第41話 むせなければよかったとは、思っていません
翌朝。
ルカ=フォン=エデルハインは、男爵邸の自室のベッドでゆっくりと目を覚ました。
昨日の議会の、息が詰まるような緊張感と疲労が、まだ体の芯に重く残っている。
でも──不思議と、頭の中はひどくすっきりと澄み渡っていた。
(……半年間引きずっていた超特大の炎上案件が、ついに無事にクローズした翌朝と同じ感覚だ。あの独特の、体が鉛みたいに重いのに、心だけは妙に軽くて宙に浮きそうな感じ)
ルカはベッドから起き上がり、大きく伸びをして窓を開けた。
王都の空は、抜けるように青く、高く澄み切っていた。
窓辺の風に吹かれながら、ルカはふと、前世でやり込んでいた乙女ゲーム『緋色の誓約』のことを思い出した。
久しぶりに、脳内の攻略本データベースを引っ張り出し、現在の状況と照らし合わせてみる。
──全部、完全に狂っている。
王太子ルシアンは、「ヒロインを盲目的に愛し、悪役を断罪する愚かな王子」ではなく、自らの過ちを認め、這いつくばりながら国を守ろうと足掻く次期国王になった。
悪役令嬢セシリアは、断罪されて惨めに没落する引き立て役ではなく、誰よりも鋭く真実を見極め、水面下で盤面を動かす賢き観察者になった。
光の聖女リリアナは、ただ王太子に守られるだけのか弱きヒロインではなく、自らの意志で動き、彼と共に立つことを選んだ。
そして。
王国最強の軍神、誰も寄せ付けない「氷の公爵」グレアムは。
(……あの人は、今では不器用に焼き菓子を作り、私が渡した花瓶の水を毎日自分で替え、私の言葉を『信じる』と言って、一人で戦いの矢面に立ってくれる人になった)
ルカは、小さく息を吐き出した。
(もう、ゲームじゃない。私たちが生きているここは、あの攻略本に書かれていたシナリオとは、完全に別の物語になっているんだ)
*
その日の午前中。
ルカの元に、一通の手紙が届いた。差出人はセシリアだった。
『少し、お話しできますか。ローゼンベルク邸でお待ちしております』
ルカはすぐに身支度を整え、馬車でローゼンベルク侯爵邸へと向かった。
案内されたセシリアの私室は、彼女の洗練された美貌によく似合う、静かで落ち着いた空間だった。
「昨日は、お疲れ様でした。……そして、私への護衛の手配、感謝しております」
人払いがされた部屋で、セシリアがソファーに腰を下ろしながら切り出した。
「騎士団長殿の、迅速なご配慮だったと伺いました。あのアッシェンバッハが私の情報網に気づいていたとは……私としたことが、不覚でしたわ」
「いえ、私は何もしていません。レオナルト騎士団長が、全て裏で先回りして動いてくださっただけで……」
ルカが恐縮して首を振ると、セシリアは静かに微笑んだ。
「いいえ。あなたが真っ先に私の元へ走り、情報を引き出して動いたからこそ、騎士団長殿も即座に動くことができた。……世界の因果関係というものは、そういうものですわ」
ルカは、少しだけ黙り込んだ。
セシリアが、紅茶のカップをテーブルに置き、真っ直ぐにルカを見つめた。
「エデルハイン令嬢。あなたに、一つだけ聞いてもよろしいですか」
「はい」
「……もう、逃げるつもりはありませんか?」
ルカは「逃げる?」と聞き返した。
「ええ。この世界のシナリオには一切関わらず、ただ安全圏で生き延びていくのか──という意味です」
ルカは、ピクリと固まった。
「……やはり、セシリア様は全部わかっているんですね。私が、この世界の外側の知識を持っていることを」
以前の図書室での「内部監査」の時よりも、さらに踏み込んだ言葉。
だが、セシリアは小さく首を横に振った。
「全てを理解しているわけではありません。あなたが何処から来て、何を知っていたのか。……でも、聞きたかったのはそこではありません」
