摩天楼(八)
足が浮く。
背中から鉄板に落ちる。肘を打つ。息が飛ぶ。起き上がろうとしたときには、ヴィクはもう籠の外にいて、レバーに両手をかけている。
「おい——」
がこん、と鎖が張る。
床が持ち上がる。
俺は籠の縁に飛びつく。
もう自分の背丈より高い。飛び降りれば足をやる。やらなかったとしても、この籠にもう一度乗る方法がない。
「止めろ! ヴィク!」
「止めたら落ちる」
「じゃあ下ろせ!」
「下ろしても、もう上がれん」
そこで、俺はあいつの左脇腹を見る。
ジャケットが濡れている。
黒い。灯りが黄色いから黒く見えるだけで、本当は違う色なんだろう。布が肌に貼りついて、そこだけ形が変わっている。
いつからだ。
木箱のときか。仕切り壁を越えたときか。それとも、いちばん最初の一斉射か。
一度も、遅れなかった。
一度も呻きすら漏らさなかった。
「お前、それ」
「持たん」
ヴィクはレバーを握ったまま、こっちを見上げもしない。
「どのみち上まで、持たん」
俺は何か言おうとする。
言おうとしたはずだ。何か、うまいことを。取引の話でも、値打ちの話でも、いつもの軽口でもいい。俺は喋る男だ。喋ることでこっちの調子を作るのが俺の役目だ。十年、ずっとそうしてきた。
だが何も出てこない。
一言も出てこない。
「それに」
あいつは口の端を、少しだけ動かす。
「一つ、聞いていいか」
「なんだよ」
「俺は、あんたにとって」
平たい音が、また鳴った。
あいつは構わずに続ける。
「ほかの連中とは違って、ちゃんと相棒だったか」
何を言ってるんだ、こいつは。
「当たり前だろ」
俺は言う。
「当たり前だろうが、そんなもん」
ヴィクは、少しだけ頷く。
「そうか」
「なら、もう十分だ」
「十分って、何がだよ」
答えはない。
「たまには、俺が決める」
俺は下を見る。
ヴィクが立っている。レバーを両手で握って、体重をかけて、足を踏ん張って。こっちを見上げてもいない。手元を見ている。ちゃんと押さえられているかを、確かめている。
その姿勢は、なんというか。
ひどく、仕事に見える。
「ヴィク!」
俺は叫ぶ。
あいつは顔を上げない。
「おい! こっち見ろよ!」
見ない。
平たい音が、また鳴った。
籠はもう、俺の背丈の三倍ほどの高さまで上がっている。下の光景が、四角く切り取られて、少しずつ小さくなっていく。
その四角の中で、ヴィクはレバーを握っている。
握っている。
握っている。
やがて、天井の穴の縁が視界に入ってきて、下が見えなくなる。
鉄と石の匂いのする、狭い縦穴の中に、俺は入っていく。
音が、遠くなる。
平たい音も、鎖の軋みも、自分の呼吸も、全部が遠くなる。
そして、静かになる。
上がっている。
それは分かる。足の裏に、ずっと押し上げられる感じがある。鎖がときどき軋む。壁の石が、目の前を下へ流れていく。
それ以外に、何もない。
俺はまだ、籠の縁を掴んでいる。
指を開こうとする。開かない。手が言うことをきかない。鉄の縁を握ったまま、腕ごと固まっている。
しばらくかかって、片方ずつ剥がす。
指の内側に、鉄の跡が白く残っている。
籠の中を見る。
広い。
人が四、五人は乗れる。ヴィクと二人で乗ったって、まだ三人ぶん余る。
俺は一人だ。
床の鉄板には、埃が積もっている。
俺が転がったところだけ、それが払われて、下の鉄が見えている。肘をついた跡も、膝をついた跡も、そのまま残っている。
つまり、しばらく誰も乗っていない。
しばらく、というのがどれくらいなのかは、分からない。
まあいい。
そこまで考えて、俺は自分がおかしなことをしたのに気づく。
まあいい、と思ったのだ。
いつもの癖で。考えても仕方のないことは考えない、という、俺の数少ない特技で。
まあ、よくない。
しばらく、何も考えられない。
これは正確な言い方じゃない。考えてはいた。ただ、考えたことが形にならなかった。頭の中でいくつかの言葉が浮かんで、途中で崩れて、次のが浮かんで、また崩れる。
ヴィク。
脇腹。
レバー。
十分だ。
そういう単語が、順番も脈絡もなく出てきては消える。それを、たぶん、かなり長いあいだ繰り返している。
壁が流れている。
石。石。継ぎ目。石。
そのうち、俺は妙なことに気づく。
まだ着かない。
考えてみれば、おかしい。
この建物の階と階のあいだは、階段で三十段か四十段だ。二十秒も上れば次の階に着く。そういうものだった。ずっとそうだった。
いま、どれだけ経った。
分からない。時計がない。心臓の音も当てにならない。ただ、指の跡が消えるくらいには経っている。手のひらの白いところは、もう元の色に戻っている。
籠は上がり続けている。
つまり、こういうことだ。
この昇降機は、とんでもなく高いところまで行く。
そして、その全部のあいだ、あいつはレバーを押さえていなければならない。
俺は床に座り込む。
あの一発だ。
俺が撃った一発。
構えて、狙いもつかないまま、それでも撃った、あの一発だ。あれで音が出た。音のほうへ、あいつらは撃ち込んできた。木箱が裂けて、破片が首筋に落ちた。
俺は頭を抱えて縮こまっていた。
ヴィクは、あのとき、どこにいた。
思い出せない。
箱の反対側にいたはずだ。俺と同じように伏せていたはずだ。だが見ていない。俺は自分の頭を抱えるので精一杯で、あいつがどうしていたかを見ていない。
やんだあとに、あいつは低い声で言った。
喋るな、と。
あのとき、もう撃たれていたのかもしれない。
俺が撃たなければ、あの一斉射はなかった。あの一斉射がなければ、あいつは撃たれなかった。撃たれなければ、上まで持ったかもしれない。
そこまで考えて、俺は首を振る。
違う。そういう話じゃない。
だが、そういう話でもある。
俺は膝を抱えて、そこにしばらくいる。
壁が流れている。
石。石。継ぎ目。石。




