↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
20/24

CAST(二)

開いた向こうは、暗い。


明かりが、まったくない。こちら側の部屋がこれだけ明るいのに、光は敷居のところで断ち切られたように止まっていて、一歩ぶんも向こうへ届いていない。手を差し入れてみると、手首から先が消える。引き戻すと戻ってくる。


これは、暗いのではない。


光を吸っている。


いや、そう言い切るには早い。均等に明るいこの部屋の照明が、そもそも私の理解していない仕組みで作られている以上、その光が向こうへ届かないことの説明も、私の理解の外にあるだけかもしれない。分からないものを二つ並べて、片方でもう片方を説明してはいけない。


私は敷居をまたぐ。背後で扉が閉まり、かちり、と鳴る。


暗い。


目を開けているのか閉じているのか、自分で確かめないと分からない程度に、暗い。まばたきをする。何も変わらない。手を顔の前で振る。何も見えない。


私は両手を横に伸ばす。右手が、壁に当たる。


これで足りる。


暗闇の中で人間が最も確実に失うのは、方向ではなく、自分がすでに通った場所の記憶である。同じところを何度も回り、回っていることに気づかず、やがて自分の足跡と他人の足跡の区別すらつかなくなる。これを防ぐ方法は一つしかない。壁のどちらか一方に手をつけ、それを絶対に離さないこと。


右手を壁につけたまま歩けば、必ず一周する。一周すれば、その壁にある扉は全部通ることになる。古典的な手法で、目新しいところは何一つないが、古典的な手法というのは要するにいまだに置き換えられていないということであって、いまでもこれ以上のものはない。


右手を壁につける。


歩く。


一歩。


二歩。


三歩目で、床がない。


爪先が空を掻いて、体が前へ落ちかける。


「うひゃあ」


私は右手で壁を押した。


尻から床に落ちる。痛い。


しばらく、そのまま座っている。


右足の踵から先が、床の縁より向こうに出ている。動かすと、何もない。膝を曲げて引き寄せ、両手を後ろについて、体をずらして下がる。尻の下に床があることを、手で確かめながら下がる。


十分に下がってから、私は仰向けに寝転がる。天井は、見えない。


穴がある。


落ちたらどうなるかは分からない。分からない以上、落ちるわけにはいかない。


私は座り直し、靴を脱ぐ。片方だけ持って、床に沿って前へ滑らせる。ざり、と鳴る。もう少し先へ滑らせる。ざり、と鳴る。もう少し先で、音が消える。


そこが縁だ。


私は靴を持ったまま、縁を壁の方へたどっていく。ざり、ざり、と鳴っていた音が、途中から鳴らなくなる。鳴らなくなったあたりで靴を横へ振ると、壁に当たる。


この穴は、壁まで達している。


床が無いのは部屋の中ほどだけではなく、私がいま右手をつけているその壁の、足もとまでなのである。壁づたいに前へ進めば、確実に落ちる。


「なるほど。素直に一周はさせてくれないわけだ」


靴を履く。


壁に手をつけて一周するという手順は、どちらの手を使うかを決めた時点で回る向きが決まる。右手なら時計回り、左手なら反時計回りだ。向きを変えるということは、それまでに数えた歩数と角の数を、頭の中で全部裏返すということであり、だからやりたくないのだが、床が無いのだからやるほかない。


一度だけだ。


一度だけなら、覚えていられる。


私は体の向きを変えて、左手を壁につける。


こんどは、爪先で床を撫でながら歩く。一歩ごとに、まず爪先で前を掃き、床があることを確かめてから体重を移す。遺跡で腐った床板の上を渡るときと同じ歩き方で、これをやると速度は普段の五分の一以下になるが、落ちない。速いか遅いかではなく、落ちるか落ちないかだけが問題なのだから、これでいい。


四歩で、左手がくぼみに落ちる。入ってきた扉だ。押す。動かない。


「こっちは外れか」


歩く。左手の下を、壁が流れていく。平らだ。継ぎ目が一つ、指の下を通り、また平らになる。


角に当たる。


一つ目の角までで、二十二歩。


さっきの部屋と、ほぼ同じ寸法だ。二歩ぶん足りないのは、私が慎重に歩いているせいで歩幅が伸びているのか、あるいはこの部屋がわずかに小さいのか、どちらとも決められない。決められないことは、決めない。


