摩天楼(十)
籠が止まる。
扉はない。ただ、正面の壁がなくなっている。
俺は籠を出る。
そこは、教会だ。
天井が高い。首を痛めるほど高い。
柱が上へ伸びて、途中で枝分かれして、頭上でゆるやかな弧を描いて交わっている。石だ。継ぎ目の見えない、灰色の石。その弧が奥へ奥へと繰り返されて、いくつも重なって、いちばん奥は影になって見えない。
床にも石が敷いてある。
一歩踏み出す。
音が響いた。
思っていたより、ずっと長く響く。
靴の音が壁に当たって、天井に当たって、四方から遅れて返ってくる。ひとつの足音が、いくつにも分かれて戻ってくる。自分のほかに何人も歩いているみたいだ。
俺は足を止める。
音が止むまで、しばらくかかる。
匂いがする。
石の匂いと、冷えた空気の匂いと、埃の匂い。長いあいだ誰も窓を開けていない部屋の匂いだ。
もっとも、ここに開く窓はない。
長椅子が並んでいる。
前を向いて、整然と、何十列も。木でできていて、背もたれの上のところが、手で触られすぎて丸く光っている。
誰も座っていない。
俺は真ん中の通路を、ゆっくり歩いていく。
急ぐ理由がない。
そのことに、歩きながら気づく。
急ぐ理由がない。追ってくるものがない。撃ってくるものがない。
この階に来てから、まだ一度も身を隠していない。
途中の長椅子に、腰を下ろしてみる。
座った瞬間に、膝が笑っているのが分かった。
ずっと走っていたのだ。市場からこっち、ずっと。湯に浸かって一晩眠ったあの階から数えても、ずいぶん長いあいだ、気を抜けていない。
俺は背もたれに体を預ける。
静かだ。
そして、光がある。
正面の壁一面に、色のついたガラスが嵌まっている。
赤。青。深い緑。黄色。それが黒い鉛の線で細かく区切られて、何かの絵になっている。人の形のようにも見えるし、そうでないようにも見える。両手を広げているようにも見えるし、ただの模様が偶然そう見えているだけのようでもある。
その向こうから、光が来ている。
光の筋が、斜めに落ちている。
筋の中で、埃が舞っている。
上がったり下がったり、ゆっくり回ったりしながら、金色に光って、筋の外へ出ると消える。消えるわけではない。見えなくなるだけだ。
床に色が落ちている。長椅子の背にも、柱にも、俺の手の甲にも、赤や青の斑が落ちて、静かに揺れている。
俺はしばらく、それを見ている。
きれいだな、と思う。
そして、そう思った自分に少し驚く。
こんなときに、そんなことを思うのか。
やがて俺は立ち上がって、そのガラスのところまで歩いていく。
近くで見ると、ずいぶん厚い。
指を伸ばして、触れる。
冷たい。
顔を近づける。
見えない。
色は見える。光も来る。だが、その向こうに何があるのかは、まったく見えない。
厚くて、濁っていて、ただ色がついているだけだ。
目を横にずらす。透明なところを探す。ない。どこにもない。鉛の線の際まで、隅から隅まで、全部が色で埋まっている。
一階の窓を思い出す。
乳白色の四角。窓の形をした壁。
あれと同じだ。
同じことを、こんなに手をかけてやっている。
何十年か、何百年か知らないが、誰かがこれを作ったはずだ。ガラスを切って、色をつけて、鉛で留めて、この高さまで運んで、嵌めた。
外を見せないために。
俺は少しのあいだ、そこに立っている。
赤い光が、俺の手の甲で揺れている。
奥に階段がある。
俺はそれを上る。
◇
そこから先のことを、俺はうまく順番に思い出せない。
階段を上った。それは確かだ。だが何段だったのか、どれくらいかかったのかが分からない。振り返ったときに、階段があったのかどうかも分からない。
着いた場所は、明るかった。
広い。だが、何もない。
天井は低い。人工の白い光が、むらなく全体に行き渡っている。床は薄い灰色の板。歩いても音がしない。
壁際に棚が並んでいる。空だ。
真ん中に台がある。何かを置くための台だと思うが、何も置いていない。
隅に、案内板のようなものが立っている。近づいてみる。文字が書いてあるが、読めない。読めないというより、読もうとすると、そこに文字があったかどうかが分からなくなる。
俺はそれを、それ以上見ない。
天井の低い、明るい、何もない場所を、俺は歩いていく。
隠し戸棚を探そうとは思わない。棚を叩いてみようとも思わない。値打ちのありそうなものを探そうとも思わない。
そういうことを考えることができない。うまく頭が働かない。
正面に、扉がある。
近づくと、勝手に開いた。
音もなく、左右に割れて、壁の中へ収まっていく。
誰も触っていない。
俺は、そのことを不思議に思わない。
風が入ってきた。
外だ。
◇
俺は、そこに立っている。
足元は平らな屋根だ。低い縁が四角く囲っていて、その外に、何もない。
いや。
雲がある。
一面の雲だ。
見渡すかぎり、白と灰色の起伏が続いている。近いところは細かく渦を巻いていて、遠くなるほど平らになって、地平線のところで空と溶けて区別がつかなくなる。
その上に、光がある。
夕陽のような色だ。
低いところから、横向きに射している。雲の峰が金色に光って、谷が紫に沈んでいる。空は上に行くほど深くなって、色の名前が思いつかないところまで濃くなっていく。
風がある。冷たい。
音は、風の音だけだ。
俺は縁のところまで歩いていって、そこから、それを見る。
何もない。
建物がない。人がいない。金もない。宝もない。食べ物もない。誰かが描いた絵もない。
答えらしきものが、どこにもない。
ここに来れば何かがあると思っていたわけではない。
俺は見に来ただけだ。上に何があるのか見たかった。それだけだ。意味が分かるとは思っていなかったし、分からなくてもいいと言った。何度も言った。
だから、これは、達成だ。
俺は見た。
上に何があるのかを、この目で見た。
答えは、これだった。
ちゃんと、果たされている。
しばらく、そこに立っている。
風が吹いている。雲が動いている。金色のところが少しずつ位置を変えて、紫のところが広がってくる。
きれいだ。
たぶん、これは、俺がいままで見たどんなものよりきれいだ。
そこまで思って。
俺は、ヴィクがこれを見ていないことに気づく。
それだけだ。
腹が立つとか、悲しいとか、そういうものではない。もっと単純だ。
こんなにきれいなものを、あいつは見ていない。
俺はそれを話してやることもできない。下りていって、こんなのがあったぞ、と言ってやることができない。
市場のおばさんにも言えない。土産話をすると言ったのに。
俺は、ここに何があるかを知っている、たった一人の人間になった。
そして、それを渡す相手がいない。
値がつかない、と言ったのは俺だ。効率がいいとまで言った。
分かっていなかった。
渡す相手がいないものは、持っていても仕方がない。
そこで、何かが終わる。
風が吹いている。
雲が動いている。
縁は低い。膝より少し上くらいだ。またぐのに苦労はしない。
雲は近い。手を伸ばせば届きそうに見えるが、届かない。それは分かる。分かるが、確かめたい気もする。
下りる道はない。
落ちても、平気な気がする。
なぜそう思うのかは分からない。根拠はどこにもない。この高さから落ちればどうなるかくらい、子供でも分かる。
それでも、そう思える。
そう思えるというより、知っている、に近い。
僕は縁をまたぐ。
冷たい。
そのまま、前に体を倒す。
白いものが、下から上がってくる。
音が消える。




