摩天楼(二)
扉を押した先が、いきなり明るい。
俺は思わず立ち止まる。
音が、まず来る。人の声だ。何十人、何百人ぶんの声が混ざって、輪郭のない一つの塊になって、こっちに押し寄せてくる。それから匂い。油と、香辛料と、埃と、汗。
そして光。天井のずっと高いところに、裸電球が数えきれないほど吊るされている。ぶら下がった線が縦横に走って、光の網みたいになっている。
市場だ。
眼下——というのは変な言い方だが、実際そう感じる——に、露店がびっしりと並んでいる。板を渡しただけの台。布を敷いただけの地面。木箱を積み上げた棚。そのあいだを人が流れていく。荷物を担いだ男。子供の手を引く女。呼び込みの声。値切る声。笑い声。
俺たちが立っているのは、その市場を一段高いところから見下ろす通路の上だ。
「おい」と俺は言う。「なんだこれ」
「市場だ」
「見りゃわかるよ。市場だ、それも相当な賑わいの。俺が言いたいのはそういうことじゃない。さっきまで空き部屋しかない廊下を延々歩いてたんだぞ。ドアをノックしても誰も出てこない、埃とベッドしかない、あの調子が十階も続いた。それで扉を一枚開けたら、これだ。落差ってものがあるだろ、落差って」
「あるな」
「お前、驚いてないだろ」
「驚いてる」
「顔に出せ、顔に」
俺は手すりから身を乗り出す。
数える気になって、やめる。
膨大な露店の数だ。手前の一列だけで二十はある。その奥にもう一列、さらに奥にもう一列。列の切れ目に横道が入って、そこにも店が並んでいる。四十まで数えて、まだ全体の手前半分にも届いていないことに気づいて、数えるのをやめた。
「なあヴィク。この市場、端から端まで見た人間っているのかな」
「さあな」
「いないと思うぞ、俺は。生まれてから死ぬまでここで暮らして、それでも西の端の店は一軒も知らずに終わる。そういうやつが何人もいる。そんな感じの広さだ」
「そうか」
「反応が薄いんだよお前は。もっとこう、あるだろ。すげえなとか、腹減ったなとか」
「腹は減った」
「よし、それでいい」
俺は一度だけ手を叩いて、奥を見る。
遠くなるほど電球の光がまばらになって、人影が細かくなって、やがて全部が薄い霞のなかに溶けていく。壁があるはずの場所に、壁が見えない。
「向こうの端まで、どのくらいあると思う」
「さあな」
「歩いたら何分だ」
「歩けばわかる」
「そりゃそうだ」
俺は笑う。
降りていくと、市場は思ったより雑然としている。
売っているものに脈絡がない。乾物の隣で靴を売っている。靴の隣でネジを売っている。ネジの隣で、何に使うのかまったくわからない金属の部品を、山盛りにして売っている。
そして誰も、金を使っていない。
「物々交換か」
「そうらしいな」
「困ったな」俺はポケットを叩く。空だ。両方とも空。「俺、何も持ってない」
「そうだな」
「そうだなって何だよ、お前」
ヴィクは答えずに、ジャケットの内側から小さな革の袋を出す。紐を解いて、中身を手のひらにあける。
ネジ。ボルト。針金の束。小さなライター。折り畳んだ布。よく研いだ短いナイフ。
俺はそれをまじまじと見る。
「お前、なんでそんなもん持ってんの」
「持ってて悪いか」
「悪くはない。悪くはないけどな。じゃあ聞くけど、朝起きて出かけるときに、よし今日はネジと針金とナイフを持っていこう、って思うか? 思わないだろ。俺は思わない。財布と鍵だ。せいぜい煙草だ」
「ふうん」
「ふうんって何だ」
俺はもう一度その手のひらを見る。実用的なものばかりだ。役に立つと分かっているものばかりだ。まるで、何が必要になるか知っていた人間の持ち物みたいに。
「用意がいいな」
「そうか?」
「そうだよ。いいことだけどな。俺みたいなのが二人いたら、俺たち今ごろ床に座って腹減ったって言い合ってる」
ヴィクは袋の紐を締め直しながら、少しだけ間をあけて言う。
「たまたまだ」
俺たちは干し肉と、乾いたパンみたいなものと、水の入った缶をいくつか手に入れる。
値段の交渉はほとんど俺がやった。喋ってこっちの調子を作って方向性を決めるのが俺の役目で、最後に値段をまとめるのがあいつの役目。だいたいそういう分担でやってきた。
「なあ、この干し肉、なんの肉だ」
「聞くなよ」
「聞くだろ普通。人間、口に入れるものの素性くらい知っときたいだろ。俺は知りたい。知った上で食う。それが礼儀ってもんだ、食われるほうへの」
「聞いてどうする」
「いや、鶏だったら嬉しいなと。鶏は好きなんだ、俺は。あとは豚でも許す。牛なら万々歳だ」
「鶏じゃない」
「なんで断言できるんだよ。おい。おい待て、なんで黙る。いま黙るとこじゃないだろ」
袋を担ぎながら、俺は少し機嫌がいい。腹が減っていたのが解決したし、荷物ができたことで、なんとなく旅らしくなってきた。
上を目指している、という感じがしてくる。
「あんたら、上に向かうのね」