セシリアのアメジストの瞳が、ルカを射抜く。
「あなたはこの世界に来た時、あらかじめ決められた『シナリオ』を知っていた。でも今、そのシナリオは、あなたが引き金となって完全に崩壊している。……それを、あなた自身は今、どう感じていますか?」
ルカは、少し考えた。
誤魔化すこともできたが、今の彼女に対して、それはひどく不誠実な気がした。
「……正直に言うと、怖いです」
「怖い?」
「はい。シナリオがあった時は、それがどれほど理不尽でも、少なくとも『明日はこうなる』という明確な予測がありました。でも今は──何の道標もない。これからこの世界がどうなっていくのか、私には全くわからないから」
セシリアは、黙ってルカの言葉に耳を傾けている。
「でも──」
ルカは、少し間を置いて、はっきりと告げた。
「怖いけど、嫌じゃないんです。……誰かが勝手に決めたシナリオじゃなくて。ルシアン殿下も、リリアナ様も、閣下も……みんなが、自分の意志で選んで、間違えながら動いている。それが──なんか、すごくいい気がして」
セシリアは、ルカの顔をじっと見つめ。
やがて「……そうですか」と、ふっと肩の力を抜いて、柔らかく笑った。
「奇遇ですね。私も、全く同じです」
セシリアが、窓の外の青空に視線を向ける。
「悪役令嬢として断罪され、全てを失うという『決められたシナリオ』から外れた時。足元が崩れ落ちるように怖かった。……でも、その決められた道を外れた先に、今の私たちがいる」
二人は顔を見合わせ、声を出さずに、少しだけ可笑しそうに笑い合った。
それは、この世界で唯一「シナリオの外側」を知る者同士の、静かで確かな連帯の瞬間だった。
「エデルハイン令嬢。あなたは、この世界に来てよかったと思いますか?」
セシリアの問いに。
ルカは、一瞬の迷いもなく答えた。
「……はい」
あの日の光景を思い出す。
豪華なシャンデリアの下、壁際で食べた、あの極上のローストビーフの味を。
「あの日、ローストビーフのソースが気管に入って咽せなければよかったとは──これっぽっちも、思っていません」
ルカが胸を張って答えると、セシリアは一瞬きょとんとして──次の瞬間、堪えきれないように、お腹を抱えて声を立てて笑い出した。
完璧な淑女の仮面など微塵もない、年相応の少女の、明るく本物の笑い声だった。
*
ローゼンベルク邸からの帰り道。
ルカは馬車には乗らず、一人で王都の賑やかな街並みを歩いていた。
(ゲームのシナリオは、完全に終わった。……でも、私の物語は、まだ続いてる)
すれ違う人々。パンを焼く匂い。馬車の車輪の音。
全てが、生々しい現実としてそこにある。
ふと、新しい問いが胸に浮かんだ。
(これからの私は、一体何者になるんだろう)
もう、ただのモブではない。
かといって、ゲームに定められた攻略対象でも、ヒロインでも、悪役でもない。
「名前のない令嬢」として目立たず生き延びることを至上命題としていたルカが、これからどんな名前で、どんな役割で呼ばれるようになるのか。
先のことは、まだ何もわからない。
でも──ちっとも、怖くなかった。
(……グレアム閣下が、私に『待っている』と言ってくれた。レオナルト騎士団長が、私の変化を『見守っていた』と言ってくれた。セシリア様が、私と笑い合ってくれた)
以前、図書室で男たちから守られた夜に思った言葉が、鮮明に蘇る。
──「名前のない令嬢には、名前を呼んでくれる人が、増え始めているらしかった」。
ルカは、秋の風を胸いっぱいに吸い込み、空を見上げた。
名前のない令嬢は、今日。
誰のシナリオでもない、自分だけの物語がようやく始まったことを──初めて、心から信じることができたのだった。




