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ローストビーフにむせただけで氷の公爵に溺愛されました。〜攻略本に載っていない社畜令嬢ですが、最強の二人に独占されて平穏な隠居生活が崩壊した件〜  作者: 成瀬 一
第五章 シナリオが、狂い始める

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第41話 むせなければよかったとは、思っていません

 翌朝。


 ルカ=フォン=エデルハインは、男爵邸の自室のベッドでゆっくりと目を覚ました。


 昨日の議会の、息が詰まるような緊張感と疲労が、まだ体の芯に重く残っている。


 でも──不思議と、頭の中はひどくすっきりと澄み渡っていた。


(……半年間引きずっていた超特大の炎上案件が、ついに無事にクローズした翌朝と同じ感覚だ。あの独特の、体が鉛みたいに重いのに、心だけは妙に軽くて宙に浮きそうな感じ)


 ルカはベッドから起き上がり、大きく伸びをして窓を開けた。


 王都の空は、抜けるように青く、高く澄み切っていた。


 窓辺の風に吹かれながら、ルカはふと、前世でやり込んでいた乙女ゲーム『緋色の誓約』のことを思い出した。


 久しぶりに、脳内の攻略本データベースを引っ張り出し、現在の状況と照らし合わせてみる。


 ──全部、完全に狂っている。


 王太子ルシアンは、「ヒロインを盲目的に愛し、悪役を断罪する愚かな王子」ではなく、自らの過ちを認め、這いつくばりながら国を守ろうと足掻く次期国王になった。


 悪役令嬢セシリアは、断罪されて惨めに没落する引き立て役ではなく、誰よりも鋭く真実を見極め、水面下で盤面を動かす賢き観察者になった。


 光の聖女リリアナは、ただ王太子に守られるだけのか弱きヒロインではなく、自らの意志で動き、彼と共に立つことを選んだ。


 そして。


 王国最強の軍神、誰も寄せ付けない「氷の公爵」グレアムは。


(……あの人は、今では不器用に焼き菓子を作り、私が渡した花瓶の水を毎日自分で替え、私の言葉を『信じる』と言って、一人で戦いの矢面に立ってくれる人になった)


 ルカは、小さく息を吐き出した。


(もう、ゲームじゃない。私たちが生きているここは、あの攻略本に書かれていたシナリオとは、完全に別の物語になっているんだ)


   *


 その日の午前中。


 ルカの元に、一通の手紙が届いた。差出人はセシリアだった。


『少し、お話しできますか。ローゼンベルク邸でお待ちしております』


 ルカはすぐに身支度を整え、馬車でローゼンベルク侯爵邸へと向かった。


 案内されたセシリアの私室は、彼女の洗練された美貌によく似合う、静かで落ち着いた空間だった。


「昨日は、お疲れ様でした。……そして、私への護衛の手配、感謝しております」


 人払いがされた部屋で、セシリアがソファーに腰を下ろしながら切り出した。


「騎士団長殿の、迅速なご配慮だったと伺いました。あのアッシェンバッハが私の情報網に気づいていたとは……私としたことが、不覚でしたわ」


「いえ、私は何もしていません。レオナルト騎士団長が、全て裏で先回りして動いてくださっただけで……」


 ルカが恐縮して首を振ると、セシリアは静かに微笑んだ。


「いいえ。あなたが真っ先に私の元へ走り、情報を引き出して動いたからこそ、騎士団長殿も即座に動くことができた。……世界の因果関係というものは、そういうものですわ」


 ルカは、少しだけ黙り込んだ。


 セシリアが、紅茶のカップをテーブルに置き、真っ直ぐにルカを見つめた。


「エデルハイン令嬢。あなたに、一つだけ聞いてもよろしいですか」


「はい」


「……もう、逃げるつもりはありませんか?」


 ルカは「逃げる?」と聞き返した。


「ええ。この世界のシナリオには一切関わらず、ただ安全圏で生き延びていくのか──という意味です」


 ルカは、ピクリと固まった。


「……やはり、セシリア様は全部わかっているんですね。私が、この世界の外側の知識を持っていることを」


 以前の図書室での「内部監査」の時よりも、さらに踏み込んだ言葉。


 だが、セシリアは小さく首を横に振った。


「全てを理解しているわけではありません。あなたが何処から来て、何を知っていたのか。……でも、聞きたかったのはそこではありません」


 セシリアのアメジストの瞳が、ルカを射抜く。


「あなたはこの世界に来た時、あらかじめ決められた『シナリオ』を知っていた。でも今、そのシナリオは、あなたが引き金となって完全に崩壊している。……それを、あなた自身は今、どう感じていますか?」


