摩天楼(九)
そのうち、腹が立ってくる。
なんで言わないんだ。
撃たれたなら、撃たれたと言えばいい。痛いなら痛いと言えばいい。俺は医者じゃないから何もできないが、それでも言えばいい。言われれば、こっちだって考えることがあった。
先に昇降機を探したかもしれない。
もっと早く走ったかもしれない。
無理をさせなかったかもしれない。
一度も遅れなかった。
一度も呻かなかった。
あの走り方も、壁を飛び越えた身のこなしも、ネジを投げる腕の振りも、全部いつも通りだった。俺はそれを見ていた。ずっと隣で見ていて、何ひとつ気づかなかった。
気づかせなかったんだ、あいつが。
それが、いちばん腹が立つ。
俺は立ち上がって、籠の壁を蹴る。
鉄が鳴る。足が痛い。何も変わらない。
「相談するって言っただろうが!」
声が縦穴に反響して、上と下から自分に返ってくる。
「同じだけ損するって言っただろうが!」
返ってくる。
「揃ってねえんだよ、全然!」
返ってくる。
誰も答えない。
答えるやつがいない。
俺は壁にもたれて、ずるずると座り込む。
十分だ、とあいつは言った。
十分。
十分ってのは、足りたってことだ。何かが欲しくて、それが手に入って、もういい、と思ったときに使う言葉だ。
じゃあ、あいつは何が欲しかったんだ。
その前に、妙なことを聞かれた。
俺は、あんたにとって、ほかの連中とは違って、ちゃんと相棒だったか。
俺は、当たり前だろうが、と答えた。
そんなもん聞くまでもないだろう、という調子で答えた。撃たれた脇腹のほうが気になっていたし、正直、質問の意味もよく分からなかった。何をいまさら、と思った。
そして、あいつは言った。
なら、もう十分だ。
俺は床に座り込んだまま、それを順番に並べてみる。
聞いて。
答えて。
十分だ。
——それが、欲しかったものか?
そんなことが?
俺はあいつに、飯をおごったことがある。何度もある。金がないときに黙って払ってやったこともある。凍える夜に毛布を分けたこともある。
そういうものだと思っていた。
そういうものを積み上げていけば、伝わるものだと思っていた。
たった一言だったのか。
しかも、あいつは自分から聞いた。
撃たれて、壁に手をついて、あと何分持つかも分からない体で、自分から聞いた。
十年だ。
十年つきあって、俺はそれを一度も言っていない。
言えばよかった。いつでもよかった。市場の帰りでも、湯に浸かりながらでも、寝る前の暗い部屋でもよかった。
一言だ。
俺は取引の話しかできない男だ。
自分でそう言った。人と人がどうつながっているかを、それでしか測れないと。得意げに言った。
だったら、相手が何を欲しがっているかは、いちばん最初に聞くことじゃないか。
商売の初歩だ。
それを俺は、十年、一度もやらなかった。
そして最後に、向こうに言わせてしまった。
壁が流れている。
石。石。継ぎ目。石。
そのうち、腹が立つのにも疲れてくる。
冷静に考えれば、と俺は考える。
冷静に考えれば、あれ以外になかった。
レバーは籠の外にある。誰かが下に残る。
俺が残ってあいつが乗れば、上に着くのは、どのみち持たない男が一人だ。無事なほうは、撃ってくるものの真ん中に残る。
成立する組み合わせは、ひとつしかなかった。
無事なほうが乗って、撃たれたほうが残る。
あいつは、たぶん、それを一瞬で理解した。
俺がレバーを引いたり離したりして、籠が上がったり下がったりするのを見て、ああそうか、と間の抜けた顔をしているあいだに、あいつは全部計算し終えていた。
そして襟を掴んだ。
説明している時間がなかったんだ。
いや。
説明したら、俺が反対すると分かっていたんだ。
俺なら反対する。
反対して、粘って、別の手を探そうと言って、そのあいだに二人とも撃たれる。
俺はそういう男だ。あいつはそれを知っている。十年、知っている。
だから、相談しなかった。
相談しないことが、いちばん正しい相談だった。
俺は天井を見る。
縦穴の暗いところに、鎖が消えていっている。
「……ずるいだろ」
声が小さくて、今度は反響しない。
ヴィクは、最後にこう言った。
たまには、俺が決める。
あれは、怒っていたのだと思っていた。
俺が相談しろとうるさく言うから、うんざりして、当てつけに言ったのだと。
だが、いま思い返すと、違う気がする。
あいつの声には、当てつけの色がなかった。
もっと静かだった。
たまには、俺が決める。
——たまには?
俺は顔を上げる。
十年だ。
十年つきあって、あいつが何かを決めたことが、一度でもあったか。
飯は俺が選んだ。行き先も俺が決めた。市場に行くのも、狭い階の部屋に入るのも、上を目指すのも、全部俺が言い出して、あいつが「いいんじゃないか」と言った。
いいんじゃないか。
あいつはいつも、それだった。
一度だけ、右だ、と言ったことがある。
階段が二本あったときだ。俺がごちゃごちゃ文句をつけたら、あいつは肩をすくめて、好きにしろ、と言った。
それきりだ。
引っ込めてしまった。
俺は膝に顔を埋める。
たまには、俺が決める。
あれは当てつけじゃなかった。
あれは、あいつが初めて口にした、自分の希望だった。
そう思ったら、急に、ちゃんと分かった。
あいつは損をしたんじゃない。
あいつは、決めたんだ。
俺が要求したのは、同じだけ損することだった。あいつが実際にやったのは、それとは違う。
あいつは、自分で選んだ。
たぶん、あいつにとっては、それがいちばん大事なことだったんだ。
そんなことがあるか、とも思う。
だが、あの声を思い出すと、そうとしか思えない。
たまには、俺が決める。
あれは、うれしそうな声だった。
俺はそれを、勝手な無茶だと思った。約束破りだと思った。籠の中から怒鳴った。壁を蹴った。
馬鹿野郎は、俺だ。
「ありがとう」
言ってから、遅すぎるな、と思う。
もう聞こえない。ずっと下だ。どれだけ下かも分からない。
それでも、もう一度だけ言う。
「ありがとう、ヴィク」
縦穴に、少しだけ反響する。
そこから先は、うまく整理がつかない。
腹が立つ気持ちは、消えていない。消えたわけじゃない。ありがとうと言ったからといって、なんで言わなかったんだという気持ちがなくなるわけじゃない。両方ある。同時にある。
俺はそれを、順番に並べ直そうとする。
こう思って、それからこう思って、だから最後にこう思う——というふうに、きれいに並べたい。
並ばせることはできない。
そのうち、上のほうが明るくなってくる。
俺は立ち上がる。
整理は、まだついていない。
だが、時間が終わったらしい。




