ももよばやし(三)
音は、はじめは遠い。
笛と、太鼓と、それから何か、木を打ち合わせるような音。四つか五つ、いっしょに鳴っている。ばらばらに鳴っているのに、ちゃんと合っている。
節がある。
同じところを、何度も繰り返している。
わらしは膝を抱えたまま、板の目を見ている。板の目はもう見えない。見えないけれど、そこにあることは分かっているので、そのあたりを見ている。
音が近づく。
近づくといっても、まっすぐには来ない。あっちの方で大きくなって、それから小さくなって、しばらくすると別のところで大きくなる。街の中を、行ったり来たりしている。
そのうち、通りの音がまじりはじめる。
ずるずる。
何か重いものを引きずっている。ゆっくり、ゆっくり引きずって、家の前を通っていく。板のこっち側と向こう側は、たぶん壁一枚しかない。すぐそこを通っていく。
こつこつ。
こんどは硬い。石を叩くみたいな音が、いくつも重なって、細かく速く通り過ぎる。
ぱたぱた。
ざあ、と何かがこすれる。
かん、と高い音がひとつ鳴って、そのあと、それを笑うみたいな声が続く。
わらしは下を見ている。
ほおずきが、わらしの袖を掴んだままでいる。掴んでいる手が、少しずつ強くなる。爪が布ごしにあたっている。
ざるは、めずらしく喋らない。
なまずは壁ぎわに座っている。膝に肘を置いて、その上に顎を乗せて、じっと下を向いている。
音は、いつまでも続く。
そのうち、囃子が近くなる。
さっきまでは街のどこかで鳴っていたのが、通りの端の方から、こっちに向かって進んでくるのが分かる。太鼓の一つ一つが、腹に届くようになる。
近づいてくる。
板のすきまから、明かりが射す。
赤い。
細い線になって、部屋の中を横切る。線は畳の上を通って、壁を這い上がって、また消える。それが何本も、次から次へと通っていく。
線が動くたび、部屋の中の物の影が、ぐるりと向きを変える。
わらしは、下を見ている。
畳の上を、赤い線が右から左へ流れていく。それは見える。見えるけれど、それは下だ。だから見ていていい。
音が、まん前に来る。
笛が高く跳ねる。太鼓が細かく打たれる。手を叩く音がして、それに合わせて、たくさんの足が地面を踏んでいる。
歌のようなものも聞こえる。
言葉は分からない。
ほおずきが、わらしの袖を離して、着物の脇を掴む。
囃子は、家の前で、少しゆっくりになる。
「しやくらどう」
外で、声がする。
子供の声だ。
わらしは、袖を掴まれたまま、動かない。
言葉ではない。わらしの知っている音の並びではない。覚えておこうとしても、口の中で崩れて、形にならない。
「しやくら、どー」
もう一度、聞こえる。
さっきと同じ音のはずなのに、少し違って聞こえる。どこが違うのかは、分からない。
明るい声だ。囃子の音のあいだを縫って、はっきり聞こえる。
ざるは下を向いている。
ほおずきも下を向いている。
二人とも、何も聞こえなかったみたいに、そのままでいる。
「しゃくらど」
なまずが、顔を上げる。
わらしには、なまずの顔が見えない。暗いからだ。見えるのは、壁ぎわのかたちが、さっきまでと違う形になったということだけだ。
下を向いていたかたちが、上を向いたかたちになる。
「なまず」
こんどは、すぐ外だ。
板の向こう。手を伸ばせば届くところ。
なまずが立ち上がる。
早い。
畳を蹴る音がして、戸が開いて、つっかい棒が転がる音がして、土間に降りる音がして、外の戸が開く。
風が入ってくる。
赤い明かりが、まっすぐ部屋の中まで入ってくる。
明かりの中に、なまずの背中がある。小さい。寝ぐせが二本、跳ねている。
それが走り出す。
戸は、開いたままだ。
外の明かりが、部屋の中を照らしている。
赤いのと、黄色いのと、白いのが混ざっている。ゆらゆら動いている。
通りを、たくさんのものが通っている。
わらしは、見ない。
畳を見ている。
畳の上を、影が次々に横切っていく。長いのも、丸いのも、細長くて途中で折れているのもある。足が四つあるように見える影も、足が見あたらない影もある。影は畳の目の上をすべって、壁にぶつかって、そこで縦に伸びて、消える。
