摩天楼(五)
湯から上がって、体を拭いて、俺たちは棚の下の床に座る。
三人組は先に出ていった。奥の部屋で寝るらしい。
干した果物を出して、少し食う。おばさんがくれたやつだ。甘い。思ったよりずっと甘い。
「うまいなこれ」
「ああ」とヴィク。
俺は二つめを口に入れながら、さっきから引っかかっていたことを言う。
「なあ。市場で交換したあのナイフのことなんだけどな」
「まだ言うのか」
「ああ、言うさ。これは俺の名誉の問題だ」
「はぁ、言ってみろ」
「あのナイフはな」と俺は言う。「あれは市場の相場で、干し肉なら二十束だ。いや、三十束より多いかもしれん。刃の入り方と柄の作り。値打ちものだぞ、あれは。あれを打てる職人は、あの市場に一人もいなかった」
「見たのか、全部の店を」
「見てない。見てないけど分かる。あれだけの鉄が並んでたら、市場全体の空気が違うんだよ。誰かが必ず自慢してる。誰も自慢してなかった。つまりあの市場に、あれ以上のものはなかった」
ヴィクが少しこっちを見る。
「詳しいな」
「詳しいんだ。俺はたぶん、そういうことをやってた」
言ってから、自分で引っかかる。
たぶん。
なぜ、たぶん、なんだ。
「まあいい」と俺は言う。「とにかくだ。あれを果物一袋と換えた。三十対一の取引だぞ。相場を知ってる人間が見たら卒倒する」
「腹が減ってたからな」
「そこじゃないんだよ」
俺は指を一本立てる。
「いいか。価値ってのはな、自分がどう思うかじゃない。他人がいくら出すかだ。他人が同じ価値の物を出すから、持ち運べる。持ち運べるから、貯められる。貯められるから、意味が出てくる」
「ほう」
「ナイフを持ってれば、明日それを別の何かに換えられる。三日後でも換えられる。一年後でも、たぶん換えられる。果物はどうだ。今日食ったら終わりだ。終わりなんだよ。何も残らない」
ヴィクは干した果物をもう一つ口に入れる。ゆっくり噛んで、飲み込んでから言う。
「残らなくていい」
「よくないだろ」
「明日、俺たちが何を要るかは、俺にも分からん。分からんものに備えるより、今日腹を満たすほうが確かだ」
「それはその日暮らしって言うんだぞ」
「そうだな」
「否定しろよ、そこは」
ヴィクは否定しない。
俺は少し苛立って、それから、その苛立ちが自分でもよく分からないものだということに気づく。
「お前はさ」と俺は言う。「値打ちってものを信じてないだろ」
「信じてる」
「信じてないだろ。値打ちってのは、求められているものにつく。あのおばさんが飛びついたのはそういうことだ」
ヴィクはしばらく黙っている。
それから、こう言う。
「他人の欲しがりで、俺たちの腹は膨れない」
「膨れるよ。換えれば膨れる」
「換えられる場所がなかったら?」
俺は口を開く。
閉じる。
「……そりゃ、まあ」
「俺は、いま俺たちにとって良いものを持っていたい」とヴィクは言う。「あんたが言ってるのは、他人にとって良いものだ。他人はここにいない」
その言い方が、妙に耳に残った。
他人はここにいない。
たしかにそうだ。この建物には市場があって、人がいて、取引がある。だがそれは下の話だ。上に行くほど人は減る。上に行くほど、値打ちを認めてくれる相手はいなくなる。
てっぺんに、相場はない。
「じゃあ聞くけどな」とヴィクが言う。
「なんだ」
「あんたが見に行こうとしてるものは、いくらだ」
俺は口を開けて、閉じる。
てっぺんに何があるのか。それを見ること。持ち帰れない。売れない。誰も買わない。さっき三人組に得意げに言った通りだ——見た時点で終わりだ。
効率がいい、と言った。
効率がいいわけがない。
あれは、この世でいちばん割に合わない行動だ。
「……ゼロだな」
「そうか」
「ゼロなんだよ。分かってる。ちゃんと分かってるんだ、俺は」
俺は膝を抱える。
「変な話だろ。俺は値打ちの話が好きだ。何がいくらで、なぜそうなるのか、考えてると落ち着く。たぶん昔からそうだった。それなのに、いま俺が上りたがってるものには、値がつかない」
「ああ」
「売れないんだ。誰にも見せられない。話しても伝わらない。てっぺんの話をしても、聞いたやつは、へえ、で終わりだ」
「そうだろうな」
「なのに、行きたい」
俺は言う。
「行かないと駄目な気がする。行かなかったら、なんか、まずいことになる気がする。何がまずいのかは分からん。誰かに怒られるわけでもない。損するわけでもない。ただ、行かないままでいるのは、たぶん俺には無理だ」
言ってから、自分でも少し驚く。
思っていたより、切実な言い方になってしまった。
「まあ、それだけの話だよ」
俺は慌てて付け足す。
「腹が減ったら飯を食うだろ。それと同じだ。ただの生理現象だ」
