第34話 まだ、好きだ
議会室へと続く、分厚いオーク材の扉の前。
王国最強の軍神、グレアム=ヴァルトシュタインは、たった一人で静かに立っていた。
目を閉じると、先ほど前室で聞いた、震えるような、けれど真っ直ぐな声が蘇る。
『閣下が不正を働いたなんて。私は、一ミリも信じませんから』
打算も、政治的計算も、見返りすら求めていない、ただの事実の表明。
権力を恐れて遠巻きにしてくる人間か、利益を目当てにすり寄ってくる人間。そんな者たちに囲まれて生きてきたグレアムの人生で、あんなにも無防備に「信じている」と断言されたのは、初めてのことだった。
グレアムは、ゆっくりと目を開けた。
氷のように冷たかった彼の青い瞳の奥に、今は、静かだが決して消えない灼熱の炎が宿っていた。
扉を押し開ける。
円卓の奥で、黒幕であるアッシェンバッハ侯爵が、勝利を確信したような冷ややかな笑みを浮かべて座っている。
グレアムは、一切の表情を崩さず、彼を真っ直ぐに見据えて歩みを進めた。
負けるわけにはいかない。
扉の向こう側で、自分を信じると言ってくれた、あの不器用な令嬢が待っているのだから。
*
議会室の末席。
王太子ルシアンの隣には、淡い金糸の髪を持つ少女──光の聖女リリアナが、静かに控えていた。
本来、この血生臭い政治の場に彼女がいるべきではない。だが、彼女は自らの意志で「ここにいる」と言った。ルシアンは、それを止めなかった。
アッシェンバッハが、悠然と議事を開始する。
ルシアンの摂政能力を問う、実質的な彼への死刑宣告の儀式。
ルシアンは、隣に立つリリアナの温かな存在を感じながら、胸の中で全く別の、ある女性の顔を思い浮かべていた。
真紅の髪。冷たいアメジストの瞳。
いつも傲慢に見えたが、本当は誰よりも重圧に耐え、孤独に戦っていた誇り高い令嬢。自分が愚かにもその尊厳を踏みにじってしまった、元婚約者のセシリアの顔だ。
(……私は、間違えた)
取り返しのつかない過ちを犯した。
だが──間違えた者だけが、正しい道を知っている。
ルシアンは、静かに、だが力強く立ち上がった。
「異議あり」
声は、微塵も震えていなかった。
セシリアへの深い贖罪と、リリアナへの純粋な愛。そして、次期国王としてこの国を守り抜くという義務。バラバラだった彼の中の全ての感情が、今、一本の太い線となって繋がった瞬間だった。
*
議会室の外。人気のない王城の廊下。
第一騎士団長、レオナルト=クロイツは、音もなく迅速に動き回っていた。
彼はこの数時間で、誰にも言わず、三つの事前準備を完璧に完遂していた。
一つ、アッシェンバッハが用意していた「公爵の偽造証拠」の作成者である裏社会の男、クルト=ハイネマンの身柄確保。
二つ、リリアナが妨害を受けずに議会室へ入れるよう、近衛兵の警備網の掌握と調整。
三つ、ルシアンが議会で追及するための、アッシェンバッハの資金洗浄の決定的な記録書類の手配。
全てが終わった。
レオナルトは、廊下の窓から空を見上げた。
鉛色の雲の隙間から、薄日が差している。雨ではない。
だが、彼の耳の奥には、いつかルカが笑って言った「また来たいですね、市場!」という無防備な声が、なぜか鮮明に聞こえた気がした。
(……ここで全てを投げ出して諦めれば、どれほど楽になるだろうか)
わかっている。
グレアムが「ここにいろ」と言った瞬間の、ルカの顔を、レオナルトは間近で見ていた。
あの琥珀色の瞳は──もう完全に、誰かのものだ。自分の入り込む隙など、一ミリもない。
それでも。
胸の奥で、まだ何かが熱く燃えている。
消せない。どうしても、消したくない。
レオナルトは踵を返し、議会の前室──ルカが待っているであろう部屋の方へと歩みを進めた。
重い扉の前に立つ。
開けない。
ただ、冷たい木製の扉にそっと手を触れて、静かに目を閉じた。
(貴女が、あの人を『信じています』と言ったから。あの不器用な男が覚悟を決め、今日という反撃の日が始まった。……貴女は、自分がどれほど大きなものを動かしたのか、一生知らないのだろうけど)
(それで、いい。……本当に、それでいいのか?)
