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摩天楼(一)

見上げても、てっぺんは見えない。


雲を突き抜けているのか、それともこのあたりの空気が単に汚すぎるだけなのか。どちらにしても結果は同じだ。上のほうは灰色に溶けて、そこで終わっている。終わっているように見えるだけで、たぶん終わってはいない。


俺は首が痛くなるまでそうしている。それから、ゆっくり視線を下ろす。


首の後ろで骨が鳴る。


建物の入り口は、拍子抜けするほど安っぽい。


軒先のひさしは端が錆びて反り返っているし、その下にぶら下がった看板は、文字の半分が剥げ落ちている。何と書いてあったのかはもう読めない。ガラス扉には手垢の層が地層みたいに溜まっていて、向こう側がぼんやりとしか見えない。三段の階段のいちばん上に、誰かが吸い殻を押しつけた跡がある。


つまり、安宿だ。どこの街にもある、名前を覚える価値のない安宿。


ただしこの安宿は、空に突き刺さっている。


俺は自分の手のひらを見る。それから服を見る。どちらも見覚えがある。当たり前だ、俺の手で、俺の服なんだから。それなのに、たったいま初めて見たような感じがする。


まあいい。


考えても仕方のないことは、考えないに限る。それが俺の数少ない特技だ。


扉を押す。ちょうつがいが悲鳴を上げる。


中は思ったより広い。


そして思ったより暗い。天井の照明は半分が切れていて、残りの半分も切れかけている。じじ、と虫の羽音みたいな音を立てて、光が細かく震えている。


正面にカウンターがある。木目の化粧板が端から剥がれて、下地の合板が覗いている。その上に呼び鈴。ひとつ。ちょこんと。


カウンターの背後の壁には、鍵箱が並んでいる。番号が振ってあるが、順番がおかしい。一〇一、一〇二、一〇四、そのあと急に三〇七、それから五〇八、それから二。何の法則もない。鍵が入っている仕切りもあれば、空の仕切りもある。


窓はない。


いや、あるにはある。左手の壁に、それらしい四角がひとつ。だが近づいてみると、固定されたすりガラスで、向こう側は乳白色に濁っているだけだ。手をかざしても影ひとつ映らない。外の光が入ってきている気配もない。


窓の形をした壁、と言ったほうが正確だろう。


「いらっしゃいませ」


声がして、俺は振り返る。


カウンターの向こうに、いつの間にか男が立っている。制服らしきベストを着て、両手をきちんと前で組んでいる。年の頃は四十くらい。髪はきれいに撫でつけられていて、表情はおだやかだ。


「どうも」と俺は言う。「部屋を取りたいわけじゃないんだ」


「いらっしゃいませ」


男はもう一度言う。まったく同じ抑揚で。まったく同じ角度に首を傾げて。


俺は少し待つ。男も待っている。おだやかに微笑んだまま、まばたきもせずに。


「上に行きたいんだが」と俺は言ってみる。


男の顔がぱっと明るくなる。ようやく話が通じたらしい。


「ご記帳をお願いいたします」


カウンターの上に、分厚い帳面が置かれる。いつからそこにあったのか分からない。革の表紙は手垢で黒光りしていて、角が丸くすり減っている。


「金は」


「ご記帳をお願いいたします」


「いや、だから、いくらだって聞いてるんだが」


「ご記帳をお願いいたします」


なるほど。そういうことか。


俺は納得する。この男は、決まったことしか言わない。決まったことしかできない。中に何が詰まっているのか知らないが、少なくとも会話は詰まっていない。


「わかった、わかった」


俺は帳面を引き寄せる。


ページをめくる。


名前が並んでいる。


インクの色も、筆跡も、書かれた向きもばらばらだ。几帳面な字。殴り書き。震えた字。子供みたいな字。ページの端まできっちり使っている行もあれば、真ん中に一言だけ、投げ出すように書かれた行もある。


何十人。何百人。もっとかもしれない。


俺はぱらぱらと遡ってみる。遡っても遡っても名前は続く。紙が古くなり、インクが褪せ、やがて茶色く滲んで読めなくなる。それでも名前は続いている。


そして、どのページにも、同じものがない。


チェックアウトの欄が、ない。


戻ってきた者の記録が、どこにもない。


俺はしばらくその帳面を眺めている。それから、いちばん新しいページの、いちばん下の空白に、ペンを当てる。


インクが出ない。振る。出た。


——ジョエル・バーンズ。


自分の名前を書きながら、俺は少しおかしな気分になる。書いてみるまで、自分の名前をちゃんと思い出せていなかったような気がする。書いてみたら、ちゃんとそこにあった。ジョエル・バーンズ。俺の名前だ。他の何でもない。


まあいい。


考えても仕方のないことは、考えない。


「ありがとうございました」


フロント係が言う。おだやかに。


「どうも」と俺は言う。「ところで、上には何があるんだ?」


「ありがとうございました」


「そうか」


「ありがとうございました」


「無駄だぞ、そいつに聞いても」


背後から声がする。


俺は振り返る。


階段の上り口のところに、男が一人立っている。俺と同じくらいの年格好。俺より少し背が低くて、俺より確実に肩幅がある。着古したジャケットのポケットに両手を突っ込んで、壁に肩を預けている。