ヴィクは俺を見ている。
そして、こう言った。
「いいんじゃないか」
俺は笑う。
「ただな。次からああいうのは、相談してから決めよう。黙って出すな。いいな」
「ああ」
「ああ、じゃない。約束だぞ」
「分かった」
そのうち、俺は立ち上がる。
湯気の向こう、部屋の奥に、もう一つ扉がある。さっき三人組が消えていったのとは別の、上に続くほうの扉だ。
取っ手を回す。
回る。だが、押しても引いても動かない。
鍵がかかっている感じではない。向こう側に何かがつっかえている、という感じでもない。
ただ、開かない。
「あれ」
俺は何度か押してみる。だめだ。体重をかけてみる。だめだ。
「開かないぞ、これ」
「そうか」とヴィク。
「壊れてんのかな」
俺はもう一度だけ押して、それから手を離す。
そして、正直な気持ちを言う。
「……まあ、いいか」
自分でも意外なくらい、あっさり出た。
というのも、膝がもう笑っているのだ。湯に浸かって、飯を食って、床に座ったのがまずかった。一度座ってしまうと、体が「もう今日は終わりだな」と勝手に判断してしまう。
考えてみれば、朝から何十階も上ってきた。市場を歩いて、狭い階で老人と話して、またここまで上ってきた。
十分だ。今日はもう十分だ。
「なあヴィク。今日はここまでにしないか」
「いいぞ」
「よし決まりだ」
俺はもう一度、扉を軽く叩いてから背を向ける。
「待ってろよ。明日開けてやるからな」
奥の部屋は、思ったより広かった。
ベッドが六台。壁際に等間隔に並んでいて、そのうち三台はもう埋まっている。三人組だ。いちばん小さいのがもう寝息を立てている。早い。
窓は——ない。あるべき場所に、乳白色の四角がある。
もし外を覗けたら、ここはどのくらいの高さになっているだろうか。
俺は空いているベッドに倒れ込む。硬い。硬いが、悪くない。
灯りが落ちる。誰が落としたのかは分からない。ただ、そういう時間になったらしく、天井の光がゆっくり弱まって、部屋が薄暗くなる。
「なあ」と俺は言う。
「なんだ」
隣のベッドから、ヴィクの声がする。
「起きてるか」
「起きてる」
俺は天井を見る。湯気が抜けきっていないのか、少しだけ白い。
言おうかどうか迷って、結局言う。
「お前が来てくれてよかったよ」
暗い中で、少し間があく。
「そうか」
「一人だったら、たぶん市場で止まってた。あそこ居心地よかっただろ。飯もあるし人もいるし。俺、ああいうところで足が止まるタイプなんだよ。上に行くとか言っといて、三日で干し肉売る側に回ってる」
「回ってそうだな」
「回ってそうだろ」
俺は笑う。
「あとな、たぶん俺、あの老人の部屋で余計なことを聞いてた」
「そうだな」
「なんで止めたんだ、あのとき」
少し間があく。
「本が気になっただけだ」
「嘘つけ」
「嘘じゃない」
「まあいいけどな」
それから、少し真面目な声になってしまいそうだったので、俺は慌てて付け足す。
「まあ、お前も他にやることなかったんだろ」
「ああ」
「暇なやつだよな、ほんと」
「そうだな」
そのあと、ヴィクが何か言った気がする。
俺はもう半分眠っていて、それがちゃんと言葉として耳に入らなかった。
短い一言だった。それだけは覚えている。
聞き返そうと思ったが、そのときにはもう、体のほうが言うことをきかなくなっていた。
朝——朝なのかどうかは分からないが、灯りが戻ったので朝ということにする——目が覚めると、三人組はもういなかった。
ベッドは空で、布はきれいに畳んである。
「先に行ったのか」
「らしいな」とヴィク。
「挨拶くらいしていけよ」
俺は伸びをする。体が驚くほど軽い。何十階も上ったあとだとは思えない。あの湯は本当によく効いたらしい。
荷物をまとめて、俺は上への扉に手をかける。
回す。
押す。
開いた。
「お」
俺は自分の手と扉を見比べる。
「なあヴィク。開いたぞ」
「そうか」
「昨日あれだけ動かなかったのに」
「木は湿気で膨らむからな」
「ああ、そうか」
湯気で膨らんでいたのが、一晩で乾いて縮んだ。理屈が通っているか怪しいが、通れるならいい。
「にしても大した膨らみようだったな。今度から扉には気をつけよう」
「そうだな」
前室を通ると、受付の女がまだ立っていた。
同じ姿勢で。同じ角度に首を傾げて。
「ありがとうございました」
「どうも」と俺は言う。「いい湯だった」
「ありがとうございました」
「上に何があるか、知ってるか?」
「ありがとうございました」
「だろうな」
上りながら、俺は一度だけ振り返った。
湯気の向こうに、あの絵が見える。丘と、木が二本と、海と、雲が三つ。
いい絵だな、と思う。
下手くそだけど、いい絵だ。




