CAST(一)
私は、正方形の部屋にいる。
正確には立方体だ。床と天井が同じ寸法で、四つの壁もそれと同じ寸法で、要するに六つの正方形を貼り合わせただけの空間である。こういうものを実際に見たのは初めてだが、こういうものが作られること自体は珍しくない。貯水槽、消音室、爆薬の試験施設。用途はいくらでもある。
立って、歩く。壁まで行って、そこから反対の壁まで、踵をつけて爪先を出す形で歩数を数える。
二十四歩。
私の靴で二十四歩ということは、おおよそ七メートルということになる。天井までも同じだけあるはずで、そう思って見上げると、確かにひどく高い。教室に入ったつもりでいたら実は倉庫だった、というときの感覚が近い。
扉を数える。四つある壁のうち、三つに扉がある。残る一つの壁には何もない。
天井にもある。真上ではなく、隅に寄ったところに、床のものとまったく同じ形の扉が、蓋のようにはまっている。床には、ない。
私は天井を見上げたまま、しばらく立っている。
扉に近づく。金属だ。叩くと、低く、詰まった音がする。厚い。それも、扉として要求される以上に厚い。
取っ手はない。かわりに、縁に沿って浅いくぼみが彫ってあり、指を四本かけられるようになっている。押すためのものか、引くためのものかは彫り方では分からない。
「いずれにせよ扉しかない以上、開かないと始まらないか」
指をかけて、引く。動かない。押す。
開く。
「先行きがあることは良いことだ」
私は手を離す。扉はゆっくり戻ってきて、枠に収まり、かちり、と鳴った。
もう一度押す。動かない。四本の指をかけ直し、体重を乗せて押す。動かない。
「なるほど。一度閉じたら、二度とは開かないのか。理屈はわからないが、結構な制限だ」
私は扉の前にしゃがみ、枠と扉の合わせ目に爪を入れてみる。入らない。紙一枚ぶんの隙も残っていない。押して開いたということは、ちょうつがいは向こう側にあるはずで、ならばこちら側からは仕組みに触れようがない。
これは、扉ではない。
扉の形をした一方通行の装置だ。
私は立ち上がる。残り二つの扉も同じように押してみたくなるが、やめる。
三つある扉のうち、私はすでに一つを開けて、そして閉めた。開けたのに、通らずに、閉めたのである。もしこの部屋の扉が全部で三つしかなく、押せば必ず開き、閉じれば必ず終わりだとすれば、私はいましがた、自分に残された選択肢を三分の一だけ捨てたことになる。
こういう失敗を、私は何度もしている。
現場でいちばん多い事故は、崩落でも落石でもなく、確かめたつもりの確認である。若いころ、ある墓の入り口を塞いでいた土を、構造を見るために一度だけ崩したことがあった。崩してから、その土の積み方こそが年代を決める唯一の証拠だったと気づいた。私はそれを報告書に書かなかった。書けなかった。あのときの、腹の底が抜けるような感じは、いまでもはっきり思い出せる。
だから、押さない。
かわりに、調べる。
材質はコンクリートに見える。手のひらを当てる。冷たくはあるが、地下にいるときのあの、骨まで来る冷たさではない。指先で撫でると細かい粒が引っかかり、爪を立てると白い粉がわずかに落ちる。混ぜてある砂利の粒が揃いすぎているのと、表面に流しこんだときの筋が出ていないのが気になるが、この二つは私の知らない工法であればどうとでも説明がつく。
つまり、コンクリートのようなもの、としか言えない。
明かりがある。どこから来ているのかは分からない。天井の隅にも、壁の上端にも、それらしい器具は見当たらないのに、部屋全体が均等に明るい。影が薄い。自分の手を床にかざしても、輪郭のぼやけた灰色が落ちるだけで、どちらに光源があるのか判別できない。
こういう照明を、私は一度だけ見たことがある。ある企業が出土品の撮影のために持ちこんだ、四方から回りこませて影を殺す装置で、あれは天幕のような布を張って作っていた。ここには天幕がない。
「保留だな」
明かりの出所が分かったところで、この部屋から出られるわけではない。
天井の、扉とは別の隅に、ざらついた一画がある。型枠の角まで材が回りきらなかったところで、砂利が表に出てしまって、そこだけ肌が荒れている。どんな現場でも隅にはできるもので、直すほどのものでもない。私はそれを見て、ここを打った職人は隅の締めが甘い、と思い、そのことだけを思って、目を離す。
天井のあの扉が向こう側から見て床の扉なのか、それとも私がいまいる床の裏側が誰かの天井なのか、という考えは面白いが、面白いだけで役に立たない。届かないのだから同じことだ。二十四歩ぶんの高さを、道具なしで上る方法は、私の知る限り存在しない。
私は道具を持っていない。上着もない。靴と、着ているものだけだ。ポケットに手を入れると、縫い目のほつれに指が引っかかる。それだけである。
調べたことは、記録する。紙も筆もないので、床に書く。靴の踵を床に押しつけて、ぐりぐりと擦る。黒い線が引ける。ゴムが削れて床に移っているだけだが、消えはしない。
部屋の中央に、正方形を一つ。その四辺のうち三辺に、短い線を引く。扉のある壁だ。線を一本、二重にする。私が開けて閉めた扉である。正方形の中には、小さな丸を書く。天井の扉のつもりだ。
しゃがんだまま、それを見る。
これで、この部屋はもう部屋ではなく、図になった。図になれば持ち運べる。私が覚えていられる限りにおいて。
もう一つ、やっておくことがある。
私は壁際まで歩き、いちばん下の、床との継ぎ目のあたりを選んで、爪を立てる。コンクリートのようなものは、爪では削れない。靴の踵で擦っても、黒い線しか引けない。
私は靴を脱ぐ。踵の内側に、小さな金具が入っている。以前、革の縫い目が擦れて痛むので、職人に頼んで打ってもらった鋲だ。これを角にして、壁を引っ掻く。
白い線が入る。
P. E.
二文字だけ書いて、手を止める。
誰も読まない。この部屋に他人が来る見込みは、いまのところ何一つない。にもかかわらず私がこれを刻んだのは、要するに、ここにいたのが名前を持った人間だったと、誰にともなく言い残しておきたいからである。
そう自覚したうえで、私はその下に、綴りを省かずに書き足す。
PETER EDWALD
靴を履いて、立ち上がる。
「では、行くか」
私はいちばん左の扉の前に立ち、指をくぼみにかけて、押す。