角を曲がって、歩く。


二つ目の壁の、十歩目あたりで、左手がくぼみに落ちる。


扉だ。


指を四本かけて、押す。動かない。引く。動かない。上下にも押してみる。動かない。


私は手を離し、壁づたいに歩き続ける。開かない扉について考えるのは、他の扉を全部試してからでいい。


角。


角。


四つ目の壁の途中で、またくぼみに落ちる。指をかけて、押す。


開く。


光が入ってくる。眩しい。


「ああ、明るいというのは、それだけでありがたい」


私は目を細めて、開いた扉の枠に手をかけたまま、振り返る。


黒い穴がある。部屋の中ほどから、私が最初に手をついた壁まで、まっすぐ切り取られている。細長い。縁は、定規を当てたようにまっすぐだ。


コンクリートが割れて落ちたのではない。最初からそういう形に作られた開口部で、縁には型枠を当てた跡が、こちら側の面にも内側にも、きれいに残っている。


私は少しのあいだ、それを見ている。


穴を作るのは、落とすためか、通すためか、どちらかだ。


私は敷居をまたぐ。


***


明るい。


同じ寸法、同じ材質、同じ均等な照明。壁は四面のうち二面に扉があり、天井にも床にも無い。ここまでは、前の二部屋から予想できる範囲に収まっている。


歩く。


足音が、しない。


私は立ち止まり、もう一度、踏み出す。


しない。


床を靴の裏で擦る。何も鳴らない。手を打ち合わせる。掌に衝撃はあるのに、音がない。壁に近づいて、拳の側面で叩く。硬いものを叩いたときの、あの手首まで返ってくる感触は確かにあるのだが、耳は何も受け取らない。


自分の呼吸も、聞こえない。耳を塞いだときには、血の流れる音が聞こえるものだが、それすらない。


「——」


声を出したつもりだ。


喉に震えがある。口の形も作った。だが自分の声を自分で聞くことができないので、私はいま実際に音を出したのかどうかを確かめる手段を持たない。人間は他人の声を耳で聞き、自分の声は耳と骨の両方で聞いている。その両方が働いていないということは、耳の問題ではない。


音が出ていないのか、出た音が伝わらないのか、伝わってはいるが私に届く前に消えているのか。


三つのうちどれかは、この部屋の中では決められない。


私は壁に手をついて、目を閉じる。


まずい。


体が傾いていく。自分では真っ直ぐ立っているつもりなのに、壁についた手にかかる重さがどんどん増えていく。慌てて目を開けると、部屋は水平で、傾いているのは私の方だった。平衡というのは、耳の中の器官だけで取っているのではなく、音の反射で自分と壁の距離を測ることでも支えられている。それが無い。


目を開けていれば立てる。


閉じれば倒れる。


覚えておく。


壁を叩いて空洞を探す、という手が使えない。


これは大きい。遺跡の壁の奥に空間があるかどうかを、我々は叩いた音で見る。詰まった音と抜けた音は、素人でも三十分も練習すれば聞き分けられる。私はこれを二十年やってきた。二十年ぶんの技術が、この部屋では一切役に立たない。


前の部屋では、壁を触ることが答えだった。


ここでは、触っても何も返ってこない。


私は扉に向かう。


一つ目。指をかけて、押す。動かない。


見ると、ちょうつがいが壊れている。上の一つが枠から抜けて、扉がわずかに傾いたまま、下の二つで引っかかっている。押しても引いても、傾いたぶんが枠に噛んでいて、それ以上どちらにも動かない。私は下端に足をかけて、体重で押し下げてみる。動かない。


二つ目。押す。


開く。


私は手を離さない。同じ失敗は二度やらない。片手で扉を押さえたまま、私はもう一度、部屋の中を見渡す。


そして、それに気づく。


扉の脇の壁に、線が引いてある。近づく。


縦の線が、何十本も並んでいる。爪ではない。私と同じように、何か硬い金属の角で引っ掻いたもので、深さは一定、間隔もほぼ一定、五本ごとに一本を斜めに倒して束ねてある。数を数えるときの、ごく普通のやり方だ。


私は数える。


七十二。


七十二本目までは、間隔も深さも乱れていない。


七十三本目から、乱れる。


線が浅くなる。長さも不揃いになる。五本ごとの束ね方が崩れ、途中から斜め線が入らなくなり、それでも縦線だけが続いていく。最後の十数本は、もはや線というより、壁を引っ掻いた跡でしかない。


そして、終わっている。


私はしゃがんで、床を見る。床には何もない。


この人物が何を数えていたのかは、分からない。部屋の数かもしれないし、眠った回数かもしれないし、何日ぶんかを数えていたのかもしれない。数えることそのものを目的にしていた可能性もある。数えている限り、自分がまだ順序のある時間の中にいると思える。


七十二までは、それが保てていた。


私は壁に、自分の鋲で一本だけ線を引く。七十三本目の隣に、離して引く。


続きではない、という意味のつもりだ。


扉をくぐる。背後で、かちり、と鳴った。


音が、戻ってきている。


「……ああ」


自分の声が、自分の耳に届く。それだけのことが、これほど確かなものだとは思っていなかった。私は意味もなく、もう一度「ああ」と言う。壁が返してくる。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。