第42話 閣下に会えたので
アッシェンバッハ侯爵が失脚し、王都を覆っていた目に見えない暗雲が晴れてから数日後。
ルカ=フォン=エデルハインは、いつものように公爵邸の私的な書斎にいた。
政治的な緊張や急を要する危機が一切ない状態での、久しぶりの二人きりの時間。
ルカはソファで本を開き、デスクの向こうではグレアムが領地経営の書類を片付けている。
いつも通りの、穏やかな静寂。
……のはずだったが、今日のグレアムは、少しだけ様子がおかしかった。
(……閣下、さっきから書類に目を通しながら、何度も私の方を見ては何か言いたそうに視線を逸らしてる。明らかに、部下に重い評価面談の結果を切り出すタイミングを計っている時の上司の沈黙だ。めちゃくちゃ心臓に悪い)
ルカが内心で身構えていると。
パタン、と。グレアムが手元の書類の束を置き、静かに口を開いた。
「……ルカ」
「はい」
ルカは本を閉じ、居住まいを正した。
「一つ、聞いていいか」
「どうぞ」
グレアムは少し間を置いてから、氷のような青い瞳で、真っ直ぐにルカを見据えた。
「お前──何かを、隠しているな」
ルカの肩が、ビクリと跳ねた。
グレアムは逃がさない目で、淡々と事実を並べ始めた。
「アッシェンバッハの狡猾な手口を、お前はまるで事前に知っていたかのように予測した。ヴァレンティアとの密約を『タイミングが早すぎる』と断言した。カール=ヴァイスが捨て駒だという可能性も──セシリアに確認に行く前から、お前は薄々感じていたはずだ」
「それは……」
「お前は以前、『前の仕事で叩き込まれた』と言っていたな」
作法指導の時、ルカがうっかり口走った言い訳。
「だが──それだけでは説明がつかないものが、お前にはいくつかある」
グレアムの鋭い指摘に、ルカはごくりと唾を呑み込んだ。
真剣な目。誤魔化しを許さない目。
でも──決して、怒ってはいない。「知りたい」という、純粋で静かな熱を帯びた目だ。
ルカは一つ、深く深呼吸をした。
アッシェンバッハとの戦いを経て、自分はこの人たちと生きていくと決めたのだ。これ以上、適当な嘘で彼をはぐらかすのは不誠実だと思った。
「……閣下」
「ああ」
「私は──この世界でこれから起こることを、少しだけ、知っていました。ここに来る前から」
グレアムの眉が、微かにピクリと動いた。
「来る前から?」
「はい。詳しくは……どう言えばいいのか、うまく説明できないんですが。閣下のことも、ルシアン殿下のことも、アッシェンバッハのことも──大まかな結末は、知っていました」
「なぜ、今まで言わなかった」
「……信じてもらえるわけがない、と思って」
正直なルカの答えに、グレアムは静かに問うた。
「今は?」
「……今も、信じてもらえるか自信がないです」
沈黙が落ちた。
狂人の戯言だと一蹴されてもおかしくない。だが、グレアムは静かに言った。
「続けろ」
「でも──」
ルカは、膝の上でぎゅっと両手を握りしめた。
「私が知っていたのは、本当に大筋の出来事だけです。『攻略本』、みたいなものを読んでいたんですが、詳細な過程や個人の感情までは載っていなくて。……だから、閣下が朝早くに起きて焼き菓子を作ってくれることも、花瓶の水を毎日替えてくれることも──全部、この世界で、閣下に出会って初めて知りました」
グレアムが、「攻略本」という聞き慣れない単語に引っかかったように目を細めた。
「……お前が最初に、夜会で言った『モブ』という言葉。それと、その話は──繋がっているのか」
かつて彼が抱いた疑問。それが、ここで回収された。
「……はい」
「お前は──この世界に、最初からいなかった人間なのか」
「……厳密に言うと、違います。男爵家の三女として、確かにここに生きています。でも──攻略本には、私の名前は一行も載っていませんでした。私は、この物語のメインシナリオには、存在しないはずの人間でした」
長い、重い沈黙が書斎を支配した。
時計の針の音だけが、等間隔に響く。
やがて、グレアムが最も核心を突く問いを投げかけた。
「……お前は、私の『結末』を知っていたのか」
ルカは、息を呑んだ。
アッシェンバッハに敗れ、全てを失い、孤独に幽閉される氷の公爵。それが、彼に用意されていたバッドエンドの一つ。
「……知っていた、結末はあります。でも──閣下は、その通りには動きませんでした。最初から、一度も」
「どんな結末だ」
「……言えません」
「なぜ」
「もう、その結末には何の意味もないから」
ルカは、真っ直ぐにグレアムの青い瞳を見つめ返した。
「閣下は既に、攻略本の外側を、ご自身の意志で生きています。だから、そんな結末はもうどこにも存在しません」
それは、ルカから彼への、最大の肯定だった。
グレアムは、じっとルカを見た。
長い、長い沈黙。
彼女の瞳に嘘がないこと、そしてこれ以上踏み込んでも彼女が口を割らないことを悟り。
やがて彼は、小さく息を吐き出して言った。
「……そうか」
それだけだった。
*
グレアムは、ゆっくりと窓の外の景色に視線を向けた。
ルカは、恐る恐る彼の横顔を窺った。
「……怒っていますか。ずっと隠していて」
「……怒っていない」
「私の言ったこと、信じてもらえましたか?」
グレアムは少しだけ考えてから、静かに答えた。
「……その奇妙な話を信じるかどうかより」
彼が再び、ルカを見る。
「お前が、私に話そうとしてくれた。……それで十分だ」
ルカは、思わず目を丸くした。
理屈や証拠ではなく、彼女が真摯に向き合おうとした過程そのものを、彼は丸ごと受け入れてくれたのだ。
グレアムが、少しだけ声音を和らげて言った。
「もう一つだけ聞く。……お前は、この世界に来て、後悔しているか」
「していません」
ルカは即答した。
「なぜ」
「……えっと、お城のローストビーフが、前世では食べられないくらい美味しかったので」
ルカが少し照れくさそうに笑って答えると。
グレアムの広い肩が、くくっ、と不規則に震えた。
完全に笑いを堪えている。彼らしい、不器用な反応だ。
ルカは、その震える肩を見つめながら。
自分でも驚くほど自然に、小さな声で付け加えていた。
「……あと、閣下に会えたので」
ピタリと。
グレアムの肩の震えが止まった。
書斎の空気が、一瞬にして甘く、ひどく密やかなものに変わる。
ルカ自身も、口に出してから一気に顔に熱が集まるのを感じた。
(あれっ!? 私、今すごい恥ずかしいこと言った!? これはどう誤魔化せば……無理だ、誤魔化しきれない!)
ルカが一人でパニックに陥っていると。
グレアムが、赤くなった耳の先を隠すように少しだけ顔を背け、ひどく低く、優しい声で言った。
「……そうか」
今回の「そうか」は──ルカが今まで彼から聞いたどんな言葉よりも、一番温かく、深く心に響く音色をしていた。
名前のない令嬢の抱えていた最大の秘密が、少しだけ、氷の公爵に届いた夜だった。




