瀬 一
第五章 シナリオが、狂い始める

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
43/70

第43話 身を引く日を、想像した

 秋晴れの空の下、第一騎士団の広い訓練場に、騎士たちの剣がぶつかり合う鋭い音が響き渡っていた。


「甘いぞ! 実戦なら今の一撃で腕が飛んでいる!」


「はっ! 申し訳ありません!」


 騎士団長レオナルト=クロイツは、いつもの完璧な指導者の顔で、若手騎士たちの訓練に檄を飛ばしていた。


 アッシェンバッハ侯爵の失脚という激動を乗り越え、王国の政局は新たな局面を迎えている。だが、騎士団の日常は変わらない。


 厳しい訓練が終わり、汗を拭う部下たちを労ってから、レオナルトは一人で執務室へと戻った。


 分厚い扉を閉め、誰の目もなくなった瞬間。


 彼の顔から、いつもの完璧な笑顔がすっと消え失せた。


(……公爵殿に『好きだ』と声に出して伝えてから。……不思議と、あの頃の息苦しさは消えたな)


 一人で感情を抱え込み、完璧な仮面の下で擦り切れていた頃よりは、確かに心は楽になった。


 だが──感情の蓋を開けてしまったことで、より鮮明に『見えてきてしまったもの』があった。


   *


 その日の午後。


 書類を届けるため、王城の連絡回廊を歩いていたレオナルトは、ふと足を止めた。


 中庭のベンチ。柔らかな木漏れ日が落ちるその場所に、見慣れた二つの影があった。


 グレアム=ヴァルトシュタインと、ルカ=フォン=エデルハイン。


 臨時議会の直後に見た時のような、極度の緊張から解放された特別な時間ではない。


 ただの、何でもない、平穏な秋の午後。


 二人は並んで座り、それぞれ別の本を読みながら、時折思い出したように短い言葉を交わしている。


 ルカが、何か可笑しなことを言ったのだろう。肩を揺らして笑っている。


 それを見て、グレアムが本から目を離し──ほんの少しだけ、口元を和らげた。


 ただそれだけ。


 特別甘い言葉を囁き合っているわけでも、情熱的に触れ合っているわけでもない。


 だが、レオナルトの胸の奥を鋭く抉ったのは、まさにその『普通さ』だった。


(……ああ。もう、あの二人は特別な緊張感や危機の中にいるのではない。息をするように自然な、当たり前の日常の中にいるのだ)


 レオナルトは、柱の陰からその光景を静かに見つめていた。


 もし、アッシェンバッハのような政敵が現れれば、自分が裏で手を回して潰せる。


 もし、彼女に物理的な危機が迫れば、自らの剣で切り伏せて守れる。


 ……だが。


「何でもない当たり前の平穏な午後に、隣でただ本を読んで笑い合っている」という、この完成された日常の空間に。


 自分が割り込む余地など──もう、一ミリも存在しなかった。


   *


 レオナルトは、静かに踵を返した。


 今回は、議会の日のように、扉の前で立ち止まって葛藤することはなかった。


 ただ、歩いた。


 軍靴の音が、人気のない回廊に虚しく響く。


 騎士団長室に戻り、窓枠に手をついて王都の街並みを見下ろした。


(好きだ。……今でも、どうしようもなく惹かれている)


 彼女の飾らない正直さ。打算のない真っ直ぐな瞳。


 全てが、仮面を被って生きてきた自分には眩しかった。


 だが。


 議会の後、無言で深く頭を下げたグレアムの顔が蘇る。


「間違えた者だけが正しい道を知っている」と前を向いたルシアンの横顔が蘇る。


「共に立つ」と宣言したリリアナの、気高い瞳が蘇る。


 そして、「悪くなかったですわ」と、静かに微笑んだセシリアの顔。


 全員が、もがきながらも、自分の足で「自分の物語」を選び取り、前に進み始めている。


(……ならば、私は。私はこれから、何を選ぶのだろうか)


 レオナルトは、窓ガラスに映る自分の顔を見た。


 ルカの幸せを心から願うなら。彼女が一番自然に、自分らしく笑っていられるのは、間違いなくあの不器用な氷の公爵の隣だ。


 彼女の笑顔を守りたいなら──自分が無理に割り込んで困らせるより、遠くからあの日常を守り続ける方が、ずっと確実だ。


(……なら、私は)


 答えは、もう出かかっている。


 だが、彼の中の燻るような感情が、まだ完全に「それ」を受け入れることを拒んでいた。


 前夜、グレアムとルカの間に「秘密の共有」という決定的な絆が結ばれたことを、レオナルトは知らない。


 知らないまま──彼は一人で、痛切に「もう自分には余地がない」と感じていた。


 その残酷な事実が、彼の胸をひどく締め付けた。


   *


 その日の夜。


 残業を終えようとしていた騎士団長室に、一通の手紙が届いた。


 差出人は、ルカ=フォン=エデルハインだった。


 レオナルトは少しだけ目を丸くし、ペーパーナイフで丁寧に封を切った。


 簡潔な、彼女らしい丸みを帯びた文字が並んでいる。


『先日は、本当にありがとうございました。

 騎士団長殿が裏で色々と手配してくださらなければ、今回のことは絶対にうまくいきませんでした。

 いつも素敵な笑顔の裏で、誰よりも過労になっていないか心配ですが……。

 騎士団長殿のこと、私、すごく頼りにしています。また市場の串焼き、奢ってくださいね』


 短い手紙。


 だが、そこにある「頼りにしています」という一言が、レオナルトの胸の最も柔らかい部分に、深く、深く突き刺さった。


(……頼りにしている、か)


 もちろん、そこには恋愛的な意味など一欠片も含まれていない。有能な上司や、頼れる同僚に向けるような、純粋な親愛と信頼だ。


 でも──それでも。


「……貴女は、ずるい人だ」


 誰もいない部屋で、レオナルトはぽつりと呟いた。


 手紙を綺麗に折りたたみ、執務デスクの一番奥の引き出しに、宝物のようにそっと大切にしまう。


 窓の外には、静かに眠る夜の王都が広がっている。


(……もう少しだけ。あと少しだけ、この惨めで愛おしい感情を抱えたままでいても、許されるだろうか)


 まだ、はっきりと決断することはできない。


 彼女への想いを断ち切るには、あまりにもその笑顔が眩しすぎた。


 でも──いつか必ず、その時は来る。


 騎士団長は、引き出しを閉める微かな音を聞きながら。


 自分がいつか、完璧な笑顔とともに彼女の前から「身を引く」日のことを──今日、初めて具体的に想像したのだった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