摩天楼(三)
狭い階に出たのは、市場から数えて六つか七つ上ったころだ。
扉を開けた瞬間、空気が変わる。
音がない。
さっきまで市場のざわめきが階段の下から追いかけてきていたのに、この階の扉を閉めた途端、それが完全に消える。耳の奥がしんとして、自分の呼吸だけが大きく聞こえる。
そして、狭い。
廊下が一本。それだけだ。幅は両手を広げたら壁に触れるくらい。長さは、まあ、五十歩もないだろう。左右にドアが四つずつ。突き当たりに階段。
以上。
「これで一階分か」
「そうらしいな」
「おいおい待てよ。さっきの市場と同じ一階分なんだぞ、これ。店が百軒あった階と、廊下一本の階が、同じ一階だ。俺は建物ってものをもう少し信用してたけどな。上から順に同じ大きさの箱が積んであるもんだと思ってた」
「思ってただけだろ」
「思ってただけだよ。だから納得いかねえって言ってる」
「納得しなくても上には行ける」
「そういう問題じゃないんだよ」
俺はぼやきながら歩き出す。ドアは全部閉まっている。ノックしても返事がない。
一つを除いて。
廊下のなかほど、左側のドアが、少しだけ開いている。
「入っていいよ」
中から声がした。俺がノックする前に。
俺はヴィクと顔を見合わせる。それからドアを押す。
六畳ほどの部屋だ。ベッドが一つ。椅子が一つ。小さなテーブル。壁際に本が積んである。半分は表紙が取れている。
窓は——ない。あるべき場所に、乳白色の四角がある。
椅子に、老人が座っている。
痩せていて、背中が丸い。毛布を膝にかけて、両手を膝の上で組んでいる。俺たちが入ってきても、驚いた様子はない。
「てっぺんかい」
「わかるんですか」
「他に用がないだろう、ここには」
老人はゆっくりと顔を上げる。目は濁っているが、こっちを見ている。ちゃんと見ている。
「座りなさい。椅子はないが」
俺は床に腰を下ろす。ヴィクは戸口に立ったままだ。
「一人で住んでるんですか」
「そうだ」
「他の部屋は」
「空だよ。前は何人かいた」
「どこへ?」
老人は少し笑う。歯がほとんどない。
「この上さ。どこまで行ったかは知らない」
俺たちはしばらく話をした。
たいした話じゃない。この階のこと。市場のこと。水はどこから来るのかと聞いたら、知らんと言われた。灯りはどうして消えないのかと聞いたら、それも知らんと言われた。長く住んでいるわりに、この人は何も知らない。あるいは、知らないままでいることに慣れてしまったのかもしれない。
「上のほうはな」
話が途切れたところで、老人がふいに言う。
「いいところだそうだ」
俺は顔を上げる。
「そうなんですか」
「そう聞いとる。下では見られんものがあるとな」
「見られんもの」
「うん」
老人の目の色が、少しだけ変わる。濁ったままだが、そこに遠くを見るような色が混じる。
「行った者はみんな帰ってこんだろう。あれはな、帰れんのじゃない。帰る気にならんのだよ」
俺の背中のあたりが、すっと軽くなる。
そういうことか、と思う。誰も下りてこないのは、下りたくないからだ。そりゃそうだ。それだけのものが上にあるなら、誰がわざわざこんな廊下まで戻ってくるものか。
「何が——」
言いかけて、俺は口を閉じる。
うまく説明できない。ただ、いま自分が口にしかけた質問が、どうも自分のものではないような気がしたのだ。
さっきまで俺は、上に何があるか見たいと思っていた。見たいだけだった。見ても分からんかもしれん、分からんでもいい、そう言ったばかりだ。
それがいまは、教えてほしいと思っている。この老人の口から、言葉で、はっきりした形で。
短いあいだに、俺のなかで何かが入れ替わっている。
入れ替えられている。
「……いや」
言い直そうとして、うまい言葉が出てこない。老人はこっちを見ている。濁った目で、答えを待つみたいに、静かに。
そこへ、ヴィクが口を開く。
「その本」
「え?」
「読むのか、まだ」
戸口に立ったまま、あいつは壁際の山を顎でさしている。
唐突だ。話の流れとまるで関係がない。
だが、助かった、と俺は思う。何から助かったのかは、自分でもよく分からないが。
「読まんな」と老人が言う。「目がもう駄目だ」
「じゃあ、なんで置いてるんです」
「あると思うと落ち着く」
「分かりますよ、それ」俺は言う。「俺も昔、読まない本を枕元に積んでた。読まないんだけどな。積んであると、いつか読む気がしてくる。で、いつかは来ない」
「そうだ」
「結局読まないんだ、あれは」
「そうだ」
老人が笑う。歯のない口で。俺も笑う。
そのうち老人が、こんなことを言う。
「わしも、昔は上を目指した」
俺は顔を上げる。
「どこまで行ったんですか」
老人は答えない。膝の上の手を、片方だけ持ち上げて、また下ろす。
「どのへんまで? 十階? 五十階? いや、そもそもこの建物、何階まであるんです。誰か数えたやつはいないんですか。俺はさっき数えるのをやめたんですけどね、途中で馬鹿らしくなって」
「どのへんだったかな」
「覚えてない?」
「覚えとらんな」
