CAST(三)
足の裏が、冷たい。
床に、水がある。
深さは、靴底の縁にかかる程度だ。私が入ってきたときには無かった。いま入ったばかりで、いま濡れはじめている。
床を見る。型枠の板の並びに沿って、細い継ぎ目が走っている。その継ぎ目から、水が上がってきている。
滲むのではない。押し出されている。
私は扉を数える。三つある。うち二つは、これまでと同じ、床から立ち上がった位置にある。残る一つは、私の背丈の三倍ほど上、壁の上寄りに、蓋のようにはまっている。
床の扉へ走る。
水が跳ねる。もうくるぶしまで来ている。
指をかける。押す。
動かない。
もう一つ。
走る。
押す。
動かない。
「まずい」
私は膝まで水に浸かって、上の扉を見上げる。
道理は通っている。床の扉が二つとも開かず、開かない扉は開かないままで、開くものが高いところにあるのなら、この部屋の答えは「上がること」だ。そして上がる手段は無い。はしごも、足場も、縄も無い。壁は指がかりのないむき出しのコンクリートで、よじ登れない。だが水が上がってくるのだから、上がる手段の方が向こうから来ている。
道理は通っている。
通っているだけだ。
私はあの扉を、まだ一度も触っていない。
押して開くのか、開かないのかを、私はまだ知らない。知る方法は一つしかなく、それは水に運ばれてあの高さまで行き、実際に押してみることであって、そのときにはもう、床にも、この部屋のどこにも、退がる場所は残っていない。
「開いてくれ」
腰まで来る。
自分が歯を食いしばっていることに気づく。力を抜こうとして、抜けない。
胸まで来る。
冷たい。
足の裏が、床から離れる。
浮く。
手足が勝手に水を掻く。もがけば早く疲れる、私は泳ぎが得意ではない、得意でない人間が水の中でやるべきことは泳ぐことではなく浮いていることである——そう分かっているのに、掻く。
止める。
仰向けになって、体を長く伸ばす。
天井が、近づいてくる。
速い。
天井までが一メートルを切ったあたりで、自分の呼吸がひどく浅いことに気づく。吸っても入ってこない。胸の上のほうだけで息をしている。ここで乱れて水を飲めば、それで終わりだ。
口を閉じる。
鼻から、ゆっくり吸う。
もう一度。
上の扉が、目の高さに来る。
私は片手で縁のくぼみに指をかける。
もう片方で水を掻いて、体を安定させる。
押す。
開く。
向こう側は、乾いている。
水が、勢いよく流れこむ。
私はその流れに乗って、敷居を越える。
床に叩きつけられる。
水は、扉の向こうへ流れ出しては来なかった。私が抜けた瞬間に扉は閉じ、かちり、と鳴り、床に広がったのは私の体から落ちた分だけだった。
私は肘をついて起き上がり、しばらく咳をする。手が震えている。膝も震えている。座ったまま、それが収まるのを待つ。
収まってから、いま出てきた扉を見る。
「……律儀なものだ」
立ち上がる。
この部屋には、扉が一つしかない。四つの壁のうち、私が出てきた一面にだけ扉があり、残る三面には何も無い。扉があった痕跡すら無い。天井にも無い。
床には、ある。
穴だ。
部屋のほぼ中央に、丸い穴が開いている。私は縁まで歩いて、しゃがむ。
直径は、私が両腕を広げた長さの、二倍はある。縁は前の部屋の細長い穴と同じで、割れて落ちたものではなく、最初からそう作られている。指を差し入れて内側を撫でると、型枠を当てた跡が、こちらの面と同じ手つきで残っている。
覗きこむ。
底が、見えない。
明かりは、この部屋と同じように均等で影が薄いはずなのに、穴の内側だけは一メートルほど下から先が黒い。目が慣れるのを待っても変わらない。私は靴を脱いで、片方を落とす。
数える。
一、二、三、四、五。
音は、返ってこない。
私は靴を片方だけ履いた間抜けな格好で、しばらくそこに座っている。
そして、縁のところに、それを見つける。
綱だ。
縁の内側、指が届くあたりに、金具か何かの残った穴があって、そこに綱が結んである。引き上げる。軽い。三十センチほど引いたところで、先が上がってくる。
切れている。
私は端を手のひらに載せて、見る。
