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ローストビーフにむせただけで氷の公爵に溺愛されました。〜攻略本に載っていない社畜令嬢ですが、最強の二人に独占されて平穏な隠居生活が崩壊した件〜  作者: 成瀬 一
第五章 シナリオが、狂い始める

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第37話 声に出したら、楽だった

 第一騎士団の騎士団長室。


 朝陽が差し込む室内で、レオナルト=クロイツはいつも通りの完璧な笑顔を浮かべ、部下からの報告書を受け取っていた。


「ご苦労。手配は完璧だ、下がっていい」


「はっ! 失礼いたします!」


 部下が敬礼をして退室し、重厚な扉が閉まる。


 一人になった瞬間、レオナルトの顔から、貼り付けたような笑顔がすっと消え失せた。


 窓辺に歩み寄り、王都の街並みを見下ろす。


 数日前の臨時議会。アッシェンバッハ侯爵の目論見を完璧に打ち砕いたあの日。


 自分は裏で全ての根回しを終え、廊下でグレアムを見送った。


(……あの後、公爵殿が前室の扉を開け、彼女の元へ帰還するその瞬間を)


 見なかった。


 いや、見られなかったのだ。


 あの不器用な男が、愛する令嬢の元へ無事に帰り、彼女がどんな顔で彼を迎えたのか。それを直視してしまえば、自分の中で何かが決定的に壊れてしまう気がしたから。


(……限界、か)


 能力的な限界ではない。


 好きな人の幸せを守るために、決して報われないと知りながら、暗闇の中で動き続けることの──感情的な限界が、すぐそこまで迫っていた。


   *


 コン、コン。


 控えめなノックの音に、レオナルトは瞬時に「騎士団長」の顔を作り直した。


「入れ」


 扉を開けて入ってきたのは、思いがけない人物だった。


「……公爵殿? 珍しいですね、貴方が直々にここへ来られるとは」


「話がある」


 グレアムは短く告げると、レオナルトが勧めたソファに静かに腰を下ろした。


「アッシェンバッハの次の手が、見え始めてきた」


 それは、重苦しい政治の話だった。


 先日の議会で失脚した手下たちを容赦なく切り捨てたアッシェンバッハは、今度は「外側から」動こうとしているらしい。隣国との密約を結び、王国の外から軍事的・政治的な圧力をかけるという、なりふり構わぬ手法だ。


「……それは、ルカ嬢への直接的な危険になりますか?」


 レオナルトが、核心を突く質問を投げかけた。


 グレアムは、氷のような青い瞳を少しだけ伏せた。


「……なる可能性がある」


 その言葉に、レオナルトの完璧な笑顔が、少しだけ固く引き攣った。


   *


 政治の話が一段落し、二人の間に重い沈黙が落ちた。


 やがて、グレアムが静かに口を開いた。


「……何かあるか」


「何がですか?」


 レオナルトは、いつものように笑顔で躱そうとした。


 だが、グレアムは逃がさなかった。


「お前が『何もない』という顔をしている時は、大抵、何か深刻なものを隠している時だ」


 レオナルトの動きが、ピタリと止まる。


 長い、長い沈黙。


 部屋の柱時計が時を刻む音だけが、等間隔に響く。


 やがて──レオナルトは小さく息を吐き、顔から一切の笑顔を消した。


「……一つだけ、聞いていいですか」


「ああ」


「公爵殿は──ルカ嬢のことを、どう思っていますか」


 直球の問いだった。


 グレアムは、真っ直ぐにレオナルトの翠の瞳を見据え、隠すことなく静かに肯定の意志を示した。


 レオナルトは、自嘲するように目を伏せた。


「私はずっと、背中を守ると言いました。……公爵殿が万全の態勢で彼女の傍にいる限り、ルカ嬢は絶対に安全だと思っていました。でも」


 言葉が、喉の奥でつかえる。


「……でも?」


 グレアムが促す。


「……私は今、自分が一体何のために動いているのか、少しわからなくなっています」


 レオナルトは、窓の外の空を見上げたまま、乾いた声で吐き出した。


「ルカ嬢の平穏を守りたいのか。王国のために公爵殿を支えたいのか。それとも──」


 そこで、レオナルトは小さく笑った。


 自嘲でも、作り笑いでもない。ただの、ひどく哀しい、一人の青年の笑顔だった。


「……私自身の、惨めな執着のために動いているのか」


 沈黙。


 グレアムはその告白を遮ることなく、ただ静かに聞いていた。


 そして、低く、確かめるように問うた。


「……お前は、ルカのことが好きなのか」


「ええ」


 間を置かずに。笑顔で。でも、その目は全く笑っていなかった。


「好きです。ずっと。……今も」


 グレアムは何も言わない。


 レオナルトは、さらに言葉を繋いだ。


「でも──彼女の心が誰のものかは、分かっています。だから、これは私一人の、どうしようもない問題です。公爵殿には、関係ない」


「……関係ある」


 グレアムが、即座に否定した。


 レオナルトが「え?」と顔を上げる。


「お前が裏で動き、泥を被ってくれなければ、私は今日まで立っていられなかった。お前がいなければ、私は彼女を守れなかった。……それは、大いに関係がある」


 レオナルトは、少しだけ目を細めた。


「……慰めですか」


「事実だ」


 沈黙。


 グレアムは、ソファからゆっくりと立ち上がった。


「お前のその気持ちを、私がどうすることもできない。……でも、お前が限界を超えて壊れることは、私が望まない」


 それは、恋の勝者としての憐れみではない。


 共に死線を潜り抜けてきた、一人の男としての、絶対的な信頼と敬意だった。


 レオナルトは、いつもの完璧な笑顔を顔に貼り付け直した。


「……壊れませんよ、私は」


 グレアムは、その笑顔を見て小さく「……わかった」とだけ言い、扉に向かって歩き出した。


 そして、部屋を出る直前──振り返り、レオナルトを見た。


「レオナルト」


「はい」


「……ありがとう。全て」


 議会の後、無言で頭を下げたあの男が。


 今度ははっきりと、言葉にして感謝を伝えた。


 レオナルトは、グレアムの背中を見つめ、静かに答えた。


「……光栄です」


 それは、議会の後に返したのと同じ言葉だったが。


 今の彼の声は、あの時よりもずっと、穏やかで温かい温度を持っていた。


   *


 扉が閉まり、グレアムが去った後。


 レオナルトは再び一人になり、窓の外の青空を見上げた。


(好きだと、言った。……公爵殿に)


 自分の口から、声に出してその感情を認めたのは、今日が初めてだった。


 絶対に叶わない恋だと宣言したようなものだ。


 だが──不思議と、胸の奥のつかえが、少しだけ取れて楽になった気がした。


 一人で抱え込み、誰にも見せまいと必死に隠してきた重たい感情を。


 ほんの少しだけ、誰かに見せた。


 それだけで、こんなにも呼吸がしやすくなるなんて。


(……ルカ嬢が、雨の夜に公爵殿に『また話してください』と言っていたそうだな。……あの言葉の意味が、今なら少しだけ、わかった気がする)


 騎士団長は、今日初めて、誰かに「好きだ」と声に出して言った。


 そしてそれは──彼が想像していたより、楽なことだった。

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