↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
10/24

摩天楼(十)

籠が止まる。


扉はない。ただ、正面の壁がなくなっている。


俺は籠を出る。


そこは、教会だ。


天井が高い。首を痛めるほど高い。


柱が上へ伸びて、途中で枝分かれして、頭上でゆるやかな弧を描いて交わっている。石だ。継ぎ目の見えない、灰色の石。その弧が奥へ奥へと繰り返されて、いくつも重なって、いちばん奥は影になって見えない。


床にも石が敷いてある。


一歩踏み出す。


音が響いた。


思っていたより、ずっと長く響く。


靴の音が壁に当たって、天井に当たって、四方から遅れて返ってくる。ひとつの足音が、いくつにも分かれて戻ってくる。自分のほかに何人も歩いているみたいだ。


俺は足を止める。


音が止むまで、しばらくかかる。


匂いがする。


石の匂いと、冷えた空気の匂いと、埃の匂い。長いあいだ誰も窓を開けていない部屋の匂いだ。


もっとも、ここに開く窓はない。


長椅子が並んでいる。


前を向いて、整然と、何十列も。木でできていて、背もたれの上のところが、手で触られすぎて丸く光っている。


誰も座っていない。


俺は真ん中の通路を、ゆっくり歩いていく。


急ぐ理由がない。


そのことに、歩きながら気づく。


急ぐ理由がない。追ってくるものがない。撃ってくるものがない。


この階に来てから、まだ一度も身を隠していない。


途中の長椅子に、腰を下ろしてみる。


座った瞬間に、膝が笑っているのが分かった。


ずっと走っていたのだ。市場からこっち、ずっと。湯に浸かって一晩眠ったあの階から数えても、ずいぶん長いあいだ、気を抜けていない。


俺は背もたれに体を預ける。


静かだ。


そして、光がある。


正面の壁一面に、色のついたガラスが嵌まっている。


赤。青。深い緑。黄色。それが黒い鉛の線で細かく区切られて、何かの絵になっている。人の形のようにも見えるし、そうでないようにも見える。両手を広げているようにも見えるし、ただの模様が偶然そう見えているだけのようでもある。


その向こうから、光が来ている。


光の筋が、斜めに落ちている。


筋の中で、埃が舞っている。


上がったり下がったり、ゆっくり回ったりしながら、金色に光って、筋の外へ出ると消える。消えるわけではない。見えなくなるだけだ。


床に色が落ちている。長椅子の背にも、柱にも、俺の手の甲にも、赤や青の斑が落ちて、静かに揺れている。


俺はしばらく、それを見ている。


きれいだな、と思う。


そして、そう思った自分に少し驚く。


こんなときに、そんなことを思うのか。


やがて俺は立ち上がって、そのガラスのところまで歩いていく。


近くで見ると、ずいぶん厚い。


指を伸ばして、触れる。


冷たい。


顔を近づける。


見えない。


色は見える。光も来る。だが、その向こうに何があるのかは、まったく見えない。


厚くて、濁っていて、ただ色がついているだけだ。


目を横にずらす。透明なところを探す。ない。どこにもない。鉛の線の際まで、隅から隅まで、全部が色で埋まっている。


一階の窓を思い出す。


乳白色の四角。窓の形をした壁。


あれと同じだ。


同じことを、こんなに手をかけてやっている。


何十年か、何百年か知らないが、誰かがこれを作ったはずだ。ガラスを切って、色をつけて、鉛で留めて、この高さまで運んで、嵌めた。


外を見せないために。


俺は少しのあいだ、そこに立っている。


赤い光が、俺の手の甲で揺れている。


奥に階段がある。


俺はそれを上る。


◇


そこから先のことを、俺はうまく順番に思い出せない。


階段を上った。それは確かだ。だが何段だったのか、どれくらいかかったのかが分からない。振り返ったときに、階段があったのかどうかも分からない。


着いた場所は、明るかった。


広い。だが、何もない。


天井は低い。人工の白い光が、むらなく全体に行き渡っている。床は薄い灰色の板。歩いても音がしない。


壁際に棚が並んでいる。空だ。


真ん中に台がある。何かを置くための台だと思うが、何も置いていない。


隅に、案内板のようなものが立っている。近づいてみる。文字が書いてあるが、読めない。読めないというより、読もうとすると、そこに文字があったかどうかが分からなくなる。


俺はそれを、それ以上見ない。


天井の低い、明るい、何もない場所を、俺は歩いていく。


隠し戸棚を探そうとは思わない。棚を叩いてみようとも思わない。値打ちのありそうなものを探そうとも思わない。


そういうことを考えることができない。うまく頭が働かない。


正面に、扉がある。


近づくと、勝手に開いた。


音もなく、左右に割れて、壁の中へ収まっていく。


誰も触っていない。


俺は、そのことを不思議に思わない。


風が入ってきた。


外だ。


◇


俺は、そこに立っている。


足元は平らな屋根だ。低い縁が四角く囲っていて、その外に、何もない。


いや。


雲がある。


一面の雲だ。


見渡すかぎり、白と灰色の起伏が続いている。近いところは細かく渦を巻いていて、遠くなるほど平らになって、地平線のところで空と溶けて区別がつかなくなる。


その上に、光がある。


夕陽のような色だ。


低いところから、横向きに射している。雲の峰が金色に光って、谷が紫に沈んでいる。空は上に行くほど深くなって、色の名前が思いつかないところまで濃くなっていく。


風がある。冷たい。


音は、風の音だけだ。


俺は縁のところまで歩いていって、そこから、それを見る。


何もない。


建物がない。人がいない。金もない。宝もない。食べ物もない。誰かが描いた絵もない。


答えらしきものが、どこにもない。


ここに来れば何かがあると思っていたわけではない。


俺は見に来ただけだ。上に何があるのか見たかった。それだけだ。意味が分かるとは思っていなかったし、分からなくてもいいと言った。何度も言った。


だから、これは、達成だ。


俺は見た。


上に何があるのかを、この目で見た。


答えは、これだった。


ちゃんと、果たされている。


しばらく、そこに立っている。


風が吹いている。雲が動いている。金色のところが少しずつ位置を変えて、紫のところが広がってくる。


きれいだ。


たぶん、これは、俺がいままで見たどんなものよりきれいだ。


そこまで思って。


俺は、ヴィクがこれを見ていないことに気づく。


それだけだ。


腹が立つとか、悲しいとか、そういうものではない。もっと単純だ。


こんなにきれいなものを、あいつは見ていない。


俺はそれを話してやることもできない。下りていって、こんなのがあったぞ、と言ってやることができない。


市場のおばさんにも言えない。土産話をすると言ったのに。


俺は、ここに何があるかを知っている、たった一人の人間になった。


そして、それを渡す相手がいない。


値がつかない、と言ったのは俺だ。効率がいいとまで言った。


分かっていなかった。


渡す相手がいないものは、持っていても仕方がない。


そこで、何かが終わる。


風が吹いている。


雲が動いている。


縁は低い。膝より少し上くらいだ。またぐのに苦労はしない。


雲は近い。手を伸ばせば届きそうに見えるが、届かない。それは分かる。分かるが、確かめたい気もする。


下りる道はない。


落ちても、平気な気がする。


なぜそう思うのかは分からない。根拠はどこにもない。この高さから落ちればどうなるかくらい、子供でも分かる。


それでも、そう思える。


そう思えるというより、知っている、に近い。


僕は縁をまたぐ。


冷たい。


そのまま、前に体を倒す。


白いものが、下から上がってくる。


音が消える。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。