そのうち、影がぜんぶ、同じ方へ動きはじめる。
囃子も、同じ方へ動く。
太鼓が速くなる。
笛が高くなる。
さっきまで家の前でゆっくりになっていた音が、いっせいに通りの向こうへ流れていく。足音がそれを追う。引きずる音も追う。こつこつも、ぱたぱたも、みんな同じ方へ行く。
遠くなる。
だんだん遠くなる。
もっと遠くなる。
聞こえなくなる。
戸は開いたままだ。
外は暗い。
明かりがぜんぶ行ってしまったので、通りには何も見えない。
ほおずきが泣いている。声を出さずに泣いている。口を大きく開けているのに、音が出ていない。息を吸うときだけ、ひゅっと鳴る。
ざるは、口を押さえたままだ。
三人とも、動かない。
誰も戸を閉めに行かない。
風が入ってくる。畳が冷たくなっていく。ほおずきの手が、わらしの脇を掴んでいる。爪が食い込んでいる。
長い。
外で、何も鳴らない。
風だけが、開いた戸のところで小さく鳴っている。
板のすきまが、灰色になる。
わらしは膝を抱えたまま、それを見ている。すきまは細い線で、はじめはただ黒より少し薄いだけだったのが、だんだんはっきりしてくる。
灰色から、白っぽくなる。
畳の目が見えてくる。
ほおずきの手が、ゆるむ。ほおずきは、いつのまにか横になって、口を開けて眠っている。頬が乾いて、涙のあとが白く残っている。ざるは壁にもたれて、首を横に倒して眠っている。
わらしは立ち上がる。
膝が痛い。ずっと同じかたちでいたので、伸ばすと、ふくらはぎがつっぱる。
戸のところまで歩く。
外の通りは、灰色だ。
何もない。
引きずった跡も、足の跡もない。土は平らで、箒の筋が、昨日と同じところに残っている。
わらしは、便所を探す。
土間を奥へ行くと、裏に出る戸がある。かんぬきはかかっていない。押すと開く。
裏は、狭い。
家と、隣の家の壁にはさまれた四角い場所で、土が剥き出しになっている。隅に木の桶が伏せてある。その向こうに、板でできた小さい建物がある。
わらしはそこに入って、用を足す。
便所から出る。
顔を上げる。
黒い。
壁のあった場所が、黒い。
わらしの目の高さから、ずっと上まで、黒くて、細かくて、もじゃもじゃしたものが立っている。
近い。
手を伸ばせば届く。
わらしは、上を見る。
もじゃもじゃは、上に行っても続いている。隣の家の屋根の高さを越えて、まだ続いている。屋根の向こうの白い空を、それが四角く欠けさせている。
せいたかのっぽだ。
いちばん上に、丸いものがある。
顔があるはずのところには、毛がある。
毛の下がどうなっているのかは、分からない。
風が吹く。
毛が、ぜんぶ同じ方へ倒れる。倒れると、その下にもっと短い毛があるのが見える。
匂いがする。
濡れた獣の匂いだ。
わらしは、動かない。
見ている。
見ている、と分かっている。
のっぽが、動く。
足が一つ、うしろに下がる。
地面が、どん、と鳴る。
のっぽの背が、少し遠くなる。
それから、下がってくる。
上にあった丸いものが、まっすぐ下りてくる。屋根の高さより下まで。壁の半分より下まで。わらしの顔と、同じくらいの高さまで。
近い。
毛が、風でこっちに揺れて、わらしの前髪にあたる。
わらしは、まばたきをする。
のっぽは、それきり動かない。
わらしは、一歩さがる。
のっぽは、動かない。
もう一歩さがる。
動かない。
わらしは戸まで下がって、後ろ手にそれを探って、押して、中に入る。
戸を閉める。
外で、地面が鳴る。
一つ。
二つ。
遠くなる。
わらしは土間に立っている。
膝が震えている。震えているのが、自分で分かる。手で押さえてみるが、手も震えているので、あまり変わらない。
しばらく、そうしている。
震えが小さくなる。
小さくなって、やむ。
わらしは奥の部屋に戻る。ほおずきとざるは、まだ眠っている。
壁ぎわが空いている。
なまずが座っていたところだ。
畳に、四角い跡がついている。ずっと同じところに座っていたので、そこだけ目がつぶれている。
わらしは、その隣に横になる。
板のすきまが、白い。
外で、鳥は鳴かない。




