CAST(四)
濡れた床に、私の足跡がつく。
低いところの扉、二つ。私はさっき、この両方を押して、両方とも動かなかった。もう一度、左を押す。動かない。右。動かない。
私は壁を背にして座りこむ。濡れた床を見ている。
見ている、というより、他に見るものがない。
水が引いたあとの床には、細かい塵が縞になって残っている。水の動いた向きに沿って寄せられたもので、ゆるい弧が何本も並んでいる。私はその縞を目で追い、そして、縞が一箇所で途切れているのに気づく。
四角く、途切れている。
私は立ち上がり、近づいて、しゃがむ。
扉だ。床にある。
縁のくぼみも、これまでのものと寸分違わない。塵が縁に沿って寄せられているおかげで、いま初めてそれが浮き上がって見えている。
私はこの部屋に、一度来ている。
そのとき私は、床を見ていない。
見落としたのではない。見る余裕がなかったのである。入った瞬間から水が湧き、私は走り、押し、見上げ、浮き、運ばれていた。あのあいだ、私の目は一度も下を向いていない。
私は指をくぼみにかけて、押す。
開く。
下だ。
縁から覗くと、床がある。近い。私の背丈の二倍あるかどうかというところだ。私は縁に腰かけ、体を回して腹ばいになり、足から下ろしていく。両手で縁を掴み、体を伸ばしきって、それから手を離す。
落ちる。
——と思った瞬間、重さが背中の方へ回る。
尻もちをつく。
すぐ横で、かちり、と鳴る。
上ではない。
私は座ったまま、そちらを見る。
扉がある。壁に、ある。
私はいま、そこから出てきた。私が足から下ろしたとき、あれは私の頭の上にあった。
床を見る。天井を見る。
どちらも、まっすぐだ。
膝も、肘も、首も動く。目が回っている感じもない。
「……いま、どっちが下だった」
答えは出ない。
出ないので、私は立ち上がる。
明るい。
床の広さは、これまでと同じに見える。天井は低いが、低いといっても私の背丈の二倍はあって、部屋として不足のある高さではない。
四つの壁のうち、二面に扉がある。近い方へ歩き、指をかけて押す。動かない。もう一つ。押す。動かない。
私は床を見る。さっき覚えたばかりのやり方で、床の面をひととおり見て歩く。
ある。
隅に寄ったところに、扉がある。指をかけて、押す。動かない。引く。動かない。
「またか! 念の入ったことだ」
私は立ち上がって、部屋を見回す。
何の変哲もない部屋に見える。
見えるのだが、落ち着かない。
何が落ち着かないのかを、私は自分で説明できない。寸法にも、材質にも、明かりにも、おかしなところはない。それなのに、目の端のどこかが、さっきからずっと引っかかっている。
私は壁を、下から上へ、順に目でたどる。
継ぎ目が、規則正しく並んでいる。
いちばん上まで来る。
天井の隅を、見る。
継ぎ目が、一本、消える。
私は動かない。
見間違いということがある。私は同じ隅を、まばたきをせずに見つづける。
もう一本、消える。
天井の縁が、継ぎ目を一本ずつ、確実に飲みこんでいく。
音はしない。
「……冗談だろう」
私は床の扉へ走る。
押す。動かない。
壁の扉。
押す。動かない。
もう一つ。
動かない。
私は両手で扉を叩く。厚い金属の、低く詰まった音がする。
叩いても意味はない。
意味はないと分かっていて、叩く。
肩で息をしながら、私は天井を見上げる。
隅に寄ったところに、扉がある。
見つけたところで、届かない。私の手より、まだ人ひとりぶんは上にある。
跳ぶ。
届かない。
壁に手をかける。指がかりは無い。助走して駆け上がろうとしてみるが、二歩目で足が滑って、肩から床に落ちる。
もう一度。
落ちる。
肘が擦れて、血が滲む。
私は仰向けのまま、天井を見ている。
継ぎ目が、また一本、消える。
下がってくるのだから、いずれ手は届く。
そんなことは、他の扉が全部開かなかった時点で見当がついている。見当がついていることと、それに命を預けられることとは、別だ。
私は起き上がる。
一つ。あの扉が開くという保証はどこにもない。ここまで、押して開かなかった扉の方が多い。
二つ。この部屋に、私がまだ見ていない扉があるかもしれない。ついさっき私は、足もとの扉を見落としたばかりだ。あのときは水に追われていたから、という言い訳ができた。いまも追われている。同じことだ。
三つ。仮にあの扉が開くとして、届く高さまで下がってきたとき、私が扉を押し、体を持ち上げ、穴を抜けるだけの時間と、そのぶんの高さが残っているかどうか。
三つ目が、いちばん悪い。
これだけは、待ってみるまで分からない。
私は壁際に座る。
見上げる。
天井が下がる。
継ぎ目が消える。
もう一本、消える。
私は自分の呼吸を数えはじめる。数えていないと、待つということができない。私は待つのが得意ではない。
答えがそこにあるのに手が届かず、手を伸ばすことすら許されず、ただ時が満ちるのを待てというのは、私にとっていちばんこたえることだ。知りたいという気持ちは、待たされることに耐えられないようにできている。急ぐなと言われて急がずにいられるくらいなら、そもそもこの仕事は選んでいない。
もっとも、いま私を待たせているのは、知りたいという気持ちではない。
天井が、私の背丈の一・五倍のあたりまで来る。
扉の縁が、見える。
くぼみも、見える。
まだ届かない。
私は立ち上がる。
背伸びをする。
指の先が、天井をこする。
扉のくぼみまでは、まだ三十センチある。
天井が下がる。
私は膝を曲げる。
背中が丸くなる。
もう十センチ。
指が、くぼみに入る。
私は押す。
動かない。
「——」
もう一度押す。
動かない。
私はしゃがんでいる。天井が私の背中に触れている。触れているというより、押している。膝と首と背中で、それを受けている。
くぼみに、四本の指をかけ直す。
押す。
開く。
扉は、上へ向かって開いた。
私は両手を穴の縁にかけ、腕だけで体を引き上げる。腹を縁に乗せ、膝をかけ、転がって、床に出る。
出た瞬間、扉が閉じる。かちり、と鳴る。
私は床に大の字になって、天井を見る。
高い。
二十四歩ぶんの高さが、そこにある。
「……はは」
自分が笑ったことに、少し驚く。
私は目を閉じて、鼻から大きく息を吸う。肺の底まで入れて、しばらく止めて、口からゆっくり出す。
もう一度。
三度目で、肩から力が抜ける。
起き上がる。
この部屋は、明るい。寸法も、材質も、これまでと同じだ。扉を数える。四面すべてに、ある。
これまでで、いちばん多い。
私はまず、床に踵で図を書く。正方形と、四辺に線を四本。それから壁に近づいて、鋲で短い縦線を三本、刻む。三本にしたのは、一本や二本では偶然にできた傷と見分けがつかないからだ。
三本。深さは揃えた。間隔も揃えた。
私は、いちばん近い扉を押す。開く。またぐ。