顎に無精髭。目つきは眠そうだが、眠っている目じゃない。


その顔を見た瞬間、俺は言う。


「ヴィク」


「よう」


十年、俺たちはずっとこんな調子だった。三日会わなくても、三ヶ月会わなくても、顔を合わせればいつも同じところから始まる。前に交わした会話の途中から。


それ以上のことは、俺は何も思わない。


「なんでお前がここにいるんだ」


「なんでお前がここにいるんだよ」


ヴィクは肩をすくめる。俺も肩をすくめる。それで話は済んでしまう。俺たちはいつもそうだ。説明を求めない。求めても、たいてい面倒くさがって答えないから。


「で」ヴィクが顎で天井をさす。「上に行くのか?」


「ああ、行くね」


「なんでだ」


俺は少し考える。


理由。そんなものがあっただろうか。


てっぺんが見えなかった。それだけだ。見上げて、見えなくて、じゃあ何があるんだろうと思った。思ったら、扉を押していた。


「いちばん上に何があるのか、見てみたい」


「……それだけか」


「それだけだ。この目で何があるのかを見たいんだ。ただ、知りたいってのとも、ちょっと違うんだよな。見たところで意味が分かるかどうかは知らん。分からんかもしれん。分からんでもいい。とにかく、見てみたい」


ヴィクは俺の顔をじっと見る。しばらく見る。


俺は待つ。こいつが何か言うのを。馬鹿じゃないのか、とか。やめとけ、とか。そういうことを言いそうな顔をしているから。


だがヴィクが言ったのは、そのどちらでもない。


「算段はあるのか」


「算段?」


「てっぺんまで行く算段だ。何階あるかも分からん建物だぞ。あんた、どうやって行くつもりだ」


俺は口を開いて、閉じる。


考えてみれば、何もない。地図もない。案内もない。上に何階あるのかも知らない。あるのは、上ってみようという気持ちだけだ。


だが、それをそのまま答えるのも、なんだか違う気がする。


「ないよ、算段なんて」と俺は言う。「ないけどな、簡単じゃないってことは分かる」


「なんでだ」


「そりゃ分かるだろ。あんな高さのもんが、誰にも中身を知られずに突っ立ってるんだぞ。市場のど真ん中で、誰も蓋を開けたことのない箱が置いてある、みたいな話だ。開けようとしたやつが今まで一人もいなかったなんてことはない。いたはずだ。何十人も、何百人も。それで誰も中身を語ってないってことは——」


俺はそこで言葉を切る。自分でも、思ったより嫌なことを言おうとしていた気がしたからだ。


「まあ、簡単じゃないんだろうな」


ヴィクはまだ俺を見ている。


さっきまでとは、少しだけ目の色が違う。値踏みしていたものが、値踏みし終わったときの目だ。


そして、口の端を少しだけ動かして、こう言う。


「まあ、いいんじゃないか」


「そうか」


「ああ」


そして壁から肩を離す。


「じゃあ、行くぞ」


「え」


「どうした」


「いや」俺は思わず笑う。「お前、来るの?」


ヴィクは階段のほうへ歩き出しながら、振り返りもせずに言う。


「他にやることもないしな」


俺はその背中を見て、少しだけ、胸のあたりが妙な感じになる。


まあいい。


最初の階段は、拍子抜けするほど普通だ。


コンクリートの段。手すりは鉄。踊り場に電球がひとつ。上りきると扉があって、押すと開く。鍵もかかっていない。誰も止めない。


二階も、三階も、そんな調子だ。


廊下があって、部屋のドアが並んでいて、どのドアも閉まっている。ノックしても返事はない。開けようとすれば開くものもあるが、中はただの空き部屋で、埃をかぶったベッドがひとつあるだけだ。窓は——ない。あっても、さっきと同じ、乳白色の四角。


「なあ」俺は言う。「思ったより、簡単じゃないか?」


「そうだな」


「拍子抜けだ」


「そうだな」


ヴィクは前を歩いている。一段飛ばしで階段を上がっていく。俺より足が速い。


「これ、このままいちばん上まで行けるんじゃないか?」


「行けるかもな」


「だろ?」


「何もなければな」


そう言うヴィクの声には、何の起伏もない。


「賭けるか」と俺は言う。「てっぺんまで、あと何階あると思う」


「知るか」


「百か?」


「知るか」


「千だったら泣くぞ、俺は」


ヴィクは答えない。


俺は勝手に笑っている。


四階から先も、似たようなものだ。


五階、六階、七階。廊下、ドア、階段、踊り場。順番が入れ替わるだけで、中身はほとんど同じ。ときどき廊下の長さが違う。ときどき天井が低い。八階では階段が二本あって、どちらを選ぶかで少し揉めた。


「右だ」


ヴィクが即答する。


「なんでだよ。いま見たばっかりだろ。左だって同じような階段じゃないか。むしろ左のほうが手すりが綺麗だぞ、俺の見立てだと。ほら、右のほうは途中で塗装が剥げてる」


「なんとなくだ」


「なんとなく」


「ああ」


「お前さ、なんとなくで物を決めるタイプだったか? もっとこう、全部理屈で動く男だと思ってた。飯の注文にも三分かけるだろ、お前」


ヴィクは肩をすくめる。


「好きにしろ」


「じゃあ左だ」


「ああ」


結局どちらでもよかった。上でつながっていた。


十階を過ぎたあたりから、俺は数えるのをやめる。数えたところで意味のある数字にならないし、数えていると、数えていることが目的になってしまう。


そういうのは、よくない。


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