第33話 一ミリも、信じません
朝から、王城内の空気が明らかにおかしかった。
(大型案件が致命的に炎上した朝の、あの空気だ。関係者全員が青ざめた顔で走り回ってる)
ルカ=フォン=エデルハインの社畜センサーが、最大級の警報を鳴らしていた。
重臣たちが慌ただしく廊下を行き交い、第一騎士団の騎士たちが、いつもより物々しい装備で要所に多数配置されている。
グレアムは、登城して早々に「ルカ、今日はおとなしくしていろ。ここを動くな」とだけ言い残し、足早にどこかへ消えてしまった。
(分かりましたとは言ったけど……何が起きているのか全く分からないまま、前線から外されて一人で待機させられるのって、社畜的に一番胃が痛い状況なんだよな)
ルカが不安な胸を抱えて図書室で待機していると、不意に扉が開いた。
「……知っていますか、エデルハイン令嬢」
現れたのは、セシリア=フォン=ローゼンベルクだった。
彼女の美貌には、いつもの余裕はなく、張り詰めた緊張感が漂っている。
「今朝早く、国王陛下の病状が公式に発表されました。……余命、半年と」
「えっ……!」
ルカは息を呑んで固まった。
余命宣告。それはつまり、ルシアンが次期国王としての地盤を固めるためのタイムリミットが、たった半年しかないという死の宣告に等しい。
「しかも、この発表のタイミング。これは偶然ではありません。アッシェンバッハ侯爵が、意図的に医療班から情報を漏らさせたのです」
「タイミング……?」
「ええ。先日、ルシアン殿下がベルンハルト伯爵を告発し、失脚させたばかりでしょう。あの一件で殿下に向きかけた同情や期待の票を、一気に『次期国王への焦りと不安』に反転させるために、最も効果的なタイミングで余命を公表したのです」
(タイミングを操作して、世間の印象を真逆に誘導する。これ、『競合他社が自社の不祥事発覚と同じ日に、過去最高の好決算を発表してメディアの印象操作をした』やつだ! 卑劣だけど合法で、しかもめちゃくちゃ効果的な手法……!)
強大な黒幕の、計算し尽くされた冷酷な一手。
だが、アッシェンバッハの真の狙いはそこではなかった。セシリアが、さらに絶望的な事実を口にする。
「それだけではありません。アッシェンバッハは今日、緊急の臨時議会を招集しました。議題は──『国王陛下の余命宣告を受け、王太子ルシアン殿下の摂政能力を審議する』」
摂政能力の審議。
それはつまり、ルシアンが国を統治する能力があるかどうかを、重臣たちが今の状況下で『投票』で決めるということだ。
アッシェンバッハの資金力や脅迫によって買収された重臣たちが多数を占める今の議会で、そんな投票を行えばどうなるか。
ルシアンは間違いなく「無能」の烙印を押され、摂政の座を退かされる。そして空いたその座に、アッシェンバッハ本人が滑り込み、王国の実権を完全に掌握するのだ。
「……グレアム公爵は今、その議会に出席を求められています。でも」
セシリアが、唇を噛んだ。
「もし公爵が議会で『ルシアン殿下を支持する』と発言すれば。アッシェンバッハは、既に用意している『公爵の軍資金横領の不正証拠』をその場で公開し、公爵を失脚させると水面下で脅しています」
ルカの背筋が、ゾワリと凍りついた。
グレアムが動けば──彼自身が不正の罪を被せられ、潰される。
グレアムが沈黙すれば──ルシアンが潰され、王国は終わる。
どちらに転んでも、完全に詰み。
これがグレアムの言っていた「我々が最も嫌がる盤面」の正体だった。
(詰んでる。完全に詰んでる! 最大の取引先と直属の上司の両方から、互いに絶対に譲れない矛盾する要求を同時に突きつけられた、逃げ場のない板挟み炎上案件だ!!)
ルカは勢いよく立ち上がった。
「グレアム閣下は今、どこにいますか」
「議会の前室です。たった一人で、究極の判断を迫られています」
*
議会前室。
重厚な扉の前に、グレアムは一人で立っていた。
表情はいつものように無機質だが、その纏う空気は明らかに追い詰められ、ギリギリの均衡で保たれているのが分かった。
「……閣下」
ルカが声をかけると、グレアムは鋭く振り返った。
「来るなと、言ったはずだ」
低い声。彼がルカを危険に巻き込まないよう、遠ざけたのだと分かる。
「はい、すみません。……でも、一つだけ聞いていいですか」
「なんだ」
グレアムが険しい目を向ける。
「アッシェンバッハ侯爵が用意しているという『公爵の不正の証拠』は……本物ですか?」
グレアムの動きが、ピタリと止まった。
「……偽造だ。巧妙に作られているが、私の与り知らぬものだ」
「じゃあ、大丈夫です」
ルカが即答すると、グレアムは「は?」と、初めて分かりやすく眉間を寄せた。
「何が大丈夫なんだ。偽造であっても、このタイミングで公の場に出されれば、私の政治生命は完全に絶たれる。お前も無事では──」
「偽造なら、後で必ず論理的に崩せます」
ルカは、彼の言葉を真っ向から遮った。
「でも、ルシアン殿下が今日の議会で潰されたら、それはもう絶対に取り返しがつかない。だから──閣下は議会で、迷わずルシアン殿下を支持してください」
社畜の極限の判断。
取り返しのつく後回し可能なリスク(不正の嫌疑)と、取り返しのつかない致命的リスク(王太子の失脚)。どちらを優先すべきかは明白だ。
「お前は……私が議会で何をされるか、本当にわかって言っているのか」
グレアムが、信じられないものを見る目でルカを見下ろした。
「わかっています。失脚するかもしれない。投獄されるかもしれない。でも──」
ルカは少し間を置いて。
真っ直ぐに、彼から視線を逸らさずに言った。
「閣下が、国や軍を裏切って不正を働いたなんて。私は、一ミリも信じませんから」
グレアムが、雷に打たれたように固まった。
それは、彼を安心させるための慰めでも、無責任な励ましでもなかった。
一緒に過ごした時間、彼の不器用な優しさ、雨の夜の告白。その全てを知っているルカが導き出した、ただの事実の表明だった。
打算ゼロ。政治的計算もゼロ。
けれど、そのポンコツで不器用な「全幅の信頼」が。
逃げ場のない盤面に追い詰められていた軍神の、凍りついた心を、一撃で打ち砕いた。
「……」
グレアムは深く息を吸い込み──やがて、ゆっくりと立ち上がった。
その瞳から、迷いが完全に消え去っていた。
「……行ってくる」
「はい」
ルカが力強く頷く。
グレアムは議会の重い扉に向かって歩き出し──そして、取っ手に手をかけたまま、一度だけ振り返った。
「お前は……本当に」
言いかけて、彼は小さく、ひどく柔らかく笑った気がした。
「……いい。待っていろ」
「はい」
グレアムの背中が、議会室の奥へと消えていく。
ルカは一人、静かになった前室に取り残された。
(私は今、社畜として正しいリスク選択をしたのか、それとも、ただの愚かな感情論を押し付けただけなのか、自分でも全然わからない。……でも)
あんなに不器用で、真面目で、部下の死をずっと背負い続けているような人が。
私利私欲で不正を働くなんて、嘘でも信じられない。
それだけは、絶対に本当だ。
氷の公爵は今日、一人の名もなき令嬢の「信じています」という言葉だけをその背に背負って、最大の敵が待つ議会へと足を踏み入れた。




