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ローストビーフにむせただけで氷の公爵に溺愛されました。〜攻略本に載っていない社畜令嬢ですが、最強の二人に独占されて平穏な隠居生活が崩壊した件〜  作者: 成瀬 一
シナリオが、狂い始める

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第32話 いた。それでいい

 翌朝。


 ルカ=フォン=エデルハインは、公爵邸のフカフカすぎる客間のベッドで目を覚ました。


 昨夜は雨が酷く、グレアムの指示で帰宅を見合わせたのだ。


 そして──あの書斎で、彼が十二年間背負い続けてきた戦争の傷跡と、重い後悔の記憶を聞いた。


 身支度を整え、朝食のダイニングへ向かうと、既に長いテーブルの長座にグレアムが座っていた。


「おはようございます、閣下」


「……ああ」


 いつもの無表情、いつもの低い声。


 でも──昨夜、あんなにも深く静かな時間を共有した後の彼は、どこか少しだけ違うように見えた。


(……なんか、閣下が纏ってる空気が、いつもより軽い気がする。私の気のせいかな。気のせいじゃないといいな)


 ルカが席につくと、グレアムは無言で、ルカの前の皿に焼き菓子を一つコロンと置いた。


 以前、彼が朝早くに厨房で作ったという、あの素朴なクッキーだ。


「……食え」


「ありがとうございます」


 それだけ。


 気の利いた朝の挨拶も、昨夜の出来事への言及もない。でも、その不器用で真っ直ぐな気遣いだけで、ルカの胸の奥は十分に温かくなった。


   *


 数日後。王城内。


 ルカが回廊を歩いていると、すれ違いざまにレオナルトが身を寄せ、耳元でふいに囁いた。


「ルカ嬢。今日、動きがありますよ」


 甘い声。しかしその目は、鋭く研ぎ澄まされていた。


(動きがある、か。……前世で同僚に『本日15時より、社運を賭けた重大なコンペがあります。残業確定です』って言われた時みたい)


 ルカの社畜センサーが、即座に緊張状態へと切り替わる。


 その日の午後、王城の議会室前。


 重臣たちが集まるその場で、王太子ルシアンが動いた。


 彼は、黒幕であるアッシェンバッハ侯爵の有力な手下──ベルンハルト伯爵を、公の場で告発したのだ。


「ベルンハルト伯爵。貴殿の領地を通る、北部からの不正な資金流入の証拠だ。……国庫横領の罪は重いぞ」


 ルシアンが、分厚い証拠書類の束をテーブルに叩きつける。


 遠巻きに見守っていたルカは、ハッと息を呑んだ。


 以前、議会前室で「なぜ誰も私の話を聞かない!」とヒステリックに叫んでいた、あの哀れな王太子の姿はどこにもない。


 声は落ち着き、入念に準備され、確固たる証拠に基づいた、次期国王としての威厳に満ちた告発だった。


 ベルンハルト伯爵が血相を変えて弁明しようとするが、ルシアンは冷ややかにそれを一蹴した。


 動かぬ証拠を前に、伯爵はその場で拘束され、近衛兵に連行されていった。


 騒然とする議会室前。


 ルシアンは、その場でゆっくりと視線を巡らせ──群衆の奥に立つグレアムを真っ直ぐに見た。


 グレアムは、無言のまま、小さく一度だけ頷いた。


 たったそれだけ。


 でも──かつては互いに牽制し合っていた二人の間に、初めて「戦友」に近い、強固な連帯の空気が流れた瞬間だった。


(あ、これ知ってる。ドラマで見たことあるやつだ。『長年いがみ合っていた営業部と開発部が、理不尽な外資系企業の買収(共通の敵)によって、初めて手を組んで反撃に出た』っていう、あのアツい瞬間!)


 ルカは内心で拍手喝采を送った。


 小さな、しかし確実な勝利。アッシェンバッハの陣営に、明確な第一撃が決まったのだ。


   *


 全てが終わった後、回廊の隅で。


 いつものように、レオナルトがルカの隣にふらりと現れた。


「よかったですね。見事な手際でした」


 いつもの完璧な笑顔。でも、今日の彼の翠の瞳は、少しだけ本物の安堵の色を帯びていた。


「騎士団長殿も、裏で証拠集めとか、すごく動いていましたよね」


 ルカが言うと、レオナルトは「さあ、何のことですか」と、はぐらかすように笑った。


 あの夜会と、全く同じやり取り。


 だからルカも、あの夜と同じように返した。


「全部見えてましたよ」


 すると。


 レオナルトの笑顔が、すっと消えた。


「……そうですか」


 あの夜は、ここで「貴女は本当によく見ていますね」と笑って流したはずだ。


 だが今日は、その後に何も言葉が続かなかった。


 ただ、少しだけ悲しげな、けれどひどく優しい目で、じっとルカを見つめるだけ。


 その沈黙の重さと熱に、ルカは心臓が跳ねるのを感じた。


(この人は……どんどん、私に対して仮面を外し、正直になってきている。それが、嬉しいような、なんだか少しだけ、怖いような)


 彼が何を飲み込んでいるのか。


 鈍感なルカにも、その輪郭が少しだけ見えそうになって──慌てて視線を逸らした。


   *


 その夜。


 公爵邸の書斎で、グレアムがルカに冷徹な事実を告げた。


「ベルンハルトは、所詮末端のトカゲの尻尾だ。アッシェンバッハは既に、これを切り捨てて次の手を打っているはず」


「……どんな手ですか?」


「わからない。あいつは感情では動かない。必ず、我々が最も嫌がる盤面を用意してくる」


 グレアムは、鋭い視線でルカを真っ直ぐに射抜いた。


「だから──お前も、気をつけろ」


 ルカは真剣な顔で「はい、肝に銘じます」と深く頷いた。


 すると、グレアムが少しだけ口元を緩め、ぽつりと言った。


「今日は……よくやった」


「えっ? 私はただ見ていただけですよ。何もしていません」


「……いた。それでいい」


 グレアムが、短く、だが絶対的な肯定を含んだ声で答えた。


 ルカは、息を呑んで固まった。


(いた。それでいいって……この人、こういう心臓に悪い台詞を、息をするようにさらっと言う! 破壊力が高すぎる!)


 一気に顔が熱くなるのを感じ、ルカの社畜フィルターが非常用電源で強引に起動した。


(落ち着け! これは『お前が同伴者として現場にいてくれたことで、こちらの派閥の結束力が高まった』という意味の、上司としての評価発言に決まってる! こんな状況でお花畑なこと考えてられないのに!)


 必死に自分に言い聞かせ、ルカは「恐縮です」と真っ赤な顔で一礼し、足早に書斎を後にした。


 しかし。


 その日の夜、ベッドに入っても。


 ──いた。それでいい。


 不器用な男がくれたそのたった七文字が、なぜか一晩中、頭の中で甘く反響して離れなかった。

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