第39話 帰っていいですか、と言っていた
ヴァレンティアの使節団に潜り込んでいた暗殺者、カール=ヴァイス。
彼が王国の入国審査の段階で、外交的かつ合法的に拘束された翌日。
王城内の空気は、目に見えて少しだけ緩んでいた。
「閣下、ひとまず最悪の事態は防げてよかったですね」
執務室で書類を運んでいたルカが声をかけると、グレアムは手元の羽ペンを止めることなく「……ああ」と短く応じた。
だが、その氷のような青い瞳は、完全には緩みきっていなかった。
(……閣下、まだ何か考えてる。理不尽な大型クレームが一応収まったけど、自社製品の根本的な欠陥が解決していないことを知っている上司の顔だ)
ルカの社畜センサーが、事態はまだ終わっていないことを告げている。
*
その日の昼下がり。
王城の回廊を歩いていたルカに、不意に声が掛かった。
「ルカ嬢。少し、よろしいですか」
振り返ると、第一騎士団長であるレオナルト=クロイツが立っていた。
いつもの「いつの間にか隣にいる」というお約束の現れ方ではない。今日は、誰の目からもはっきりと分かるように、正面から真っ直ぐに歩み寄ってきた。
「はい。どうされましたか?」
ルカが応じると、レオナルトは「少しだけ」と言って、彼女を人気のない回廊の奥へと案内した。
「ルカ嬢、一つ確認したいことがあります」
「なんでしょう」
「昨日、貴女がセシリア様から情報を得た時──セシリア様は『カール=ヴァイス』という名前を、すぐに出しましたか?」
レオナルトの翠の瞳が、真剣な光を帯びてルカを射抜く。
「はい、すぐに。北部の商会の記録からと言っていました」
ルカが答えると、レオナルトは一つ頷き、静かに思考をまとめるように口を開いた。
「……セシリア様が、その名前を『すぐに』出せたということは、彼女が事前にその情報を把握し、精査していたということです。北部の膨大な商会の記録から、ピンポイントであの男の不審点に辿り着くには、通常もっと時間がかかるはずですから」
「……つまり?」
「セシリア様は──我々が動く前から、独自にヴァレンティアの使節団を、いや、アッシェンバッハ侯爵の動きを監視していた。ローゼンベルク家の情報網を使って」
ルカは少し首を傾げた。
「それは……私たちにとって、いいことじゃないですか? 現に、その情報のおかげで暗殺者を止められたわけですし」
「ええ。ですが──」
レオナルトは、少しだけ間を置いた。
「セシリア様が把握していて、私たちに教えなかった情報が、まだあるかもしれない。……いえ、それ以上に厄介な問題があります」
レオナルトの声が、一段と低くなる。
「カール=ヴァイスは──おそらく、ただの『捨て駒』です」
「えっ?」
「アッシェンバッハほどの狡猾な男が、経歴に不自然な空白があるような分かりやすい人物を、副団長という目立つ役職に据えるはずがない。……つまり、我々が彼を不審に思い、特定して拘束すること自体を、アッシェンバッハは最初から計算していた可能性があるということです」
ルカの脳内が、カチリと音を立ててパズルを組み上げた。
(捨て駒。……つまり、分かりやすい餌を撒いて、私たちがどう動くかを見た? カールを炙り出させることで、私たちの『情報源のルート』を特定しようとしたってこと!?)
「セシリア様の強大な情報網が、アッシェンバッハに露見した可能性があります」
レオナルトの言葉に、ルカの顔から一気に血の気が引いた。
「じゃあ、セシリア様が危ないんじゃ……!」
ルカが弾かれたように立ち上がりかけた瞬間。
レオナルトが、ルカの肩にそっと手を置き、優しく制した。
「待ってください。既に、手は打ってあります」
「え?」
「セシリア様の護衛に、我が騎士団の最も信頼できる精鋭を極秘裏に配置しました。万が一の事態にも、即座に対応できるようになっています。……ルカ嬢が動くよりも前に」
ルカは、目を丸くして固まった。
「……いつ、気づいたんですか」
「昨日。貴女が公爵邸を飛び出し、セシリア様の元へ向かったという報告を受けた時点で」
ルカは息を呑んだ。
「じゃあ、なぜ私を止めなかったんですか? 私がセシリア様に接触すれば、彼女を危険に晒すことになると分かっていたのに」
レオナルトは、少しだけ笑った。
いつもの完璧な作り笑いではない。ひどく柔らかく、そして本物の、人間らしい笑顔だった。
「……止めても、貴女は動いたでしょう?」
図星を突かれ、ルカは言葉に詰まる。
「それに、貴女が自分の意志で動いたことで、カール=ヴァイスという捨て駒を炙り出せた。アッシェンバッハの『次の手』の輪郭が見えた。……それ自体は、間違いなく正解でした」
「でも、私のせいでセシリア様を危険に晒した」
「だから、私が先に裏で手を打ちました。……それが、私の仕事ですから」
ルカは、目の前に立つ金髪の騎士団長を見上げた。
「……騎士団長殿は、盤面の裏の裏まで、全部見えていたんですね」
「見えていなかった部分もありますよ」
レオナルトは、小さく肩をすくめた。
「貴女が、公爵殿の命令を破ってまで一人で動くという部分は──少し、計算外でした」
「……計算外、でしたか。すみません、ただの暴走で」
「ええ。……でも、悪くなかった」
以前、セシリアがルシアンに向けて言ったのと同じ言葉。
だが、レオナルトの声は、ずっと温かく、優しさに満ちていた。
*
レオナルトが、一歩だけルカに近づき、続けた。
「もう一つ。……ルカ嬢。貴女は昨日、グレアム公爵殿にひどく怒られましたね」
「……はい。社畜……じゃなくて、同伴者としては致命的な命令違反でしたから」
ルカがしょんぼりとうなだれると、レオナルトは真っ直ぐにルカを見つめた。
「怒られるとわかっていて、それでも動いた」
「……はい」
「それは──すごいことですよ」
ルカが「え?」と顔を上げる。
「怒られること、失敗することへの恐怖より。今、動かなければならないという『必要性』を選んだ。……貴女は、完全に変わりましたね」
ルカは、少しだけ考えてから、照れくさそうに頬を掻いた。
「……変わったんですかね、私」
「変わりましたよ」
レオナルトが、優しく目を細める。
「最初に私と会った時、貴女は真っ先に『帰っていいですか』と言っていた」
「あ……」
ルカは思い出し、思わず吹き出して笑った。
「……そうでしたね。あの頃は、ただ逃げることしか考えていませんでした」
レオナルトは、屈託なく笑うルカのその笑顔を見て──少しだけ、愛おしそうに、そして切なそうに目を細めた。
その翠の瞳の奥に、どれほど重く、深い感情が渦巻いているか。
ルカは、今日も気づかない。
でも──今のレオナルトは、それでいいと思っていた。
王国第一騎士団長は。
攻略本に載っていない名もなき令嬢が、もがきながらも強く変わっていく様を。
誰よりも近くで、誰よりも静かに、見守り続けていた。




