摩天楼(六)
次の階は、静かだった。
扉を開けた瞬間に分かる種類の静けさだ。音が吸われている。天井が高いのに反響がない。足を踏み出すと、自分の靴音だけがぼそりと落ちて、そのまま消える。
そして、匂い。
紙と、糊と、埃と、それが長い時間かけて混ざったときの、あの匂い。
「書庫か」と俺は言う。
「みたいだな」とヴィクが言う。
書架が林立している。
天井まで届く高さのやつが、通路を挟んで何列も。列は奥へ向かってどこまでも続いていて、途中から灯りが弱くなって、その先は見えない。
背表紙が並んでいる。革のもの。布のもの。紙をそのまま束ねただけのもの。番号が振ってあるものもあれば、何も書かれていないものもある。
俺は近くの一冊を抜き出してみる。
開く。
字が詰まっている。びっしりと。表もびっしり、裏もびっしり。段落もなければ余白もない。
「うわ」
俺は本を閉じる。
「なんだこれ。読ませる気があるのか、これを書いたやつは」
「あるんじゃないか」とヴィク。
「ないね。ないよこれは。読ませる気があるなら行間を空ける。見出しをつける。俺だったらそうする。びっしり詰めるのは、書いてるほうが気持ちよくなってる証拠だ」
俺は本を棚に戻す。
戻すとき、隣の一冊の背表紙が目に入る。
うっすらと箔が押してある。かすれていて、途中しか読めない。
——名簿。
「ふうん」
俺はそれを引き抜こうとして、やめる。
やめた理由は、単純だ。
腹が減っていたわけでも、疲れていたわけでもない。ただ、本を読んで何かが分かったところで、それが俺の役に立つとは思えなかったのだ。
上に何があるか。
それは本には書いていない。書いてあったとしても、俺は文字で知りたいわけじゃない。この目で見たいのだ。
読んで分かってしまったら、たぶん、行かなくなる。
「なあヴィク。お前、本読むか」
「読まん」
「だろうな」
「あんたは」
「読まない」
俺たちは顔を見合わせて、少し笑う。
十年つきあって、どちらかが本を読んでいるのを見たことがない。それで困ったことも、たぶん、一度もない。
そういうわけで、俺は本の代わりに部屋を見る。
これは癖のようなものだ。市場で店を見るときも、まず商品を見ない。台の高さを見る。奥行きを見る。店主の背中の後ろに何があるかを見る。そうすると、その店が本当は何で食っているのかが分かる。
書庫も同じだ。
歩きながら、書架の間隔を見る。等間隔だ。天井までの高さも揃っている。床の板の継ぎ目も規則正しい。
規則正しすぎる。
「おい」
俺は足を止める。
「なんだ」とヴィク。
「この列、おかしくないか」
俺が立っているのは、奥から三列目の突き当たりだ。
書架は壁に対して直角に並んでいる。どの列も、壁から一定の距離を空けて終わっている。人が横に通れるだけの隙間。
だがこの列だけ、壁との隙間が狭い。
半分もない。
「ほら、ここ。他の列は人が通れるだろ。ここだけ通れない」
「そうだな」
「ってことは、この書架だけ奥行きが深いんだ。あるいは、壁が手前に出てる」
俺は書架の側面を叩く。
こん、と軽い音がした。
もう一度、少しずらして叩く。
こん。
さらにずらす。
ごん。
「お」
俺はその高さを覚えて、棚の本を全部抜く。
四段目だ。抜いた奥に、板が見える。他の段と同じ木目、同じ塗り。言われなければ気づかない。
「あったぞ」
俺は板の端に爪をかけて、手前に引く。
外れない。
指が入る隙間もない。継ぎ目はあるのだが、髪の毛が通るかどうかという細さで、爪が引っかかる場所がない。
「くそ。あのナイフがあれば一発なんだよな」
「あるだろ、いま俺たちが果物を食ったぶんの価値が」
「うるさいな」
押してみる。
わずかに沈む。手を離すと戻る。
もう一度押す。沈む。戻る。
「なんだこれ。押しても引いても駄目じゃないか」
俺は板の四隅を順番に押してみる。どこを押しても同じだけ沈んで、同じだけ戻る。斜めに押す。だめだ。上下に揺する。だめだ。
十分ほどそうしていた。
指の腹が痛くなってきて、俺は一度手を止める。
「壊すか」
「やめとけ」
「じゃあどうするんだ。この奥に何かあるのは確実だぞ。ここまで来て、板一枚に負けるのか俺は」
「どけ」
ヴィクが横に来る。
しゃがんで、板に手を当てる。押す。沈む。そこまでは俺と同じだ。
だが、あいつはそこで手を離さなかった。
沈めたまま、そのまま横に力を加える。
かちり。
板が横に走って、奥に空間が開いた。
「……は?」
「ばね式だ」
「ばね」
「押し込んで、そのままずらす。戻る力で留まってるだけだ」
俺は開いた板と、ヴィクの手を、交互に見る。
「なんで知ってんだ、そんなの」
ヴィクは立ち上がって、ジャケットの埃を払う。
「押して駄目なら、押したままずらす。それだけだろ」
「それだけって顔で言うなよ」
暗い。
俺は手を突っ込む。指先が、冷たくて硬いものに当たる。
金属だ。油の匂い。
引き出す。
自動小銃だ。