声をかけてきたのは、乾物の台を仕切っているおばさんだ。恰幅がいい。腕が太くて、目つきが鋭い。台の後ろの椅子にどっかり座って、こっちを値踏みするように見ている。
「わかるのか」
「わかるよ。荷物の作り方でわかる」
おばさんは顎で俺の担いだ袋をさす。
「食い物ばっかりで、売り物がない。上に行こうとする連中はみんなそう。ここで暮らす気がないんだ」
「なるほどね。鋭いな、あんた。俺なんか自分の荷物見ても何もわからないぞ。重いな、としか思わない」
「そりゃあんたが自分の荷物だからさ」
「深いこと言うな」
「深くないよ」
おばさんは椅子の背にもたれる。
「で、上に行く理由は」
「大した理由じゃない。ただ、上に何があるのか、見てみたくてさ」
「見てどうするの」
「どうもしない」
「じゃあなんで行くの」
「この目で見れれば、十分」
「それだけ?」
「それだけ。知りたいってのとは違うんだ。たぶん見ても分からん。分からんまま帰ってくると思う。それでも、見ないで済ますよりは、見て分からんほうがいい」
おばさんは俺の顔をしばらく見て、それから、ふん、と鼻から息を出す。笑ったのかもしれないし、呆れたのかもしれない。
「あんたみたいに偏屈なの、月に何人か来るよ」
「そうか、人気者だな、てっぺんは」
「みんな同じこと言う。見たいって」
「で、どうなった」
「さあ」
おばさんは肩をすくめる。
「行ったよ。みんな。あそこから」
俺はそのとき、あることに気づく。
たいしたことじゃない。ただ、市場に降りてきてからずっと、階段のほうを何度か見ていて、それで気づいただけだ。
人が、上っていく。
三人組。荷物を担いだ若い連中で、笑いながら階段を上がっていった。そのあと、一人。そのあと、二人。
みんな上っていく。
「なあ、おばさん」
「なに」
「下りてくる人は?」
おばさんは、乾物を並べ直す手を止めない。
「下りてくる?」
「上から。上に行った連中が、下りてくることは」
「知らないね」
その言い方があんまり普通なので、俺は一瞬、質問の意味が伝わっていないのかと思う。
「いや、一人もか? 一人くらいいるだろ。上まで行って、なんだ大したもんなかったな、って言いながら下りてくるやつ。俺だったらそうする。むしろ下りてきて自慢する。上まで行ってきたぞって、そこの台で何度でも話してやる」
「一人も」
「何年くらい、ここにいるんだ、あんた」
「自慢じゃないが、あんたがおしめしてた頃よりも長いよ」
「俺がおしめしてたの知らないだろ」
おばさんは干し肉の束をひっくり返して、形の悪いのを下に隠す。
「まあ、言った通りだ。上るのはいくらでも見た。下りるのは見たことがない」
俺は少しのあいだ、それについて考える。
考えて、それから、こう言う。
「じゃあ、俺が最初になるかもな」
「なんの」
「戻ってきた男の。ちゃんと下りてきて、あんたに土産話をしに来るよ。上には何がありましたって。つまらん話だったら干し肉一本サービスしてくれ」
おばさんは今度こそ、はっきり笑った。
「期待しないで待ってる」
俺が荷物を担ぎ直していると、ヴィクが前に出る。
袋から、あの短いナイフを取り出す。よく研いだやつだ。それをおばさんの台の上に、静かに置く。
「なんだよ、それ売るのか。おい、もったいないぞ。この市場でそれより見栄えのいい刃物、俺は一本も見てないからな。さっきの金物屋のなんて、あんなもん研ぐ前に折れる」
ヴィクは答えない。
おばさんはナイフを見て、それからヴィクを見て、それからナイフを手に取る。刃を親指の腹で軽く撫でて、台の下の木箱にしまう。
代わりに、干した果物の袋を一つ、台の上に置く。
「はい」
「はい、って」
俺は自分の荷物とその袋を見比べる。どう考えても釣り合っていない。片方は一晩で食い終わる果物で、片方はよく研いだ鉄だ。
「おい、それ割に合わないだろ。商売ってのはもうちょっとこう、双方が損した気になるくらいのところで手を打つもんだ。これは一方的すぎる。あんた、良心が痛まないのか」
「いいんだよ」とおばさんが言う。
「どこがだよ」
「合ってるの」
おばさんは果物の袋を俺のほうに押しやる。それから、なんでもない調子で言う。
「これで、少しは上まで行けるだろうさ」
「そりゃ行くよ。さっきからそう言ってるだろ」
おばさんは何も言わない。
ヴィクが袋を取って、俺の荷物に押し込む。
階段に向かう途中、俺はヴィクに言う。
「なあ、聞いたか。誰も下りてこないってさ」
「聞いた」
「気味が悪いよな」
「そうだな」
「上で全員パーティでもやってんのかな。楽しすぎて帰る気にならないやつ」
「かもな」
「そんで俺たちが着いたら、なんだお前ら遅かったなって言われる」
「言われるかもな」
ヴィクは相槌しか打たない。
俺はそれを、こいつがいつもそうだから、というだけの理由で受け流す。