その言い方が、覚えていない人間の言い方ではない。
俺はそれ以上は聞かない。聞けば答えるのかもしれないが、答えさせたら何かがまずいような気がする。うまく言えないが、そういう気がするのだ。
代わりに、俺はこう言う。
「上に行った人は、戻ってこないって聞きました」
「そうだな」
「一人も」
「そう聞いとる」
老人はうなずく。何度も、小さく。
俺は口を開きかけて——
そこで、気づく。
この人は、上を目指したと言った。
そして、ここにいる。
俺は老人を見る。
老人も俺を見ている。濁った目で。何も言わずに。
俺の質問は、口の中にある。あんたはどうやって下りてきたんですか、という質問が。たった一言だ。聞けばいい。
聞けばいいのに、俺は聞かない。
理由は自分でもよく分からない。ただ、この人の膝にかかった毛布とか、表紙の取れた本の山とか、返事のない七つのドアとか、そういうものを見ていると、聞いてはいけないような気がしてくる。
意地悪になるような気がする。
だから俺は、言葉を飲み込んで、代わりに立ち上がる。
「ありがとうございました」
「もう行くのかね」
「ええ」
「そうか」
老人は手を持ち上げて、階段のほうを指す。
「気をつけて」
「何にです」
老人はしばらく黙っている。
「……そのうちな」
「はい」
「向こうが、こっちに何か求めるようになる」
俺は続きを待つ。だが老人はそれきり口を閉じて、膝の上で手を組み直してしまう。
聞き返そうかとも思って、やめておく。この人はさっきから、聞かれたことの半分も答えていない。答えられないのかもしれないし、答えたくないのかもしれない。どちらにしても、こっちにできることは同じだ。
老人はそこで初めて、ヴィクのほうを見る。
戸口に立っているヴィクを見て、それからまた俺に視線を戻す。
「気をつけて」
廊下に出て、扉を閉める。
俺は少し歩いてから、口を開く。
「なあ」
「なんだ」
「あのじいさん、上を目指したって言ってたよな」
「言ってたな」
「でも、あそこにいる」
「いたな」
「いや、あそこにいるんだよ。あの部屋に、毛布かけて、本積んで、椅子に座って。上を目指したのに、あそこにいる。市場のおばさんは、下りてきた人間を一人も見たことがないって言った。あの二つを並べると、どうなる」
「どうなる」
「どうなるんだろうな」
俺は足を止める。ヴィクも止まる。
俺は何か言おうとして、うまく形にならない。頭のなかで何かがつながりかけて、つながる直前で、するりと抜けていく。
「……変じゃないか?」
ヴィクは俺を見る。
そして、こう言う。
「そうだな」
それだけだ。
俺はもう少し待つが、あいつはそれ以上何も言わない。ジャケットのポケットに手を突っ込んで、階段のほうを見ている。
「行くか」
「ああ」
俺たちは階段を上りはじめる。
さっきの疑問は、三階分ほど上ったところで、どこかへ行ってしまった。
その階の扉は、これまでとは違っていた。
木製で、分厚くて、真鍮の取っ手がついている。取っ手は握られすぎて色が変わっている。
押すと、静かに開いた。
小さな部屋だ。
三歩も歩けば向こうの壁に着く。壁は板張りで、床には擦り切れた敷物。天井の灯りはやわらかく、いままでの階のようにちらついたりしない。
正面にカウンターがある。
見覚えのある形だ。一階のフロントを、そのまま小さくしたような。
そして、その向こうに女が立っている。
「いらっしゃいませ」
制服らしいものを着て、両手を前で組んでいる。年の頃は三十くらい。髪をきっちり結い上げて、背筋を伸ばして、おだやかに微笑んでいる。
「あー」と俺は言う。「これは、あれか。一階のあいつの親戚か」
「いらっしゃいませ」
「だろうな」
俺は肩を落とす。
「上に行きたいんだが」と俺は言ってみる。
女の顔がぱっと明るくなる。
「お湯はそちらでございます」
「いや、上に」
「お部屋は奥になります」
「聞けよ、人の話を」
「ごゆっくりどうぞ」
女はそう言って、深々と頭を下げる。
俺はしばらく待つ。頭が上がってくる。おだやかに微笑んでいる。まばたきをしない。
「なあヴィク」と俺は言う。「この建物、こういうのしか雇わないのか」
「らしいな」
「面接どうなってんだ。会話が成立するかどうかを見ないのか」
「ごゆっくりどうぞ」
「うるさいな」
とはいえ、情報はもらった。
湯がある。部屋がある。そして、この女がそれ以外のことを言う気はまったくない。
カウンターの左手に扉が一つ。右手にも扉が一つ。左のほうから、うっすらと湯気が漏れている。
「風呂か」
「みたいだな」とヴィク。
「風呂だぞ、おい」
俺はもう一度言う。言わずにいられなかった。
何十階だか知らないが、とにかく延々と階段を上ってきた。膝は笑っているし、背中は汗で貼りついているし、髪は自分でも触りたくない状態になっている。
そこに、風呂だ。
「入るぞ」
「入るのか」
「入るに決まってるだろ。ここで入らなかったら、俺は一生自分を許さない」
「ごゆっくりどうぞ」と受付の女が言う。
「言われなくても」