黒い。よく手入れされている。銃身に薄く油が塗ってあって、埃ひとつ被っていない。誰かが定期的に手を入れている、という手つきの跡が残っている。
「おい」
俺は振り返って、それをヴィクに見せる。
「なんだこれ」
「銃だな」
「銃なのは分かる。なんでこんなとこにあるかって話だ」
奥にはまだある。
もう一挺。それから弾倉が何本か。布に包まれて、きちんと並べてある。
俺は全部を床に下ろす。
「なあ、これ、どういうことだと思う」
「さあな」
「置いた誰かがいるだろ。隠して、油差して、弾まで揃えて。ここは書庫だぞ。本を読みに来る場所に、なんで銃を隠す」
俺は自分で言いながら、答えのほうへ歩いていってしまう。
書庫の次に、銃が要る場所があるからだ。
「……上か」
「たぶんな」とヴィク。
俺はしばらく、床に並んだ二挺を見下ろしている。
正直に言うと、少し嬉しい。
見つけたからだ。本を読んで教わったんじゃない。この目で見て、叩いて、押して、自分で見つけた。俺はそういうのが好きだ。値打ちのあるものが、値打ちの分からないやつの後ろに転がっているのを見つけるのが好きだ。
だが、嬉しさはすぐに薄れる。
その代わりに、腹の底のほうが、少しだけ重くなる。
銃が要る場所がある。
つまり、そういう場所が、これから来る。
「なあヴィク」
「なんだ」
「引き返すって選択肢、俺たちにあるかな」
ヴィクは銃を一挺取り上げて、慣れた手つきで弾倉を抜き、中を覗いて、また戻す。
その手つきについては、俺は何も言わない。言っても、たまたまだ、と返ってくるに決まっている。
「あんたは、どうしたい」
「行きたい」
「即答だな」
「即答だよ」俺は言う。「俺は上を見に行くんだ。銃が要るなら持つ。要らなくなったら捨てる。それだけの話だ」
俺は一挺を取って、ヴィクに差し出す。
「ほら」
「あんたが二挺持てばいい」
「二挺持ってどうするんだよ。両手で撃つのか。西部劇か」
「そうじゃない」
ヴィクは受け取らない。
「あんたが持ってたほうが、確実だ」
そのとき、俺は少しだけ腹が立った。
なぜ腹が立ったのか、自分でもすぐには分からない。だが口のほうが先に動いている。
「なあ。それ、やめろ」
「何がだ」
「俺が確実、って言い方だ。それはつまり、お前は確実じゃなくてもいいって意味だろ」
ヴィクは黙っている。
「昨日、相談してから決める、って話をしたよな」
「した」
「守る気あるか、あれ」
「あるぞ」
「ないだろ。いま黙って決めただろ、お前」
ヴィクは何か言いかけて、やめる。
俺は続ける。
「お前はたぶん、あれを面倒な決まりごとくらいに思ってる。いちいち断りを入れるのが礼儀だとか、そういう話だと思ってる」
「違うのか」
「違う」
俺は言葉を探す。
うまく出てこない。こういうときに限って出てこない。
だが、これだけは伝えないと、この先ずっと同じことが起きる気がした。
「相談するってのはな」
俺は結局、いちばん単純な言い方をする。
「同じだけ得か損する、ってことなんだよ」
ヴィクが顔を上げる。
「儲けを分けろって話じゃない。損を分けろって話だ。お前が三十の値打ちを出したなら、俺も三十出す。お前が危ないほうを持つなら、俺も持つ。そこを揃えるための相談だ。揃えないんだったら、聞く意味がない」
「揃わなかったら?」
「揃わない取引は、取引じゃない。施しだ」
言ってから、少し言いすぎたかと思う。
だが引っ込めない。
「俺はな、たぶん、取引の話しかできない男なんだ。人と人がどうつながってるのかを、それでしか測れない。だから、お前が黙って多く払うのは——」
そこで、手の中のものが目に入る。
黒い。重い。油の匂いがする。
「……怖いな、これ」
ぽろりと出た。
「怖いか」とヴィク。
「怖い。持ってるだけで、腹の底がひやっとする」
まあ、そんなものだろう。銃なんてろくに触ったことがない。武器なんてものは、だいたい怖い。
俺は肩をすくめる。
ヴィクはしばらく俺を見ている。
それから、差し出したままだった銃を、受け取る。
「分かった」
「分かればいい」
俺は自分のぶんの弾倉をポケットに突っ込む。重い。片側だけ重いので、歩くと体が傾く。まあいい。
「先に言っとくけどな」と俺は言う。「俺は撃つのが下手だ」
「知ってる」
「知ってるのか」
「あんたが上手かったことは一度もない」
「一度もないは言いすぎだろ。一度くらいあっただろ」
「ない」
「ないのか」
俺たちは書庫を出る。
出るとき、俺はもう一度だけ書架を振り返る。
天井まで届く棚が、奥へ奥へと続いている。何万冊あるのか見当もつかない。あの中のどこかに、この建物のことが全部書いてあるのかもしれない。何階まであるのか。上に何があるのか。なぜ誰も戻ってこないのか。
書いてあるのかもしれない。
だが、読まない。
いまさら教わって、どうする。
扉の前で、ヴィクが立ち止まっている。
すぐには開けずに、書架のほうを一度だけ見る。
さっき俺が名簿を抜きかけた、あのあたりを。
「どうした」
「いや」
ヴィクは扉を押す。
「行くぞ」




