第36話 共に、立ってくれるか
アッシェンバッハ侯爵の目論見を打ち砕いた、あの激動の臨時議会の翌日。
第一王子ルシアン=エーヴェルは、王城の人目のつかない中庭のベンチに、ただ一人で腰を下ろしていた。
連日の極度の緊張と寝不足で、肉体的な疲労はピークに達している。
しかし、議会前室で「なぜ誰も私の話を聞かない!」と叫んでいた頃の、あの息の詰まるような絶望感は、今の彼には微塵もなかった。
ルシアンは、静かに秋の空を見上げた。
雲一つない、高く澄んだ青空だった。
(……セシリア)
ふと、かつて自らの手で切り捨てた元婚約者の名前が、胸をよぎる。
昨日の議会。四面楚歌の中で立ち上がり、重臣たちに向けて「間違えた者だけが、正しい道を知っている」と叫べたのは、間違いなく彼女の存在があったからだ。
自分の愚かさゆえに、大勢の貴族たちの前で尊厳を踏みにじり、断罪してしまった誇り高き令嬢。
彼女は今、どうしているだろうか。
自分が身勝手に婚約破棄を突きつけたせいで、名門ローゼンベルク家は政治的にひどく厳しい立場に立たされているはずだ。
ルシアンは、膝の上で強く拳を握りしめた。
自分の贖罪は、まだ何も終わっていない。いや、始まってすらいないのだ。
だが──昨日、不格好ながらも、自分の足で立つことができた。
今なら、彼女の顔を真っ直ぐに見れる気がする。
ルシアンはベンチから立ち上がると、迷いのない足取りで、行くべき場所へと向かった。
***
王城の別棟。静かな西側のバルコニー。
そこに、真紅の髪を風に揺らしながら、一人で外を眺めている令嬢がいた。
「……セシリア」
ルシアンが背後から声をかけると、彼女はゆっくりと振り返った。
冷ややかなアメジストの瞳が、ルシアンを射抜く。
「……何の用ですか、殿下」
かつての婚約者に向けるような熱はない。ひどく事務的で、冷たい声だった。
「謝りに来た」
ルシアンが端的に告げると、セシリアは手にした扇子をパチリと開き、口元を隠した。
「今更ですわね」
「……ああ。本当に、今更だ。笑ってくれて構わない」
ルシアンは、逃げることなく彼女の目を見て、深く頭を下げた。
次期国王が、一介の令嬢に頭を下げる。本来ならあり得ない光景だが、ルシアンに躊躇いはなかった。
「お前を傷つけ、貶めた。その事実は、どう足掻いても取り返せない。……だが、私の軽率な行動のせいでローゼンベルク家が被った政治的な損害は、今後、次期国王として必ず私が取り戻す。約束する」
セシリアは、黙ってルシアンのつむじを見下ろしていた。
「……これで贖罪が完了するとは、微塵も思っていない。ただ、知っていてほしかったのだ」
沈黙が落ちる。
吹き抜ける風の音だけが、二人の間を通り過ぎていく。
やがて、セシリアは扇子を少しだけ下げ、静かに言った。
「……知りました」
たった、一言。
それは明確な「許し」ではない。彼女が受けた傷は、そんな簡単に癒えるものではない。
だが──明確な「拒絶」でもなかった。
彼が自らの過ちを認め、責任を負う覚悟を決めたという事実を、ただ客観的に受け取ったという意思表示。
「ありがとう」
ルシアンは顔を上げ、踵を返した。
これ以上、自分の都合で彼女の時間を奪うべきではない。そう思って立ち去ろうとした、その時だった。
「……殿下」
背中越しに、セシリアの声が引き留めた。
「昨日の議会──見学席から、見ていましたよ」
ルシアンが、ハッと足を止める。
「……悪くなかったですわ」
振り返ると、セシリアはもう背を向け、バルコニーの彼方を見つめていた。
その横顔には、かつてのような憎しみも、怒りもなかった。
ルシアンは、少しだけ、本当に少しだけ、憑き物が落ちたように笑った。
そして、今度こそ静かにその場を後にした。
*
中庭に戻ると。
先ほどルシアンが座っていたベンチのそばで、リリアナが両手を前で組み、じっと待っていた。
「……リリアナ。なぜここに」
「殿下が戻られるのを、待っていたかったので」
リリアナは、ルシアンの顔を見て柔らかく微笑んだ。
本来のゲームのヒロインなら。
ここで傷ついた王子に寄り添い、甘い言葉をかけられ、ただ腕の中で「守られる」場面になるはずだった。
だが──目の前にいるリリアナは、違った。
「昨日、国王陛下の病室に一人で伺った時」
リリアナが、ポツリと語り始めた。
「……陛下は、ベッドの中で、とても小さく見えました。謁見の間にいらした時は、あんなに大きくて威厳のある方だったのに」
ルシアンは黙って聞いている。
「陛下が、私の手を強く握って言ったんです。『ルシアンを頼む』と」
ルシアンが、息を呑んだ。
父が、自分を。
「私は聖女です。でも──聖女として、この国のために何ができるのかを、今まで真剣に考えてこなかった。ただ殿下の傍で『守られる』ことを、心のどこかで当然だと思っていたんです」
リリアナが、翠の瞳で、ルシアンを真っ直ぐに見据えた。
「でも昨日、私は初めて、自分の意志で動きました。陛下の元へ行き、書状を書いていただきました。……それが本当に政治的に正しかったのかは、私にはわかりません。でも──動けたんです」
「……正しかった」
ルシアンが強く肯定すると、リリアナは小さく首を振った。
「正しかったかどうかより。……私は昨日、ルシアン様と一緒に、同じ方向を向いて動けたことが、心の底から嬉しかったんです」
ルシアンは、リリアナの顔を見つめた。
そこにいるのは、攻略本に描かれていたような、都合よく愛され、守られるだけの非力なヒロインではない。
自らの足で立ち、恐怖を乗り越え、自分の意志で『一緒に動く』ことを選んだ、一人の気高い少女が目の前にいる。
「……リリアナ」
「はい」
「私と──共に立ってくれるか。ただ守られるのではなく、共に、この国の未来を背負って」
それは、王太子としての、偽りのない真実のプロポーズだった。
リリアナは、大きな瞳を少しだけ潤ませて──力強く、頷いた。
「はい。……それが、私の選んだ道です」
中庭に、秋の風が吹き抜ける。
ルシアンとリリアナは、誰に祝福されるわけでもなく、ただ静かに並んで立っていた。
本来のゲームのシナリオ通りの「全てを与えられ、祝福される王太子とヒロイン」ではない。
他者を傷つけ、間違いを犯し、泥にまみれながら、それでも自分たちの意志で「自分たちだけの物語」を選び取った二人。
ルシアンが、高く澄んだ空を見上げる。
セシリアの「悪くなかったですわ」という冷たくも誇り高い声が、まだ耳の奥に心地よく残っていた。
攻略本には「ハッピーエンド」と、たった一言で片付けられていた二人が。
攻略本には決して書かれていない、険しくも美しい道を、今、自分たちで選び、歩き出したのだった。