 ルカは、少し考えた。


 誤魔化すこともできたが、今の彼女に対して、それはひどく不誠実な気がした。


「……正直に言うと、怖いです」


「怖い?」


「はい。シナリオがあった時は、それがどれほど理不尽でも、少なくとも『明日はこうなる』という明確な予測がありました。でも今は──何の道標もない。これからこの世界がどうなっていくのか、私には全くわからないから」


 セシリアは、黙ってルカの言葉に耳を傾けている。


「でも──」


 ルカは、少し間を置いて、はっきりと告げた。


「怖いけど、嫌じゃないんです。……誰かが勝手に決めたシナリオじゃなくて。ルシアン殿下も、リリアナ様も、閣下も……みんなが、自分の意志で選んで、間違えながら動いている。それが──なんか、すごくいい気がして」


 セシリアは、ルカの顔をじっと見つめ。


 やがて「……そうですか」と、ふっと肩の力を抜いて、柔らかく笑った。


「奇遇ですね。私も、全く同じです」


 セシリアが、窓の外の青空に視線を向ける。


「悪役令嬢として断罪され、全てを失うという『決められたシナリオ』から外れた時。足元が崩れ落ちるように怖かった。……でも、その決められた道を外れた先に、今の私たちがいる」

 

 二人は顔を見合わせ、声を出さずに、少しだけ可笑しそうに笑い合った。

 

 それは、この世界で唯一「シナリオの外側」を知る者同士の、静かで確かな連帯の瞬間だった。


「エデルハイン令嬢。あなたは、この世界に来てよかったと思いますか?」


 セシリアの問いに。


 ルカは、一瞬の迷いもなく答えた。


「……はい」


 あの日の光景を思い出す。


 豪華なシャンデリアの下、壁際で食べた、あの極上のローストビーフの味を。


「あの日、ローストビーフのソースが気管に入って咽せなければよかったとは──これっぽっちも、思っていません」


 ルカが胸を張って答えると、セシリアは一瞬きょとんとして──次の瞬間、堪えきれないように、お腹を抱えて声を立てて笑い出した。


 完璧な淑女の仮面など微塵もない、年相応の少女の、明るく本物の笑い声だった。


   *


 ローゼンベルク邸からの帰り道。


 ルカは馬車には乗らず、一人で王都の賑やかな街並みを歩いていた。


(ゲームのシナリオは、完全に終わった。……でも、私の物語は、まだ続いてる)


 すれ違う人々。パンを焼く匂い。馬車の車輪の音。


 全てが、生々しい現実としてそこにある。


 ふと、新しい問いが胸に浮かんだ。


(これからの私は、一体何者になるんだろう)


 もう、ただのモブではない。


 かといって、ゲームに定められた攻略対象でも、ヒロインでも、悪役でもない。


「名前のない令嬢」として目立たず生き延びることを至上命題としていたルカが、これからどんな名前で、どんな役割で呼ばれるようになるのか。


 先のことは、まだ何もわからない。


 でも──ちっとも、怖くなかった。


(……グレアム閣下が、私に『待っている』と言ってくれた。レオナルト騎士団長が、私の変化を『見守っていた』と言ってくれた。セシリア様が、私と笑い合ってくれた)


 以前、図書室で男たちから守られた夜に思った言葉が、鮮明に蘇る。


 ──「名前のない令嬢には、名前を呼んでくれる人が、増え始めているらしかった」。


 ルカは、秋の風を胸いっぱいに吸い込み、空を見上げた。


 名前のない令嬢は、今日。


 誰のシナリオでもない、自分だけの物語がようやく始まったことを──初めて、心から信じることができたのだった。

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