摩天楼(四)
扉を開けた瞬間、顔が濡れる。
湯気だ。
「うわ」
俺は思わず一歩下がる。真っ白だ。目の前が全部白い。何も見えない。眼鏡をかけていたら終わっていたところだが、あいにく俺は目がいい。
ただ、目がよくても、これは見えない。
「なんだこれ。火事か?」
「湯気だ」とヴィク。
「湯気なのは分かる。分かるけど普通の量じゃないだろ、これは。うちの婆さんがこれ見たら救急車呼ぶぞ」
俺は手で顔をあおぎながら、恐る恐る進む。
床が濡れている。裸足で歩いたら気持ちよさそうな、丸い石を敷き詰めた床だ。靴のまま踏むのが申し訳なくなる。
十歩ほど歩くと、湯気が薄れてくる。
そして、俺は立ち止まる。
湯船がある。
でかい。
部屋の真ん中に、石を組んで作った四角い湯船が沈んでいる。差し渡しは、まあ、十人は余裕で入れるくらい。縁が丸く磨り減っていて、いつからここにあるのか分からない。
湯は透き通っていて、底の石まで見える。そして、あちこちから泡が湧いている。ぼこぼこ、ではない。しゅわしゅわ、でもない。もっと細かくて、絶え間ない、絹みたいな泡だ。湯の中で泡が立ち上って、水面で弾けて、消える。
壁際には木の棚。畳んだ布が積んである。
そして、正面の壁。
窓があるべき場所に、絵が描いてある。
俺はそっちへ歩いていく。
大きな絵だ。壁一面を使っている。ずいぶん古いらしく、色が褪せて、下のほうは湿気で剥がれかけている。
描いてあるのは、風景だ。
丘がある。木が二本。その向こうに海。空には雲が三つ。線は下手くそだが、色は丁寧に塗ってある。誰かが、時間をかけて描いたものだ。
「見ろよ、これ」
「ああ、見える」とヴィク。
「窓のあるべきところに、風景の絵を描いたんだぞ、こいつは。ずるいだろ」
ヴィクは何も言わない。
俺は絵の前にしばらく突っ立っている。
丘。木。海。雲が三つ。
「なあ、海ってどんなだっけ」
俺は言ってから、自分でおかしなことを言ったな、と思う。
海がどんなものかくらい、知っている。知っているはずだ。塩辛くて、広くて、うるさい。それは知っている。
ただ——そのどれもが、岸から見た海の話だ。
なぜか俺は、もっと違うものを覚えている気がする。
音が遠くなること。体が軽くなること。見上げると光が細かく割れて揺れていること。上と下の区別が、そのうちどうでもよくなること。
息を止めているのに、少しも苦しくないこと。
そんな覚えはない。
あるはずがない。
「まあいい」
「おーい、新入りか?」
湯船のほうから声がした。
見ると、湯の中から手が上がっている。若い男だ。頭にタオルを乗せて、縁に肘をついて、こっちを見ている。その隣にもう一人。さらに向こうにもう一人。
三人組だ。
「あ」と俺は言う。「あんたら、市場で見たな。階段上ってったやつだろ」
「見てたのか」と手を上げた男が言う。三人のうち、いちばん体の大きいやつだ。
「見てた。やたら楽しそうだったから覚えてる」
「そりゃ楽しいさ」
大きいのは湯の中で伸びをする。
「入れよ。ここのは疲れによく効く」
服を脱ぐ。
湯に足をつけた瞬間、俺は声を出す。人前で出すような声じゃなかったが、出てしまったものは仕方がない。
「ああああ」
「うるせえ」とヴィクが言う。
「うるさくない。これは正当な評価だ。おい、お前も早く入れ。入って同じ声を出せ。出さなかったら人間として何かが欠けてる」
肩まで浸かる。
泡が体じゅうにまとわりついてくる。細かい泡が、脚に、腹に、背中に、びっしり張りついて、それが少しずつ剥がれて上っていく。くすぐったい。そして、あたたかい。
膝から下が、じわじわ溶けていくような感じがする。
何十階ぶんの階段が、そこから抜けていく。
「……これは」
「なんだ」とヴィク。
「これは、まずいな」
「なんでだ」
「気持ちよすぎる。こういうのはだいたい罠だ」
三人組は、兄弟だという。
上から順に、大きいの、真ん中、小さいの。名前も聞いたが、湯気のせいか、あとで思い出そうとしても出てこなかった。
「どこまで行くんだ、あんたら」と俺は聞く。
「てっぺんまで」と大きいのが言う。
「奇遇だな。俺たちもだ」
「あんたらも?」
「ああ」
「ふーん。何があるのか知ってるのか?」
「知らないから見に行くんだよ」
大きいのが、へえ、という顔をする。
「変わってるな」
「あんたらは?」
「もちろん、金だよ」
大きいのは、当たり前だという調子で言う。
「上に行くほどいいものがあるって言うだろ。誰も取ってきてないものが、ごろごろ転がってるはず。それを持って帰る。売る。三人で分ける。簡単な話だろ」
「なるほど、健全だ」と俺は言う。「しかも正しい」
「正しいのか」と真ん中が笑う。
「正しいよ。取ってきて、売って、分ける。三つとも意味のある動詞だ。俺のはどうだ。見る。それだけだ。動詞が一つしかない」
「むしろ損じゃないか、それ」と小さいのが言う。
「損だな」
俺は湯の中で足を伸ばす。
「でも、あんたらのそれ、持って帰れなかったら全部無駄になるだろ。俺のは見た時点で終わりだ。持ち帰らなくていい。誰にも渡さなくていい。土産話にするくらいだ。こんな効率のいい話はないぞ」
大きいのは少し黙って、それから笑った。
「あんた、面白いこと言うな」
「よく言われる」
「言われないだろ」とヴィク。
「言われるよ」