三本をより合わせた麻だ。刃物で切ったのではない。よりが解けて一本ずつ順に切れ、最後の一本が細く伸びきってから千切れている。こういう切れ方をするのは、荷重がかかり続けたときで、しかも一度にではなく、擦れながら、時間をかけてである。縄は縁で擦れる。擦れる場所は決まっていて、そこだけが痩せる。
私は縁を撫でる。
溝がある。浅いが、確かに、綱の太さのぶんだけコンクリートが減っている。
一度ではない。
何度も上げ下げしなければ、こうはならない。
私は綱の端を、結ばれたところに戻す。
さて、と思う。
私は縁に腰かけ、足を穴の中に垂らして、内側の壁に爪先を当ててみる。
滑らかだ。
もう少し下へ。
腕で体を支えて、体重を落としていく。爪先で内壁を探る。指がかりになるような凹凸を探す。型枠の継ぎ目が一本、爪先に引っかかる。そこに体重を乗せてみる。
乗る。
私は肘まで縁にかけたまま、もう一段下を探す。
無い。
継ぎ目は一本きりで、その下は、爪先が届く範囲にはもう何もない。私はいま、片手を縁にかけ、片足の爪先を継ぎ目に乗せている。この状態から下りるということは、手を離すということであり、手を離せば、次に掴めるものがあるという保証はどこにもない。
穴を作るのは、落とすためか、通すためか。
私は、どちらかだと考えていた。
三つ目がある。
見せるためだ。
私は腕に力を入れて体を引き上げ、縁に腹をつけ、膝をかけ、転がるようにして床に戻る。
仰向けになって、天井を見る。
「無理だ」
声に出してから、自分がそう言ったことに気づく。
私は起き上がり、四つの壁を、順に見る。一面には私が入ってきた扉があり、残る三面には何も無い。天井にも無い。床にあるのは、底の見えない穴だけだ。もう一度縁まで這っていって覗きこむが、さっきと同じで、一メートルほど下から先は黒い。
もう一度、壁を見る。
何も無い。
ここには、出口が無い。
出口が無いということが何を意味するのかを、私はいまになって、順を追って理解しはじめている。この部屋には飲むものが無い。食べるものも無い。綱も無い。穴の下に何があるかは分からず、落ちてみる以外に確かめる方法はなく、確かめたときにはもう戻れない。落ちるか、ここにいるか。ここにいて何が来るのかも、分からない。
胃のあたりが、冷たくなる。
片方だけの靴で、入ってきた扉の前に立つ。
閉じた扉は開かない。この規則には、これまで一度の例外もない。私は何度も確かめ、そのたびに正しさを更新してきた。正しさというのは、そういうふうに積み上がっていくものだ。
だから、これは無駄だ。
私は指をくぼみにかけて、押す。
開く。
私は、手を離しかけて、慌てて押さえる。しばらく、そのままでいる。
扉は開いている。私の手のひらの下で、確かに、内側へ向かって開いている。指先に伝わってくる重さも、ちょうつがいの渋さも、これまで押してきた扉と何一つ変わらない。
「……開いた」
私は開いた隙間から向こうを見る。
水の部屋だ。
水は無い。床が濡れている。壁も、私の背丈のあたりまで色が変わっていて、そこから上は乾いている。低いところにある二つの扉の、その下の隅に、細い水の筋が残っている。私がついさっき、腰まで、胸まで浸かった部屋である。
私は扉を押さえたまま、動かない。
閉じた扉は開かない。私はそれを、この世界における唯一確かな規則として扱ってきた。何度も確かめ、そのたびに正しさを更新し、その正しさの上に他の判断を積んできた。積んだものの土台が、いま抜けた。
考えられることはいくつかある。あの部屋には出口が無かった。出口が無い部屋を作るということは、そこで終わらせるつもりか、あるいは戻ることを想定しているかのどちらかで、後者なら扉は開いてよい。だとすればこれは例外ではなく、最初から規則の一部だったということになる。私が見ていなかっただけだ。
あるいは、扉が壊れていただけかもしれない。
私には、確かめる方法がない。
いや。
試せない。
確かめるには、もう一度あの部屋に入り、扉が閉じるのを待って、もう一度押してみるしかない。だがあの部屋に入るには、この扉まで上がらなければならず、この扉は水の部屋の高いところにあり、そこまで上がるには水が要る。
水は、無い。
私は敷居に腰かけ、両手でぶら下がって、手を離す。
床が足の裏を打って、膝までしびれる。頭の上で、かちり、と鳴った。