自分でも答えの出ない痛切な問いを抱えたまま──レオナルトは、ゆっくりと扉から手を離した。
踵を返す。
(貴女の幸せを願うほど、貴女は私から離れていく……ははっ、恋というものは、難しいものだな)
軍靴の音を響かせ、廊下を歩き始める。
その歩みは、深く迷い、傷つきながらも、それでも前だけを向いていた。
*
議会室の中では、アッシェンバッハの完璧な盤面が、音を立てて崩壊し始めていた。
「侯爵。貴殿が提出した手続きには、明確な法的な瑕疵がある」
ルシアンが、レオナルトの用意した書類を元に、理路整然と手続きの穴を突く。
アッシェンバッハの余裕の笑みが、初めてピクリと引き攣った。
すかさず、グレアムが立ち上がり、決定的な一撃を放った。
「侯爵が私を陥れようとしていた偽造証拠の作成者、クルト=ハイネマンの身柄は、既に我が騎士団が確保した」
会場の空気が、一瞬にして凍りつく。
アッシェンバッハの顔から、完全に血の気が引いた。
グレアムは、いつもの氷のような冷酷さではなく、内に秘めた静かな熱を帯びた声で続けた。
「私への偽造証拠の作成、議会手続きの不正操作、そして北部領地からの国庫横領への関与。……これだけの証拠が揃えば、貴殿を反逆罪に問うには十分かと思うが」
とどめとばかりに、リリアナが一歩前に出た。
「申し訳ございません。国王陛下からの直筆の書状を、お届けに参りました」
それは、リリアナが「聖女」としての特権を使って国王の病室に赴き、直接書かせてきたものだった。
ルシアンへの全面的な支持と、アッシェンバッハへの即時調査を命じる、絶対的な効力を持つ書状。
買収されていた重臣たちが、我先にとアッシェンバッハから距離を置き、立ち上がる。
アッシェンバッハは、震える足で後ずさり──ついに、力なく椅子へと沈み込んだ。
強大な黒幕の、完璧な計算。
それが、たった一人の名もなき令嬢の「信じています」という言葉から始まった連鎖によって──完全に、崩れ去った瞬間だった。
*
全てが終わった後。
議会室から出てきたグレアムとルシアンを、廊下でレオナルトが待っていた。
グレアムは、歩み寄り、レオナルトの前に立つと。
何も言わず、ただ深く、彼に向かって頭を下げた。
「……ありがとう」
王国最強の軍神が、他人に頭を下げる。
レオナルトは、少しだけ目を見張り──やがて、静かに微笑んだ。
「お役に立てて、光栄です」
その笑顔は、いつもの完璧な『仮面』ではなかった。
本物の感情と、仮面の矜持が半分ずつ混ざった、今のレオナルト=クロイツという青年の、ありのままの顔だった。
グレアムが、前室の方──ルカが待っている場所へと、足早に歩いていく。
レオナルトは、その大きく頼もしい背中を、ただ静かに見送った。
胸の奥で、何かが熱く燃えながら、形を変えていくのを感じる。
(……好きだ)
(まだ、好きだ)
到底、諦めきれそうになかった。
だが──グレアムが前室の扉を開け、彼女の元へ帰還するその瞬間を、レオナルトは見なかった。
見られなかったのだ。
踵を返して、一人で廊下を歩く。
窓から外を見る。
王都の街並みが、いつもと同じ顔をして広がっている。
何も変わっていないように見える。でも、今日で全部が、決定的に変わってしまった。
(ルカ嬢の笑顔を増やすのが私の役目だというのに、彼女が公爵殿へ向けるその笑顔を、ほんの少しだけでも、分けてもらいたい……そう思ってしまうのは、私が未熟だからだろうか)
レオナルトは、誰もいない回廊で、小さく笑った。
泣きそうな、ひどく不格好で、けれど本物の笑顔で。
──名もなき令嬢は、自分が世界を変えたことなど、何も知らない。
でも今日、彼女の不器用な「信じています」という言葉が、王国の歴史を動かした。
そして、一人の騎士団長の諦めきれない切ない恋を、また少しだけ、深くしたのだった。




